第2話:魔王
マルコが扉に手をかけるのを、ドキドキとうるさい鼓動を抑えながら見守る。
重苦しい音を響かせて開いた先、赤い絨毯の道を進んで数段上がった所に置いてある王座に腰かけるのは、夢にまで見た、でも姿を知らない、討伐対象者が居た。
長いストレートの黒髪に、側頭部から伸びて渦を巻く立派な角。恐ろしい程に整った美貌は、人間の年齢で二十代ぐらいに見えた。
コバルトブルーの、濃い青の瞳が私に向けられる。
「ベール、病み上がりに足を運ばせて悪かった」
想像よりも数倍、柔らかい声音。
整いすぎているあまりに冷たい印象も与える表情に、その柔らかな声が乗った時の破壊力。
ごくりと、飲みこむものもないのに、何かを飲み込む。
おそらく飲みこんだのは言葉だ。私は何を言えば良いのか分からず、口を開いては閉じてしまう。
「魔王様、ベールは記憶ソーシュツ? らしいから、今は大変なんだって」
「記憶喪失な。話は聞いている」
マルコに背を押されて初めて、扉を通り抜ける事も出来ずに立ち尽くしていたことに気づく。
慌てて一歩、扉をまたいで踏み込む。
「無理に思いだそうとする必要もない。暫くは不便な思いをするだろうが、マルコ、手伝ってあげるように」
「大船に乗った気でいていいぞ、ベール」
「あ、ありがとう」
一歩踏み出した勢いで、二歩三歩と続ける。
魔王に近づくたびに、ひりひりと皮膚を撫でる感触に慄く。
これは、魔力だ。
膨大な力が、魔王の周りを漂っている。
「本当に、覚えていないのだな」
その声音に、微かな笑いを感じ取って、いつの間にか落ちていた視線を再度魔王に向ける。
魔王は、口元に浮かんだ笑みをそっと手で隠した。
「以前のベールだったら、礼は言わないだろうな」
「俺は今のベールの方が、優しくて好きだぞ?」
無邪気な笑みを浮かべて言うマルコを見て、魔王も目元を和らげる。
「そうだな。まるで別人と話しているみたいだ」
さらりと言われたその一言に、呼吸の仕方を忘れる程に驚いた。
大丈夫、中身が入れ替わった事を魔王は気づいている訳ではない、と自分に言い聞かせる。
だが足はまるで凍り付いた様に動かない。これ以上魔王に近づく事を拒否している。
「だが、まだ顔色が悪い。無理に呼んですまなかった。もう無事だとは聞いていたが、酷い怪我だったから念の為様子を見ておきたかっただけなんだ。ゆっくり休むといい。マルコ、部屋まで送ってやってくれ」
「ベール、大丈夫か? きついならだっこしてやるぞ?」
今にも抱き上げられそうな気配を感じて、じりじりと後ずさる。これは決して、魔王の気迫に押された訳ではない、と自分に言い聞かせる。
「だっこはやめてやれ」
「じゃあ肩車か?」
「……ベール、すまない。人選を間違えたかもしれない」
マルコが、ぶんぶんと尻尾を振りながら近づいてくる。頭の耳はピンと立っているが、そんな付属品達よりも、爛々と輝く金色の瞳が雄弁に物語っている。
この野郎、人が決死の覚悟でこの場に立っているというのに、楽しんでいやがる……。
そして魔王よ、間違えたかもじゃなくて、間違えていると断言して欲しい。
まだそんなに親しく過ごしていないが、マルコは看病とか案内とか、そういうの得意なタイプじゃない。
勇者パーティーに居た、騎士の男を思いだす。
最初の頃、彼は魔法を馬鹿にしていた。敵が怖くて近づけない、軟弱者の戦い方だと私を見下していた。
確かに、彼は敵と相対した時誰よりも素早く敵に近づき攻撃を仕掛けていた。
だが魔法の射線だとかそんな事を全く考えない彼の位置取りは、私にとっては邪魔でしかなかった。
つまり脳筋。
マルコにもその匂いを感じる。
「ベール、大丈夫だ。優しくする」
ニッコリと、満面の笑みを浮かべるマルコがにじり寄ってくる。
