第十七話
《二月 二十四日 日曜日 午後九時》
三河さんに案内され、私は花音が入院している集中治療室の前に。そこには大地君とあと一人……同じ年頃の女の子も座っていた。この子は……あの子だ。私が花音を殴ったあの日……大地君の家を尋ねた時、玄関で猫を抱いて待っていた子だ。
私は自分の心を殺すように、人格を入れ替える。別に多重人格というわけでは無い。私は大地君の前では、冷静で冷たい人間でいなければならない。ちなみにこの人格のモデルは三河さんだ。本人が聞いたら心外だと思うかもしれないが。
「大地君、それと……」
ベンチに座る二人へと声をかける私。大地君はしっかりとした目で私を見上げ、女の子の方は疲れているのか、大地君の肩へと頭を預け眠っていた。毛布に包まりながら、悪夢でも見ているのかというくらい……悲しい表情で。
「こんばんは……こいつは……堺です。俺のクラスメイトです……」
「そう。可愛い彼女が居るじゃない。今日はその子ともう帰りなさい。タクシー代なら出してあげるから」
「……じゃあ、堺だけお願いします。俺はここに居ますから」
私は分かっている。大地君に何を言っても聞いてくれない事くらいは。それでも私は……
「いいから帰りなさい。花音は今夜の所は大丈夫よ。この主治医が保証して……」
「誰も保証なんぞしてないぞ。今にでも花音は死ぬ」
途端に三河さんを殴りたくなってくる。
あぁ、分かってた。三河さんが空気を読んでくれるんじゃないか、と期待した私がバカだって事くらいは。
「もう……目を覚まさない事も……」
大地君の言葉に、三河さんは当たり前のように頷く。そのままガラス越しに花音を見ながら
「香野 大地君。何故面会時間という物が設定してあるのか、考えた事はあるかね」
そんな事を言い出した。
「それは患者に余計な負担をかけない、という当たり前な理由の他にも様々な事柄が関わっている。例えば、もしここで君が疲労困憊で倒れたりでもしたらどうなる。夜勤の看護師にとってはいい迷惑だ。君がいくら大丈夫と言っても、看護師には看護師の仕事がある。そしてさらに、花音の容体が急変したらどうする。全ての看護師が君を無視して花音の方へ行くと思うか? 最低一人は君の面倒を見なければならない。つまりだ。君がここに居るだけで、看護師は気を遣う、という事だ。更に簡単に言えば邪魔だ。帰れ」
三河さんの言葉に、大地君は組んでいた両手を握りしめ俯く。しかしそんな事を言っても大地君が素直に帰ってくれるわけが……
「分かりました……。もし花音の容体が急変したら……」
「連絡くらいしてやる、タクシーも呼んでおいてやるよ」
「ありがとうございます……」
あっさりと……大地君は堺さんをオンブして立ち去ってしまう。あまりに予想外だった為、私はタクシー代を渡すのを忘れてしまった。私はその場を三河さんに任せ、大地君を追いかける。するとエレベーターフロアでなんとか追いつく事が出来た。
「大地君、これタクシー代。おつりはいらないわ」
「……どうも……」
「その子の家は? 遠いの?」
「コイツは……学校の寮生です。でも今日は家に泊めます。婆ちゃんも居るし……大丈夫ですから」
そのままエレベーターに乗り込み、一応大地君がタクシーに乗り込むまで見送る事にする。タクシーに堺さんだけを乗せて、自分だけ朝まで病院の前で待機……などをしないように。
下降していくエレベーターの中で、大地君は泣いていた。堺さんをおんぶしながら、ただただ目元から流れる涙。その涙を見て、私も思わずもらい泣きしてしまいそうになる。
「俺は……何も出来ないガキだ……」
そう呟く大地君。私はそんな事は無い、君のおかげで花音は楽しい思い出を作る事が出来たんだ、そう言いたい。でもダメだ。そんな事は……口が裂けても言うわけにはいかない。
「そうね。人を助けるには確かな知識と技術が必要よ。花音がこれまで生きてこられたのも……あの三河って医者のおかげなんだから」
ただただ事実だけを言いながら、エレベーターが到着すると大地君を先に降ろし、私も降りる。そのまま病院の正門へと向かうと、ちょうどタクシーが到着していた。先程三河さんが呼び出したばかりだというのに、中々に早い。たまたま近くに居たんだろうか。
「じゃあね、大地君。風邪なんか曳かないように」
「……光さん、俺……花音と結婚します」
大地君と堺さんをタクシーへと乗り込ませた時、彼の言葉に一瞬混乱する。
今……この子は何と言った? 結婚?
「それじゃあ……失礼します」
そのままタクシーは走り去る。
花音と……結婚……?
