死ぬべきなのは
今日、仲間が死んだ。
正しくは食われた。喉元を引きちぎられ、二の腕の肉も歯形の後がくっきり残るほど綺麗に食われた。脇腹から中のものがこれでもかというほど撒き散らされる。筋肉の筋があれほどはっきり見えたのは初めてだ。たくさん噛まれた。食われた。貪られた。
だが、全て共通して言えることがある。それは、夥しいほどの血潮と鼓膜に張り付くほどの断末魔だった。悪魔の声かと疑った。それくらい人間の声では無かったのを記憶している。
俺たちは逃げた。
あいつを置き去りにして。だって、仕方がなかったんだ。先にいけって言うんだから。それに従っただけだ。それが正しい判断だった。きっとあいつが居なきゃみんな死んでた。あの場所であの訳のわからない奴らに。あんな映画とか漫画とかにしか出てこない奴らに、食われてた。
隠れ家まで走った。走って走って。転んで怪我をしても無我夢中で走り続けた。
そして、俺たちは一人の仲間を犠牲にして生き残った。初めてのことだった。
こんな状況になってから一週間。全員の人数は十四人。それまで誰も死ぬことはなかった。だが、あの場にいたのはその半分。俺を含め七人だった。その全員が泣いていた。初めて死を視たのだ。死んだ後ではなく、死ぬところを。嗚咽を漏らしながら、震えながら、吐きながら。隠れ家に着いて七人が同じ行動をしている。
いや、違う。
七人じゃない。六人だ。あいつを除いた六人だ。しかし、それも違った。五人だった。俺を除いた五人だった。
俺とあいつは、クラスメイトだった。もちろんこの場にいる十四人もそうだ。同じクラスで過ごしてきた。しかし、俺とあいつは少し違う。この場にいるみんなとは。
幼馴染だった。それも幼稚園からの。だから、あいつの笑った顔も怒った顔も泣いた顔も照れた顔も全部知っている。癖とか仕草とか真似だって余裕で出来る。それほど長い時間一緒にいた。けど、あんな顔一度も見たことはなかった。目を見開きながら叫ぶあんな顔。血と唾液が混ざったものが口から溢れ出ていた。透明なはずの涙も赤かった。
あの顔が頭から離れない。だから、泣くより先に恐怖の方が強かった。だから、泣けなかった。目は乾ききっていたのだ。
だからだろう。一番まともそうに見えたのだ。他の七人からしたら。突然走って帰ってきたと思ったら俺を除いた五人が泣き出しているのだから。
「おい……何があった……。なんで皆泣いてんだよ」
ゆっくりと金髪の男が近付いてくる。座り込んだ俺に向かってゆっくり、ゆっくりと。足取りは何故か、ふらふらしていた。だから、きっと彼も気が付いている。
「何があったって聞いてんだよ……。おい、聞いてんだよ!!」
胸ぐらを掴まれる強制的に立たされる。
彼は泣いていた。怒りながら泣いていた。気が付いていながら、それを自覚したくなかったのだ。確信にしたくなかった。
だが、俺は伝えた。彼は死んだと。食われて死んだと。胸ぐらを掴んでいた手は力なく離れていった。息苦しさから解放された。かと思った。
視界が一瞬でぶれる。世界が高速で回転した。そんな錯覚に陥った。しかし、そんなことはなかった。それは、頬にじわじわ残る痛みと口の中の鉄の味で理解した。
殴られたのだ。
「なんで……なんで──なんであいつが……!!」
彼は声を出して泣き始めた。
彼はあいつの仲が良かった。高校に入って出来た初めての友達だとか、あいつは言っていた気がする。あんまり覚えていないが。
泣きじゃくる彼に一人の女が近付いて背中を摩っている。彼の彼女だった気がする。彼女もまたあいつと仲が良かった。だから泣いていた。一緒になって泣いていた。
俺の言葉を聞いてこの場にいる全員が泣いていた。仲間の死を悔やみ、悲しみ、ただ泣いている。俺一人を除いて。
「──なんで……」
誰かがそう言った。
「なんで、お前が生きてんだよ──」
それは俺に向けられたものだった。そして、その誰かは金髪の彼だった。
「お前が……お前が死ねば良かったんだよ……! お前が死ねば!! お前が死ねばぁぁ!」
顔を涙で汚しながら鬼のような形相で罵倒された。
殺される。そう思った。しかし、眼鏡の男が羽交い締めにして彼を止めていた。
「落ち着け!」
「落ち着いてられるかよ! あいつが死んだんだぞ!」
「分かってる! だが、今は落ち着け……後で話し合おう……。だから、今は、落ち着け……」
その言葉で拘束を解かれた彼は、たたらを踏みながら膝から崩れ落ちる。
眼鏡の男は、彼の肩に手を置いた。だがその時、眼鏡の男はギロリとこちらを睨む。その刺すような眼差しと静かに動いた唇が語っていた。
────なんで生きてんだよ。
俺は顔を伏せることしか出来なかった。
あいつが死んでから六時間が経過した。
すっかり日は暮れ、空はすっかり闇へと色を変えていた。唯一の天然の明かりである月は生憎と分厚い雲に隠されていた。外から聞こえるのは変な鳥の声と奴らの呻き声だけだった。
だからだろう。俺は一向に寝付けなかった。それもそのはずだ。外の音のせいじゃない。毛布すらなく冷たいコンクリートの上で寝ている状況なのだから。
この場所はとある廃ビルの三階。窓のガラスは割れて役割を一切果たしていなかった。もちろん、窓の無い部屋に行けば、幾分か寒さは凌げるだろう。だか、俺にそんな権利はなかった。
