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第九話

 《二月 二十三日 土曜日 午前十一時半》


 実の妹を姉が平手打ちする。これは日常茶飯事なのかもしれない。ドラマとかではよく見る光景だ。でも俺に兄弟は居ない。リアルでその光景を見た事のない俺は、ただただ不満だけが募っていく。何故姉が妹を殴るのだ。姉なら妹を守るべきだろうと。


「ちょ……あんたいきなり何を……」


「君は黙ってなさい」


 予想よりも低い声で言い放たれるその言葉に、俺は言われた通り黙ってしまう。凄まじい迫力。うちのレスリング部顧問とどっこい……いや、それ以上だ。


「花音、帰るわよ」


「お、お姉ちゃん……! 待って! ちょっと待って!」


 そのまま花音の手を掴んで、無理やりに引っ張っていくお姉さん。俺は数瞬、頭が追い付かず混乱していたが、花音が嫌々連れていかれてしまうと思うと、ようやく声が出た。


「ま、待ってください! 一体、何なんですか!」


 お姉さんは俺の声に振り返り、まっすぐに見つめてくる。いや、睨みつけてくる。やばい、怖い。まさに蛇に睨まれた蛙だ。俺は全く動けない。


「貴方……花音を助けてくれた子?」


 俺は情けなくも声が出ず、その質問にただ頷く事しかできない。

 今まで地獄を見てきたと思っていた。高校三年間、拷問のような厳しい練習に耐えてきた。顧問にド叱られながら、必死に文字通り血と涙を流してきた。でも違った。俺が体験してきた事柄など、所詮部活なんだと思い知らされてしまう。どんなに厳しくても、俺達は守られていた。顧問に、学校に。でも今は違う。このお姉さんに対して、俺を守ってくれる人は誰も居ない。俺は今、一人でここに立っている。


「妹を助けてくれてありがとう。また後日、正式にご挨拶に向かうわ。でも勘違いしないでね。妹は貴方と遊んでる暇なんて無いの。それじゃあ」


「お、お姉ちゃん……! 待って……待ってってば!」


 駄々を捏ねる花音を、淡々と引っ張って連れて行くお姉さん。一瞬、花音が俺の目を見た。その目は……泣いていた。確実に、俺に助けを求めるように……涙を流していた。


「待って……待ってください! 一体なんなん……」


 お姉さんは再び立ち止まり、振り返ってくる。その表情は一変していた。先程は営業スマイルを浮かべていたのに、今はただただ……無表情。しかし鋭い目線だけは変わってない。


 花音の手を離し、お姉さんは淡々と俺に近づいてくる。俺は動けない。微動だに出来ない。

 そのまま俺の耳元に口を近づけて来るお姉さん。そして……


「悪いのは耳? それとも頭? もう一度分かりやすく言うわよ。二度と妹に近づかないで」


 俺は汗だくで立ち尽くしていた。お姉さんの顔を見る事も出来ず、ただただ地面だけを見つめている。何も出来ない。指先すら動かせない。


 それから花音が姉に抗議する声が聞こえたけど、俺は動く事は出来なかった。


 なんとなく、こう思ってしまった。あの人は知っている。本当の地獄を……本当の絶望を……。




 ※




 ようやく動けるようになり、自宅へと帰る俺。すると玄関の前に、宗次郎を抱いた堺が待っていた。何故堺が? 帰ったんじゃ……。


「ほら、宗次郎寂しがっとったで」


「ぁ、あぁ……」


 震える手で宗次郎を抱きかかえる俺。暖かい宗次郎の体が、凍り切った俺の体を溶かしてくれる。あのお姉さんによって凍らされた、俺の心も体も……。


「……やっぱり……言っといた方がええと思ってな……アンタ、何もしらんから」


「な、なにを……? 何の話だ?」


「庄野 花音ちゃんの事や。私も話したのは今日が初めてやけど……あの子の事は噂でよく聞いてたんや」


 噂? 一体何の……っていうか何の話だ。


「とりあえず家ん中入り。あのお姉さんにビビりまくって……震えてるやん」

 

「あ、あぁ……」


 堺と共にリビングへと赴き、俺は宗次郎を抱きかかえながら毛布に包まる。何故か寒くて寒くて仕方ない。あぁ、汗掻いたからか……。


「まあ、とりあえず……庄野 花音ちゃんは、三年の始めにウチの高校に編入してきた子や。アンタが知らんのも無理ないけど……私は学校でチラホラ見て、色々噂聞いてるんよ。本当やとは思わんかったけど」


「三年で編入? なんでそんな……っていうかウチの高校、結構なレベルだろ。三年で編入試験なんて……」


「そこは楽勝やったらしいで。あの子、相当に頭良いらしいわ。まあそれはさておき……どっから漏れた噂か知らんけど、あの子には色々と背びれ尾びれ付いててな」


 何を勿体着けてるんだ。いいから話せ……と言おうとして盛大にクシャミする俺。その拍子に宗次郎は俺から逃げて堺の膝の上に。あぁ、宗次郎……俺を暖めておくれ……


「私が最初に聞いた噂っちゅうのが……庄野 花音ちゃんは卒業式を迎えれへんっちゅうもんや」


「……? なんで? そんなに頭いいなら単位取れない筈ないだろ。もしかして出席日数……いやいや、編入してきたのに、んなアホな事は……」


 堺は宗次郎の背を撫でながら、俺の目を真っすぐに見つめてくる。この堺は……あれだ。真面目な話した後、泣いちゃう堺だ。一年の頃、堺は上級生から嫌がらせを受けていた。空手を幼い頃から習っている堺が生意気とか……意味の分からない理由で。その相談を受けた事が、堺と仲良くなるキッカケだった。俺はレスリング部の先輩にそれを相談し……それから一切、堺への嫌がらせは止まった。あの先輩達がどのような方法を用いたのかは想像もしたくないが。


 その時の堺だ。俺に相談をしてきた……堺の顔だ。全部吐き出した後、堺が泣いてしまった事を覚えている。俺は……覚えている。


「大地……アンタ、あの子の事、好きか?」


 そうだ、俺はその言葉をハッキリと言った事は無かった。花音の事を好きか……どうか。

 

「……俺は……好きだ……」


 ハッキリと言った。堺の前で。俺の事を誰よりも気にしてくれている女子の前で……


「なら……言うわ。卒業式迎えれへんって言うのは……単位とか出席日数とかの問題やない。あの子が……死んでしまうからや」


「……は? ちょ、待って……どういう……」


「もう、これは噂ちゃう。今朝あの子と話した時、確かめたんや。あの子は不治の病で……余命は……二月の始めやったそうや」


 余命……余命?

 一体何の話だ。なんでいきなりそんな話になる? 不治の病ってなんだ。花音が? そんな馬鹿な、あんな元気に……宗次郎抱いて喜んで……


「でな、あの子の体はもうボロボロらしいわ。今は劇薬で痛みを抑えてるらしいけど……」


 劇薬? 待て、そんなの聞いてない。なんでいきなりそんな……

 花音が死ぬ? そんな馬鹿な。そんな筈がない。まだ花音は高校生で……来月卒業だけど、まだ全然、これから色々……


 体に寒気が走る。というか寒い、寒くて寒くて……たまらない。頭もなんだか急にボーっと……


「……大地? あんた、なんか顔赤くない?」


「いや、全然……」


 そのまま何だか何も考えれないまま、ちゃぶ台に突っ伏した。

 

 頭が痛い……寒い……これは……あの中だ。

 

 花音と初めて出会った時……あの海の中と同じ……


 寒くて暗くて……ひたすら冷たくて痛い……海の中と……


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