第二十三話
浴衣を汚してしまった花音が泣いている。俺はそんな花音を慰める事も無く、ただひたすら見ていた。周りには何もない。真っ暗の空間で、花音は泣いている。この花音は見覚えがある。まだ小学生の頃、一緒に桜祭りへ行った時の花音だ。
すると俺の後ろから一人の少年が走り寄ってきた。その少年は俺だ。まだ小学生だった頃の。
『花音ちゃん、可愛い』
その一言で花音は泣き止み、眩しい笑顔を見せてくれる。そうだ、この日を最後に花音は俺の前から姿を消した。親からは家庭の事情で遠くに行ったとしか聞いていなかった。
昔から花音や光さんとばかり遊んでいた俺は、他に友達は居なかった。遊び相手が居なくなってしまった俺は、勉強ばかりするようになった。それこそ親が心配するレベルで勉強部屋である物置に籠っていた。そしていつしか、俺も親父と同じ医者になる、と志していた。
『花音ちゃん……何処行ったの?』
『遠くに行っちゃったの。大丈夫よ。またいつか会えるわ』
今度は少年の俺と母親が会話している。いつかという日はいつだ、と駄々を捏ねたかったが、当時の俺にとって母は恐怖の存在だった。家の場合、母が鞭で父が飴だった。
『花音ちゃんに……会いたい……』
少年の俺はそう嘆きながら、とぼとぼと暗闇の中へと消えていく。
すると何処からかすすり泣く声が聞こえてきた。小学生の花音だ。パジャマを着ている。そしてその傍らには高校生の光さんが。
『花音、先生がね、お薬飲めば花音の病気治せるかもって……どうする? お薬飲む?』
何処か光さんの肩には黒い影が纏っているように見えた。もうこの時、光さんは知っていた筈だ。花音の病気は現代の医学ではどうにもならない事を。
花音は光さんの言葉に頷き、はっきりと飲むと伝えた。
『大地君に会いたいから……お薬飲む……』
そして再び、花音と光さんは手を繋いで暗闇の中へと消えていく。
次はなんだ。次は……俺に何を見せるつもりだ。
『お姉ちゃん……お姉ちゃん……苦しいよ……お姉ちゃん……』
途端に背筋が震えた。恐る恐る声がした方へと視線を送ると、ベッドの上で横たわり苦しいと訴える花音の姿が。
『ごめんね……花音……ごめんね……』
そのベッドの傍らで、光さんは泣きながら謝っていた。そして光さんだけが……暗闇へと消えていく。
『お姉ちゃん……助けて……大地君……会いたいよ……』
俺に手を伸ばしてくる花音。咄嗟にその手を取ろうとするが、すり抜けてしまう。
目の前で花音が苦しんでいるのに……俺は何も出来ない。
なんだ、この悪夢は。
なんでこんな物を俺に見せる。俺が無力なのは十分分かってる。俺が何も出来ない事は俺が一番よく知ってる。
『花音に……再会した事を後悔してる?』
そんな俺に話しかけてくる光さん。高校生の光さんだ。
『君は、花音の事、忘れてたもんね。あの時助けなければ……花音は安らかに死ぬ事が出来たし、君もそんな風に悩む事も無かった』
そうかもしれない……俺が花音を助けなければ……花音は苦しい思いをしなくて済んだかもしれない。俺に復讐するなんて考える事も……。
『花音は君を恨んでたんじゃないよ。どちらかと言えば、自分の運命を恨んでたんだよ。君と会えば君が苦しむ事になる。だから花音はこの町に帰ってきても君に会いに行かなかったし、そのまま死のうとした。でも一番会いたくて、一番会いたくなかった君に助けられちゃったんだから……恨みたくもなるよね。悩んで悩んで、勇気を出して死のうとしたのに……よりにもよって君に助けられるなんて……』
俺は余計な事をしたのか……。
俺のせいで花音は余計に苦しむ事になったのか……。
『でも君のおかげで、花音は幸せそうだったよ。最初は恨んだかもしれないけど、だんだん君との思い出を少しずつ思い出して……君に会えて良かったと思うようになったよ』
止めてくれ……もういい。
俺は……結局何も出来なかったんだから。
『そんな事ない。君は私に出来ない事をしてくれたんだから。花音を……幸せにしてくれたんだから』
どこがだ。こんな人生のどこが……幸せなんだ。
辛いだけの人生だったじゃないか。
『少なくとも花音は幸せだったと思ってるよ。だから……私から君と花音と……花音に関わってくれた人にプレゼントをあげる。さあ、目をあけて。ここは君が来る場所じゃない。君がここに居ると……私が花音に叱られるんだから……』
※
《二月 二十七日 火曜日 午前六時》
静かな冷たい空気で朝だという事が分かった。ゆっくり目を開けると、目の前には静かな寝息をたてる花音が。その腕の中には丸くなる宗次郎も居る。
なんだか酷い夢をみたような気がした。あまり良く覚えてないが、花音と光さんが出てきたような……
壁の時計を確認すると時刻は午前六時過ぎ。いくら暖かくなったとは言え、朝はまだ冷える。俺は花音に毛布を掛けなおしつつ、そのまま台所に行き冷蔵庫から水を。
ペットボトルの水を飲み干し、洗面所で顔を洗う。歯磨きもして、朝だという事を体へと叩き込む。すると俺の足元に宗次郎がやってきた。どうやら腹が減っているようだ。俺を上目遣いで誘惑しながら可愛い声で鳴いてくる。
「ちょっと待ってくれ、宗次郎……今飯やるからな」
台所に行き宗次郎の朝ご飯を用意。床へとご飯を置くと、宗次郎は待ってましたと言わんばかりに食べ始めた。
「……花音は……まだ寝てるか」
飯へとがっつく宗次郎を後目に花音の元へと。静かに寝息を立てる花音の頭を撫でてみる。少しくすぐったそうに反応する花音。顔色は昨日よりも多少……いい気がする。
そのまま俺は携帯を出し、なんとなくネットニュースを。
桜はどうなっただろうか。もう開花宣言はされたのだろうか。祭りは出来なくとも、せめて花音に桜を……。
いや、駄目だ。花音は……昨日から目が見えていない。
たとえ桜が咲いていたとしても……。
「花音……」
その時、光さんの携帯に着信が。
画面を見ると、そこには登録されていない電話番号が。しかしこの番号はなんとなく見覚えがある。誰のかまでは憶えていないが。
「もしもし……」
『あんた! 今何処や! 病院か?!』
この声は……堺か。なんだ、どうした。
『桜! 桜見てみい! どこでもいいから桜の木確認しいや!』
「なんだ、落ち着け堺……桜がどうかしたのか……」
『桜が満開なんやって! もうこれでもいうくらいに……滅茶苦茶咲いているんや!』
“だから……私から君と花音と……花音に関わってくれた人にプレゼントをあげる”