私はゆっくりと後ずさり、しかし背中を壁に押し返されて初めて追い詰められていた事に気づいた。
ハッとした時には、マルコが勢いよく踏み出す。その勢いは決して怪我人を労わっての行動とは思えないほどに、機敏で鋭く、ぶつかられたら死ぬかもしれないと思わせた。
思わず目をつむって身構えたが、衝撃はいつまでも訪れない。
恐る恐る目を開けた先。
目の前には艶やかな漆黒の髪。それを上に辿っていけば、立派な巻角が生えた頭頂部。
無防備に晒された、その後姿。
「マルコ、ベールは病み上がりだと言っただろう。馬鹿者」
怒っているような言葉で、しかしその声は柔らかい。不出来な弟を叱る様な物言いだ。
「だから運んでやろうと思って」
「嫌がっているのを無理矢理やってどうするんだ」
魔王が、マルコに説教をしているその間。
私の眼前には、殺してやろうと思っていた魔王の背中が晒されている。
前世であと一歩という所で倒れ、見る事の出来なかったその背中。
今この世界が、私の知っているあの時の過去ならば、今も勇者達が狙っているのだろう魔王の命。
それが、手の届く目の前で、無防備に晒されている。
ゆるゆると、手を持ち上げる。この距離で魔法を使えば、まず間違いなく当てられる。
だが、喉がカラカラに乾いて言葉が出て来ない。
そうこうしている間に、魔王がくるりと振り返った。不自然に持ち上がった私の手を気にする事も無く、苦笑を浮かべている。
「ベール、すまないな。マルコも悪気がある訳ではないんだ。その……ちょっと考えが足りないだけで」
「いえ、私は……」
何と言えば良いのか分からなくて、言葉が途切れた。
そのまま俯いてしまうと、私と魔王の足下が視界に入る。これ程の距離に、倒そうと思っていた者がいるというのに。
不意に、頭の上に何かが触れる。
びっくりして顔を上げれば、魔王の手が私の頭を撫でていた。
「さっきも言ったが、無理に思いだそうとする必要は無い。記憶が無いという不安がどれ程のものか、私には想像もできないけれど、そなたを守るのは私の仕事だ。安心して欲しい」
「魔王、様……」
「今はまず、身体を治す事。その後の事は、またその時にでも考えればいい」
優しく私の頭を撫でる魔王の手が、離れていく。それを、思わずじっと見つめてしまう。
魔王が微かに、口元に笑みを浮かべる。まるでもっとと強請っているように見えるのかと気づいて、慌てて俯いて顔を隠す。
「マルコ、普通に、だっこもおんぶもなく、部屋に送るように」
「はーい」
魔王の気配が、傍から離れていくのと入れ替わりに、マルコが私の前に立って手を取ってくる。
「じゃ、戻るぞベール」
そう言って軽く引っ張られるままに、マルコの後に続いて謁見の間を出る。
後頭部に、魔王の視線を感じた。
*
「じゃあベール。魔王様が言っていたからな、無理すんなよ」
「ありがとう、マルコ」
マルコは手を繋いだまま私を部屋の前まで案内すると、そのまま去っていった。
私は部屋の中に入ると、ベッドの上に倒れ込む。
魔王に会ったのに、何もできなかった。
チャンスが無かった、なんてことは決してない。
むしろ、一世一代の大チャンスだってあった。
なのに、私は何もできなかった。
その原因は何か?
私に覚悟がなかったのか? この身体の本来の持ち主、イザベラ・ベールの意思が残っているのか?
もし後者だった場合、ベールの意思が完全に戻るのか定かではないし、エレノア・ユンカースという存在が消滅する可能性もある。
そうなったら、私はどうなるのだろうか。
私は、一体誰なのだろう。
柔らかな枕に顔を埋める。
一度死んだ身だ。今更消滅の一つ二つ、怖くない。
そう、何度も何度も頭の中で唱える。
なのに、ドキドキと早鐘を打つ心臓は、落ち着いてはくれなかった。