第六話
《二月 二十二日 金曜日 午後七時半》
晩御飯を食べ終え、お腹ポンポコリンになった俺達。主に俺と宗次郎だ。今は俺の腹の上に宗次郎が寝そべり、俺もダラしなく大の字で床に横になっている。ちなみに庄野さんは食器洗い……。
言い訳では無いが、食器を洗うのは俺がやる! と一応主張したのだ。しかし庄野さんは
『いえ、私は織田信長ですから。自分のやりたいように生涯を貫きます』
なんか良くわからん理由で食器洗い権を奪い取られてしまった。しかし良く良く考えれば、これは相当にマズい状況なのでは……と俺は思考を巡らせる。
庄野さんの作る手料理は最高だという事が分かったわけだが、飯を食う前……俺は庄野さんが出してきた婚姻届など破り捨ててしまえばいい、とさえ思っていた。だが今は、庄野さんが俺の嫁さんになってくれるなら最高じゃないか……と思ってしまっている。
男は胃袋を掴まれたら終わりだ。それを自分で実感する日が来るとは思わなかった。このまま俺は庄野さんという嫁を迎えてしまうのだろうか。いや、最高じゃないか。もはや道はそれしかない。
「あらあら、食べた直後に寝ると牛になっちゃいますよー」
「大丈夫です……俺は猫になるので……」
食器を洗い終わった庄野さんがリビングに戻ってきた。エプロンを外す姿はもはや……妻。マイワイフ。って、やばい、やばすぎる。俺はすでに洗脳されつつある! このままでは流されてしまう!
俺は体を起こし、ちゃぶ台の前に座り直しながら庄野さんへと話し合いを求める。
「しょ、庄野さん。少しお話があるのですが」
「はい、なんでしょう」
「あの婚姻届の事で……」
やっぱり婚姻……は行き過ぎだ。俺はまだ結婚するには早い、というか働いてすら居ないんだ。経済力皆無な俺がどうやって庄野さんを守れるのか。それに……子供とかできちゃったら……
「やっぱり俺達には早すぎる気もしないでもない……というか、俺もまだ大学とかに進もうとしてる時期だし……」
「あぁ、はい。それは大丈夫ですよ。とりあえず……既成事実作れればそれでいいので……」
ぎゃー! なんか怖い事言いだした! というか、庄野さん本当に今日から家に住むのか? 不味い、俺のハートが持たない。このままでは庄野さんにハートをジャックされてしまう。俺の恋心が奪われてしまう!
いや、落ち着け。既成事実云々は冗談に決まってる。俺達は出会ったばかりで、お互いの事など何も知らないんだし。
「と、とりあえず庄野さん、今日はもう帰るでしょう? 家まで送りますよ」
「あ、いえ。宿泊道具は持ってきたので。大丈夫です」
……宿泊?
「え、ホテル? この辺りにホテルなんてあったっけ……」
「いえいえ、私……これからずっと、香野さんの……この家でお世話になりますので」
なんですって。
「えー……ちょっと待たれよ。庄野さん、貴方には俺が少女に見えるのか?」
「うーん、見えなくも無いですね。素直じゃない所とか、まんま……めんどくさい女じゃないですか」
男も素直じゃない奴いるの! というかそういう話じゃなくて……
「庄野さん、俺も男だ、狼だ、シベリアトラだ」
「どれですか」
「そんな俺と一緒にお泊りなんてしてみろ……どうなるか分からないぞ」
「わかりました、ベッドにいきましょう」
ぎゃー! そうだった! 庄野さん肉食だった!
不味い、これでは前言を撤回せねばならない。狼でシベリアトラはむしろ庄野さんだ。それに対し、俺は可愛い小鹿に等しい存在。同じ檻に閉じ込められて食われるのは俺の方だ。
「え、えーと……ちなみにだが庄野さん……。親御さんの許可とかは……」
「勿論取ってあります。香野さんのご両親の許可もばっちりです」
おのれ……あのご両親め……。一体何考えてやがる。思春期真っ盛りな息子の前にこんな美少女を……。いや、待て……女子というのは一貫して苦手な物がある筈だ。そう、このボロ家ならではの……
「あの、庄野さん。言い忘れてたけど……この家、出るんだ」
「Gですか? 大丈夫ですよ、私の家にも良く出ますよ。一時期、一匹ずつ捕まえてペットボトル一杯にしてたくらいですから。まあ、姉が救急車で運ばれるレベルで錯乱したから捨てられましたけど……」
「なんてことしてんだ。お姉さんに全力で謝れ。そして出るのはGでは無く……幽霊です」
ビクっと体を震わせる庄野さん。これは効果ありだ! ぶっちゃけ、Gをペットボトル一杯にする女子とかの方が怖すぎるが、人間は理解できない物を目撃すると恐怖を感じずにはいられない。Gをペットボトル一杯にするのも理解出来ないが。
「幽霊……ですか。それは困りましたね。でも大丈夫です。彼らも元々は人間……話合えば分かってくれるはずです」
「斬新な意見ですが……奴等を甘く見てはいけない。スキあらばテレビの中から出てきて……」
「テレビ? でも言っちゃなんですけど……香野さんの家のテレビ……ちっちゃいですよね。出てこれないんじゃ……」
なんて事いいやがる。確かに家のテレビは十四型の超ちっさい奴さあ! でもこれで十分なの! 俺もあんまりテレビ見る習慣ないし!
