第十一話
《二月 二十三日 土曜日 午後七時半》
妙に静かな夜。波と秒針の音に支配されたかのような静けさ。耳が痛い程の静けさとは、こういう事を言うのだろうか。
病室の扉から入ってくる人物。それは花音の姉、光さん。俺はうっすらとしか覚えていないが、幼い頃、この人に世話を見て貰った事があるらしい。
「元気そうね。大地君」
「ぁっ、はい……」
なんだろう。別に今はビビる所じゃないのに、何故かお姉さんが怖くて仕方ない。久しぶりの再会で相当にドギツイ事言われたからな。三十代前半の男性でも、軽く泣き崩れそうなことを。
「聞いたんでしょ? 花音の事」
「えぇ……聞きました……」
花音は不治の病にかかっていて、もう既に余命宣告された時期は過ぎている。つまりもう、いつ花音は居なくなってしまっても不思議では無いという状態。それなのに……この人は何でこんなにも冷静なんだろうか。
いや、分かっている。取り乱したって始まらない。冷静でいなくてはならないのは当然の事だ。でも光さんは……落ち着きすぎている。違和感を感じる程に。
「昼間は悪かったわね。ああでも言わないと分かってくれないと思って」
「え? あぁ、はい……結構キツかったですけど……」
「でも私の本心を伝えたつもりだから。貴方は二度と妹に会わないで」
もう二度と会わないで。その言葉は俺の脳に直接突き刺さるようだ。もう花音と会えない。そう考えると、花音の顔が自動的に脳内で再生されてしまう。喜んだ顔、怒った顔、拗ねた顔、笑った……顔。
「……なんで、俺は会っちゃダメなんですか……」
精一杯、お姉さんに抗議する。光さんは紙袋の中からリンゴを出すと、果物ナイフで皮を剥きだした。
「言わないと理由分からない? 妹の時間はもう限られてるの。貴方と遊んでるなんて時間の無駄だわ」
きっぱりと、気持ちいいくらいの返答。俺と会っても、ただ時間の無駄。そうかもしれない。花音は俺の事をどう思っているのだろうか。親父によると、花音が俺の家へ押しかけてきた本当の理由も分からないという。それは光さんも同様に。
「光さん……雰囲気変わりましたよね……昔はもっと優しかったのに……」
「社会の荒波に揉まれれば性格なんてコロっと変わるわ。そうね、貴方に少し……私の事を教えてあげる」
そういいながら、光さんは切ったリンゴを差し出してくる。俺はそれを受け取りながら頷き、光さんの話に耳を傾けた。
「貴方は憶えているかどうか分からないけど……花音が浴衣を汚した日の事、憶えてる? この町で毎年ある花祭りの時だけど」
「え? あ、あぁ……まあ、なんとなく……」
そういえばそんな事も……あったような無かったような。今まで花音とお姉さんの事すら思い出さなかったんだ。薄ぼんやりとしか浮かんでこないが、確かに浴衣を汚して泣いている女の子を……見た事があるかもしれない。
「その祭りの帰り道……貴方と別れた後、花音は倒れたわ。呼吸も心臓も両方止まってて、私も母親も一体何が起きたのか分からなかった。その後救急車で病院に運ばれて……花音はなんとか助かったけど、問題はその後だった。あの子の体は……既に病魔に侵されていたの」
俺は切ってもらったリンゴを口にすることすら出来ず、光さんの話に集中していた。相も変わらず波の音が聞こえる。
「花音に病気が見つかってから……私はあの子から逃げたわ。怖かったのよ。目の前で花音が死んでしまうような事になれば……きっと私は壊れてしまう、そんな風に。だから必死に勉強して大学に入って……そのまま警察官になって……」
警察官……確かにこの前の光さんからはとてつもない迫力を感じたが……まさか警察官だったとは。
光さんは俺の顔を見ず、ひたすら窓の外を眺めながら話していた。俺はずっと光さんの顔を、目を見ている。少しも表情が変わらないと思っていたけど、ここに来て少し表情が柔らかくなった。