彼のその言葉が……いつまでも頭の中に残り続けていた。
※
三河さんの所へ戻ると、相も変わらずガラスに張り付くように花音を眺めていた。ひたすら無表情で、何を思っているのだろうか。私はなんとなく、三河さんの過去を勝手に想像していた。今までの言動からして、相当に苦い経験があるんだろう。覚悟という言葉が嫌いと言っていた。
「三河さん、大地君……帰りました。ありがとうございました」
「邪魔なのは本当だからな。お前にとっても……この方が好都合だろう? 今の内に花音が死んでくれれば、彼は死に目に会わずに済む」
私は何も言えずにベンチへと腰かける。今の内に花音が死んでくれればなんて考えれる筈がない。でも近い事は思っていた。今花音が死んでしまえば……大地君は確実に傷つく。もう彼を……花音に近づけるわけにはいかない。たとえ花音が危険な状態に陥ったとしても……彼に連絡など出来る筈も無い。
「三河さん……花音の事はもう彼には……」
「あぁ、分かった分かった。彼にはもう一切花音の情報を与えない。例え花音が死んでも……俺は彼を無視して地元に帰る。これでいいか」
「ありがとうございます……。花音も……そっちの方がいいと思ってるでしょうし……」
「……俺は、お前の方こそ花音に近づけたくないがな」
……なんとなく三河さんの言いたい事が分かる。
でもだからどうした。私は花音の姉だ。妹が死んでしまう時に……姉が傍に居なくて誰が……
そのまま私の意識は落ちていく。ここ最近、眠った記憶が無い。
瞼が重い。とてつもなく重い。駄目だ……この睡魔には……抗えない……。
※
「お姉ちゃん、たこ焼き! あーんしてー」
いつかの祭りの夢を見ている。これは夢だと一発で分かってしまった。何故なら私は、まだ高校の時の私を後ろから見ているから。
まだ小学生の花音は、高校生の私にたこ焼きを食べさせてくれる。あぁ、覚えている。まだ花音の病気が見つかる前……何のこと無い、幸せな毎日が続くと信じて疑わなかった時だ。
私の隣では母親がカメラを構えていて、ことある毎に娘二人の写真を撮っていた。今日会った母親とまるで別人だ。夢の母親は明るくて元気な印象。しかし現実の母親は今にも死にそうな顔で、まるで死神に憑りつかれたかのような様子だった。
そして夢の中の私は、少しめんどくさそうな顔で花音と大地君の世話をしている。めんどくさそうなのは顔だけだ。本心では楽しくて仕方なかった。花音と大地君の未来を想像しながら、二人の会話や行動を見守っていた。
この二人は将来結婚するんだろうか。もしそうなったら、私はどんな服を着て行けばいいんだろうか。パーティードレス? それとも着物……? あぁ、早く花音の花嫁姿が見たい……
『見れないよ。花音はもう死ぬんだから』
その時、夢の中の私が私に話しかけてきた。顔を険しくしながら、夢の中の私は私を睨んでくる。
『何で花音を一人ぼっちにしたの? 自分だけ大学を出て……挙句の果てに警察官にまでなって……何で自分だけ無難な人生送ろうとしてるの?』
私は何も答える事は出来ない。ただひたすら、自分から責められながら黙りこくっている。
『そんな私が、なんで花音の花嫁姿を見たいなんて言えるの? 私達にそんな資格無いんだよ。花音が投薬で苦しいって泣いてた時、私達は逃げたんだから。良く両親を責めれたわね。あの人達はずっと苦しむ花音を見ながら、花音と一緒に心中するかどうかで悩み続けてたのに』
……知ってるよ。分かってるよ。私にはそんな資格ないんだって事くらいは……両親が……心中しようとしてた事くらいは……
『まだ……分からないの? 私は全然、これっぽっちも……花音の事なんて考えてないんだよ。本当に花音の事を考えていてくれるのは大地君だけ』
……違う……私だって花音の事……考えてる……。
今でも……花音が死んじゃったら……って……
『ほら、花音が死んだ後の事考えてる。結局自分の事しか頭にない。花音が死ぬ事が怖くて怖くて……それしか考えられない』
違う……違う……
『違わないよ。もう私達は逃げたんだから。花音から逃げたんだから。どれだけ花音が私達を求めても、傍には居られないんだよ』
違う……違う! 私が花音を見送らないと……
『そう考えてる時点で的外れって気づかないの? 大地君はもう……私達の先を歩いてる。本当に花音の事を考えてくれてる。三河さんだってそう。三河さんも花音の事を考えて……』
やめて……やめて! 貴方に何が分かるの……私は……私だって花音の事考えてる……。
あの子の覚悟を無駄にしない為にも……大地君を巻き込むわけには……
『覚悟って何? 一人ぼっちになる事が覚悟? 花音を一人ぼっちにして後悔してたのは誰?』
うるさい……うるさい!
私は……彼に辛い目にあって欲しく無くて……
『なら……そう言えば良いじゃない。悪役に徹して二人の仲を裂いても無意味なんだよ。自分を蔑ろにする人に、誰かを幸せにする事なんて出来ないんだから』
その瞬間、目の前が真っ白になる。
夢から現実世界へ。窓から差し込む日光の眩しさで叩き起こされ目覚めた時、私の目の前に……花音が立っていた。酷く悲しそうな顔をした……花音が。




