第5話:書類
あれから、眠れない夜が続いている。
私は、エレノア・ユンカースである。だが、肉体はイザベラ・ベールである。
私という個人は、精神のものなのか、肉体のものなのか。
また、ドツボにはまり掛けた思考を頭を振って追い払う。
夜は、何かと気持ちが落ち込みやすい。気分を入れ替えようと、部屋を出る。
深夜という事もあって、魔王城内は静まり返っている。それでも、窓の外を見れば篝火が焚かれ、警備の者達が巡回している姿が目に入る。
昨日、ついに勇者が攻めてきたという報告があった。
勇者が聖剣を抜いて、パーティーを結成して、というのを考えると妥当なタイミングだ。
報告を受けた魔王は、冷静に受け止めているように見えた。私の怪我の原因に勘付いているだろうから、ついに来たか、という心持ちなのだろうか。
反対に、マルコはかなり驚いていた。それから烈火の如く怒りだした。
――絶対に魔王様は死なせない、と。
特に目的地もなくフラフラと歩いていたが、気付けば魔王の私室に辿り着いていた。だが、警備の人間は隣の執務室前に立っている。
「お疲れさまです」
「お、お疲れさまです!」
深夜という事を忘れているのか、大きな声で返してくる。
「魔王様は、まだ仕事を?」
「はいっ!」
「そう……」
彼に取り次いでもらい、入室の許可が出たのでそっと室内に踏み込む。
前回から数日が経過しているが、部屋の中に出来上がった紙束にあまり変化は感じられない。前回は角だけだったが魔王の頭が見えるようになったかな、ぐらいの差だ。
「どうした、ベール。こんな遅くに」
「魔王様こそ、こんな遅くまで仕事だなんて、身体に障ります。……勇者も、現れたので、ご自愛を」
私の言葉は、尻すぼみに消えていく。
殺そうと企んでおきながら、ご自愛下さいなんて私が言えた義理ではない。
だが、魔王の部下、イザベラ・ベールとしては正しい言葉の筈だ。
部屋を照らす、魔法で生み出された光源が揺らめくように、私の気持ちが揺れ動いているのを感じて、頭を振る。何の為に部屋を出てきたのか、これでは意味が無い。
「魔王様、この部屋の書類で、私が見ては不味いものはありますか」
「いや、特には無いが」
「では、その仕事。私にお手伝いさせて頂けませんか?」
「えっ? ……いや、でもこんな遅くに」
「今無性に数字で頭を埋め尽くしたい気分なのです。そして遅いから駄目というなら、魔王様だけいいというのはズルイです」
「ズルイって……」
「お願いします」
「まぁ、ベールが構わないなら、私はむしろ有り難いのだが」
「ありがとうございます」
「いや、だから感謝するのは私の方なのでは……?」
頭に疑問符を浮かべつつも、魔王は席から立つと扉の外に待機していた警備の者に二言三言告げる。警備の彼は一つ頷いていなくなったと思ったら、隣にある魔王の私室から机と椅子を運んできてくれた。
紙束をどかして、それを執務室の中央付近に置いてくれる。
「じゃあ、ベールには計算ミスの確認をお願いしてもいいかな」
「畏まりました」
赤ペンと紙束を受け取り、資料に目を通していく。間違いがあったらチェックを入れて、正しい数字に訂正する。それを黙々と繰り返す。
どれくらいの時間が経ったのか。部屋を照らす魔法の光以外に、窓から差し込む陽の光が書類を照らす。
私の前には一つの大きな山と、小さな紙束が置かれている。大きい方は訂正があった書類、小さい方は間違いの無い書類だ。
――ほぼ間違いがあるってどういう事?!