「まあ、だからその……お泊りはオススメ出来ないというか……」
「あぁ、それでさっきからテレビに女の人が写り込んでるんですね」
バっと電源が付いていないテレビの画面を凝視する俺。
え、マジ? マジで写ってたの?
「はい、なんていうか……ポニーテールのお姉さんが……」
「ポ、ポニーテール……」
どうしよう、俺はポニーテールとか大好きだ。いや、それはさておき……
「庄野さん……幽霊とか見える人?」
「そうですね。でも普通の人とあんまり変わらないから、最初は幽霊だって気づかなくて……」
なんか妙に信憑性の高い事言いだした! え、マジなの?! 本気と書いてマジなの?!
「まあ……最初この部屋に入ってきた時、香野さん一人って聞いてた筈なのになーって思ってたんですよね」
「……え?」
ちょっと待って。俺一人だヨ? しいて言えば宗次郎も居たけど……
「念のためハンバーグ多めに作ったのも、そちらの方も食べられるかと思ったんで……」
「いやいやいやいやいや! 何?! 何言ってんの?!」
そっと庄野さんは俺の隣へと視線を移し……
「そちらの……レインコート着た男性……どちら様なんですかぁ?」
情けなくも、そのまま卒倒してしまった俺。
その後、あれは冗談だったと庄野さんに平謝りされました。
※
《二月 二十三日 土曜日 午前七時》
卒業前の高校三年生の朝は早い。特にやる事も無いのだが。
俺はとりあえずと歯を磨きつつ家の外へ。朝の爽やかな空気を感じつつ、海を眺めながら郵便受けから新聞を。特に興味をそそられる記事は無い。雪男が見つかったとか、土星人が確認出来たとか、月の裏側に謎の施設が見つかったとか……そんな記事ばかりだ。
「さて……ひょうふひょうふぁな……」
歯を磨きながら呟くと、家の中からもう一人……誰かが出てきた。それはテレビに映っていたポニーテールのお姉さんでも、レインコートの男でもない。パジャマ姿の庄野さんだ。俺と同じく歯を磨きながら出てきた。
「おふぁふふぃふぁふ……」
「おふぁひょう」
庄野さんは何処か申し訳なさそうにしていた。まあ、俺が庄野さんの幽霊が見えるという話を鵜呑みにし、卒倒した事を申し訳ないと思っているのだろう。だが単純に俺が情けないだけだ。というか庄野さんのパジャマ姿可愛い。
二人で玄関の前で並びながら歯磨き。これは中々いいかもしれない。仲のいい夫婦のようだ。
「ニィー……」
すると玄関の隙間から宗次郎も出てきた。宗次郎はパジャマ姿の庄野さんに抱っこをせがみ、その要請に答えるように庄野さんは歯磨きを咥えながら宗次郎を抱っこ。
「そうふぃりょう、ふんふぁんふうふふあ?」
「ふぁあふぁあ、いいふふぁいふぇふは。そふぇをふぉ、やふぃもふぃふぇふは?」
ヤキモチ……ヤキモチだとぅ!
そんなわけない、飼い猫にヤキモチを焼く飼い主が何処に……
というかこんな会話を成立させる俺達は凄いかもしれない。何を言っているのか、なんとなく分かってしまう。これは……不味い。どうしよう。今ちょっと、本当に夫婦になったみたいに……
その時、家の前に人影が。むむ、もしかして牛乳配達員さん……
「あんた……何してんの?」
しかし違った。牛乳配達員さんではない。
堺だ。何故か堺が鬼の形相で……庄野さんを睨みつけていた。
「なんでアンタが……ここに居るん……」