「独身の警察官は皆、寮に住まなきゃいけないんだけど……あの子、ある日私の所に一人で来てね。流石に驚いたわ。花音が一人で来た事もだけど、いつのまに……こんなに大きくなったんだってね。それから花音に何しに来たんだって聞いたら……私と一緒に住みたいって言いだしてね。両親に連絡しても花音のしたいようにさせてあげて、の一点張りで……そのまま「花音を一人にして何言ってんだ」って両親にブチ切れて……ブチ切れた所で気づいたわ。花音を一人にしたのは、他でもない私じゃないかって……」
間を持たせるかのように、俺はリンゴを一口。しかし何の味もしない。ただただリンゴの触感が口の中に広がるだけだ。
「私は……何か吹っ切れた感じがした。これからは花音のために生きるって勝手に決めて警察も辞めて……あの子が望む事なら何でもした。誕生日も、クリスマスも、夏祭りも……二人で行って楽しんだわ。幸い、生活費は花音の主治医が出してくれてね。最初はいけ好かないインテリだと思ってたけど、あの人はあの人なりに花音の事を考えてくれてた」
主治医……? そういえば親父が花音は各地の研究機関をたらい回しにされたって……。
「去年の今頃、その主治医から花音にはもう然程時間が無いと言われたわ……。私は花音に正直にそう伝えて……そしたら、この町に来たいって言いだして……」
花音から言い出した事なのか。親父は……自殺する為にここに来たと言ってたが。
「花音は……死に場所を探してたのよ。私も自殺なんてしてほしくない、でもあの子に……そんな事を言える権利が私にあると思う? 花音は数年間、私が気楽に学生している間、ずっと病気と闘ってた。そんな花音が死にたいって言って……誰に止める権利があるの? 私は結局何も出来なかったのに……」
何も出来なかったのは光さんだけじゃない。でもそんな事言っても納得できる筈もない。今、俺がまさにそうだ。花音に俺がしてやれることなんて……何も無い……。
「花音が海に飛び込んだ日……二月二十二日……あの日は花音の誕生日だったの。二人で誕生日を祝おうって時、あの子の置手紙を見て……私は腰が抜けて立つ事すら出来なかった。もう終わりだって思った……。でも、貴方が助けてくれた。これでも私は貴方に感謝してるのよ。でもあの子は救われたわけじゃない。結局……私は無力なままなのよ」
「そんな事……ないですよ。花音は光さんと過ごせて……過ごせたから……」
過ごせたから……何だ?
俺はこの後何を言えばいい。分からない。俺は今何を言おうとしたんだ……。
「あの子が貴方の所に押し掛けた理由は分からないわ。でも……あの子のためにならない事は確実よ。今、花音は自暴自棄なのよ。もう自分はどうなってもいいと思ってる。そんなの、認められないじゃない」
自暴自棄……? そうなのか?
俺には……そんな風には見えなかった。少なくとも、花音は楽しそうに笑ってたじゃないか。宗次郎に餌をあげる時も、妙に興奮しながら……
「だから……花音とはもう会わないで。静かに……見送ってあげて。納得してもらう必要なんて無いわ。元々正解なんて……何処にも無いのよ」
光さんは立ち上がり、そのまま俺に背を向け病室を後にしようとする。
「大地君、自分と家族を大切にしなさい。私と花音みたいに……帰る家も無くしたら……もう何処にも行けないわよ」
帰る家……帰る家ならある。
これは俺の自己満足かもしれない。ありがた迷惑以前の問題かもしれない。
それでも俺は……
「俺は……花音の事が好きです。もう救えないとしても……俺は俺のやり方で花音を幸せにします」
「……好きにしなさい」
そのまま病室を後にする光さん。
俺はその時、決意した。花音を幸せにする。誰がどう言おうと……俺は……
花音を、幸せにする。