ぐっと、両腕を伸ばすと、パキリと骨が鳴る。集中し過ぎて流石に疲れたので、目頭を揉む。
まさか魔族に転生して、書類仕事をする事になるとは夢にも思わなかった。いや、魔族に転生する事自体をまず考えていなかったけれども。
「ベール、すまない。すっかり付き合わせてしまったな」
「いえ、いい気分転換になったので」
「そ、そうか」
いつの間にか執務机の上に置かれていた紙の山が減り、困ったように眉根を寄せる魔王の顔が見えるようになった。これは、ちょっとした達成感があるな。
「後もう少しで計算確認は終わりそうなので、もう一息頑張ります」
「そうか……頑張れ」
魔王の応援に一つ頷いて、気合を入れ直してから再度計算との格闘を繰り広げる。
今までで一番の強敵が眼の前に現れた。
まず字が汚い。それから、もはやミスしないと死んでしまうのかと問いたいくらいに、一行につき一度は間違いを挟んでくる。
一体誰が作成したんだと署名欄を見て、マルコの名前を見つけてものすごく納得した。
あの男に書類を作成させては駄目だ……。
*
その後暫くマルコ地獄が続いて、私の体力はすっかり奪いつくされてしまったようだ。
ハッと気づいて、目を開ける。いつの間に目を閉じたのか、それすら覚えていないが、目を開けた先に広がる天井にも見覚えが無い。
恐る恐る身体を起こし、周囲を見回す。無駄の無いすっきりと整えられた部屋は、頭のどこかに引っ掛かるものがあるが、寝ぼけた頭はすんなり答えを引っ張り出してくれない。
寝ぼけ眼をこすりつつ、部屋の扉をそっと押し開けて扉の外に顔を出す。
隣の部屋前に立つ警備兵と眼があった。いつの間にか、深夜のハイテンション警備兵と変わっているなと思いながら、ようやくこの部屋が誰の部屋なのかに気付いた。
「お、お疲れ様です」
「お疲れ様です、ベール様」
「魔王様は、ずっと仕事を?」
「いえ、ベール様を部屋に運ばれた後、一度仮眠されたようですが」
「そう……ありがとう」
顔を引っ込めて、そっと扉を閉める。
部屋を見回し、ソファの上に折りたたまれたブランケットが置かれているのを見つけて、私はその場に崩れ落ちた。
自分から手伝うと言って先に寝落ちし、しかも運ばせたうえ自分はベッドでぐっすり眠りこけて相手をソファで寝させるなんて!
相手が魔王だとか敵だとかそんなのは関係無い、人として駄目だろうがッ!
と、ひとしきり床をバンバン叩いて反省した後、身形を整えて隣の執務室に向かう。
取り次いで貰って部屋に入れば、幾分すっきりした紙山の向こうから、魔王が穏やかな笑みを浮かべて迎えてくれた。その笑みが辛い。
「魔王様、申し訳ございません。自分から手伝うと言っておきながら、先に寝てしまい、挙句の果てにベッドまで使わせていただき……」
言っている内に凹んできて、思わず目を伏せる。
だから近づいてきていた魔王に気付くのに、一歩遅れた。
「ベール」
その声が予想以上に近い所から聞こえ、驚きで目を開けるとすぐ傍に魔王の整った顔があって息を止めた。
魔王は私の頭に手を乗せると、優しく撫でる。その顔には、先程までと変わらない穏やかな笑みが浮かんでいる。
「手伝ってくれて助かった。ありがとう」
裏表のない、真っすぐな感謝の言葉。
それはまるで、あの勇者のような――。
不意に、扉がノックされた。
私の頭を優しく撫でていた手が下ろされて、扉の方へと向かっていく魔王の背中を、もやもやしつつ見つめる。
だが、外に居た警備の男が何事かを喋る内に、魔王の表情がどんどん強張り、問題が起きた事を察した。そして、このタイミングで起きる問題なんて、限られる。
「魔王様……勇者が、村を攻めたのですか」
私の言葉は、確信というには断定し過ぎていたかもしれない。
それでも、現状と過去の記憶を結び付ければ、それ以外に考えられない。
「……あぁ」
魔王が、暗い表情でこちらを振り返る。
私は、唇を噛みしめた。