第十話
《二月 二十三日 土曜日 午後七時》
耳に届く波の音。それはもう聞きなれた俺の日常。特に今まで意識して波の音を聞くなんて事は無かった。でもこの時、今は何故か聞き入ってしまう。なんの意味も無く、海って広くて凄くて怖い、なんて思いながら。
現在時刻を確認しようと目を開ける。しかしまだ寝ぼけているのか、それとも夢の中なのか……時計が見つからない、いつもの壁に掛けてある時計が……。
「大丈夫か?」
聞き覚えのある声に、ふと眠ったまま視線だけを移動させる。そこには眼鏡にオールバックの五十代男性が。というか俺の親父だ。あぁ、そうか、妙に壁が白いと思ったら……ここは病院か。
「おはよう」
親父は大きな手を俺の額に乗せてきて、そのまま熱は下がったな、とかなんとか言いながら丸椅子に座る。というか俺どうやってここに……もしかして、また堺が俺を運んできてくれたのか?
「親父……堺は……?」
「堺ちゃん? あぁ、学校の寮に帰ったよ。お前が倒れた倒れたって泣きながら電話してきたから驚いたぞ。だから一度検査に来いって言ったんだ」
あぁ……海に飛び込んだ時から体調おかしかったのか。それであのお姉さんに威嚇されて、冷や汗で汗だくに……
「……親父、花音の事は……」
お姉さんの事で思い出した。花音の事。彼女が不治の病で、二月の始めに余命宣告されていたという事を。
親父は何も言わない。恐らく俺が堺から花音の事情を聴いた事を知っているんだろう。その沈黙は肯定だ。堺から話された事は全て真実なんだと思い知らされる。そして波の音よりも、どこかにある時計の秒針が五月蠅く感じた頃、親父は口を開いた。
「今年は……寒いな。でも月曜日から暖かくなるそうだ。桜が咲くかもな」
「早すぎだろ……まだ三月にもなってないんだぞ……」
親父は眼鏡を直しながら、ポケットの中から一枚の写真を取り出してくる。その写真には小さな子供二人と、お姉さんが写っていた。小さな子供の内……一人は俺だ。もう一人は……
「花音ちゃんと……光さんだ。あぁ、光さんっていうのはお姉さんの方な」
「……俺、会った事あったのか……」
写真からして……たぶん俺は小学生低学年くらいだろうか。お姉さんは高校生くらい。三人とも眩いばかりの満面の笑みで、バックには桜と縁日の出店のような物が写っている。
「お前が八歳の頃の写真だ。その写真を撮った数日後……花音ちゃんに疾患が見つかった。まだ病名も付いていない、世界でも類を見ない症状だ。彼女達はそれから……世界中の研究機関をたらい回しにされた」
「…………」
改めて親父の口から花音の事を聞いてしまうと手が震える。本当に本当だったんだ、と今更実感してしまう。
「お前が花音ちゃんを助けて……ここに彼女が運び込まれた時、俺は一目で分かったよ。あの時の子だって。お前と花音ちゃんは得に仲良く遊んでたからな。ままごとが大好きで……いつもお前が旦那の役だった」
花音から突き付けられた婚姻届を思い出す。もしかしてあれは……そのままごとの延長線だったのだろうか。
「親父……なんで花音は……俺の所に来たんだ……?」
そもそも、親父からの一本の電話から始まったのだ。あの……これから一週間、一日一日を大切に過ごせという電話を。
「彼女からの……最後の頼みと言われてな……。流石に俺も渋った。彼女がこの先長くない事も分かっていたし、ただでさえお前は危険を犯して彼女を助けたんだ。これ以上大事な一人息子に何をするつもりだって……な」
花音は……何がしたかったんだろうか。幼いころの……ままごとの続き……?
「でもなぁ……あんな顔でお願いされたら……断れないじゃないか。だから俺はお前を信じる事にした。お前なら、大地なら大丈夫だってな」
「何が……大丈夫なんだよ……」
親父は眼鏡を直しつつ、躊躇いがちに話を続ける。
「……花音ちゃんは自殺するつもりで海に飛び込んだらしい。この町に帰ってきたのも……その為だったそうだ。堺ちゃんに聞いてないか。あの子、花音ちゃんにそう言われて……思わず殴ったって言ってたぞ」
それで堺はあんなに怒ってたのか。あんな風に怒鳴り散らして……
『ふざけんなや! 死ぬなら一人で勝手に死ね! 大地を巻き込むな!』
思わず口からそう出てしまった、と堺は親父に零していたらしい。あの堺がそんな事を言うなんて信じられない……が、立場が逆だったら俺も同じ事をしたかもしれない。
「実の所……花音ちゃんがお前と最後の時間を過ごしたいと言った真意は分からない。光さんともさっき話したが、彼女も聞いてないそうだ。まあ、これからどうするかは……お前次第だ」
どうするかと言われても……。花音はこのまま俺の知らない所で……そんなのは嫌だ。だから答えは一つだ。
「親父……花音と連絡取れるか」
俺は花音の事が好きだ。堺にもそう言って……俺はあいつを拒絶した。あんなにも俺の事を想ってくれていた堺を。だから余計に……こんな風には終われない。
「取れるも何も……実はさっきから……外で待ってるんだ。光さんのほうだけど」
「……え? なん……で」
「お前が目を覚ます直前まで、光さんが傍に付いててくれたんだぞ。彼女は……お前の事、弟みたいに可愛がってたし」
弟みたいに可愛がってた? そのわりには……物凄い目で睨まれたんだが……。
「彼女と話すか?」
「あぁ……うん」
「なら、少し待ってろ」
親父は立ち上がり、そのまま病室の外へ。それから暫くしてスーツ姿のお姉さんが入ってきた。思わず肩に力が入ってしまう。でも何処か、光さんの雰囲気は最初会った時とは違う。刺々しい空気は感じない。
そんな光さんを見て、俺は微かに思い出していた。
幼い頃両親の帰りが遅く、家で一人だった俺の面倒を見てくれた……優しいお姉さんが居た事を。