あいつが生きていた時は、あいつのおかげで窓の無い部屋にみんなで居れた。でも無言の圧は感覚で掴んでいた。だから俺は、角で丸くなるようにして眠っていた。
眠れなくて瞼を持ち上げる。
周りには誰も居ない。たった一人。あまりにも一人では広すぎる部屋に俺は無理矢理移動させられた。そこに俺の意見を聞くという選択肢は存在しなかった。だって──あいつが死んだから。
もう味方は居なかった。
俺は、立ち上がる。自分の肩を抱くようにしながら、歩く。音を立てないように静かに歩いた。目的地は、今まで俺も一緒に眠っていった所。見つかれば何をされるか分からない。けど、きっとその場所では俺の話がされている。そんな気がした。
徐々に声が聞こえてくる。足音に細心の注意を払いながら壁に張り付く。そして、息を殺しその部屋を覗きながら聞き耳をたてた。
「──なきゃならなかったんだよ……なんであいつが……」
「あいつは、死ぬような玉じゃねぇって。きっと生きてるって!」
「ううん……。あれは……もう……」
「おい、あんまふざけたこと抜かしてんじゃねぇぞ! あいつが死ぬわけねぇだろ! 女だからって調子こいてんじゃねぇぞ!!」
「は? 何八つ当たりしてんの? 自分はここで危険な目に遭わずに逃げてたのに? 調子こいてんのはあんただろうがよ!」
「あぁん? おい、今なんつった? 殺すぞ」
「殺せるもんなら、殺してみろよ。ま、結局あいつが居ない以上、あたしら全員食われて死ぬけどなぁ!」
「──やめて! ……お願い。私が、私が悪かったから……。生きてる……うん、生きてるから……」
夕方、一緒に行動していた女があの光景を思い出してまた泣き出した。
みんな気が付いている。もうあいつが居ないという事実を。あの惨劇を見ていない人でも理解していた。頭の中ではとっくに。だってそれを知ってから約六時間が経過しているのだから。
でも受け入れたくない。受け入れてしまったら救いがなくなってしまうから。
「────なぁ」
眼鏡の男が顎に手を当てながらその場にいる全員に声をかける。十一人の視線が一気に眼鏡の男に集まった。
「結局、何が起きたんだよ? なんであいつ、死んだんだよ?」
「だから! 奴らに噛まれて……!! それで……」
「いや、そうじゃなくて……」
眼鏡の男の言いたいことが分からないのか十一人が同じ表情をしていた。
「だって、普通ならあいつがそんなヘマする訳ないだろ?」
俺は、顔を引っ込めた。完全に息を殺す。口を空気が漏れないよう手で押さえる。その手は驚くほど冷たく震えていた。
「なんであいつ、噛まれたんだ?」
俺は、ゆっくりと後退る。
心臓が死ぬほど鼓動している。このまま破裂してしまうんじゃないかと思うほど。むしろ、その方が良いんじゃないだろうか。そうなったら、どれ程良いことか。
声だけが聞こえる。
「────あの野郎のせいだ」
「何?」
「あの野郎を助けるためにあいつは、死んだ。俺は、見てた。みんな突然現れた奴らに驚いて逃げてる中、俺は見てた」
「…………何をだよ」
「つまずいたんだよ。それを助けようとして、あいつは死んだ……」
「…………じゃあ、彼を助けたせいであいつは、死んだ、のか?」
「ああ」
俺は、それを聞いて足音を出来るだけ立てないように走った。走った。走った。走った走った走った走った走った走った走った走った走った走った走った走った走った走った走った走った走った。
そう、あの時。走って逃げる中。小さな段差に足を取られ転んだ。そんな俺を助ける為にあいつは、死んだ。俺が立ち上がり逃げるまでの間、その数秒で食われて死んだのだ。
つまり──俺のせいであいつは死んだ。あいつを直接殺したのは奴らだ。けど、間接的に殺したのは俺だ。
────なんで生きてんだよ。
その言葉が頭の中で反復される。
あの時、死ぬべきは俺だった。どう考えたって死ぬべきは俺だったのだ。なのにあいつは俺を助けた。何も出来ない俺を助けた。力もない、知識もない、金もない、名声もない、決断力も団結力もない。親だって、弟、妹、家族だってもういない。そして、たった一つ残っていた友達でさえ、
もう────いない。
何もかもなくなった。
だから、もう俺があの場にいる必要は……ない。
あんな奴らと一緒にいる必要は、ない。
こんな場にいる必要は、ない!
あいつらに命令される必要も、ない!!
俺にとってあいつらの命は──必要ない。
あいつが言っていた。
「奴らは、きっと見えてる。もちろんはっきりじゃないだろうけどな。見えているし、聞こえてる。だから、声がすればそこに向かうし、光があればそこへ移動する。感覚だけで言えば、俺たちよりずっとすごいんだろうな。テレビとかでも言うだろ? ゾンビになったら、脳の100%使われるって」
そして、こうも言っていた。
「けど、その感覚に体がついていってないだろう。だって……体は死んでんだからな。でも、感覚は俺たち以上。だから、歩けるけど走れない。動けるけど速くない。ってことはだ! それを知ってるなら──俺たちは死なねぇ! って訳よ。なっ!」
あの笑顔をよく覚えている。
けど、そう言っていたあいつの死ぬ瞬間の顔もよく覚えている。
俺は、静かに笑った。
廃ビルの裏でビルを見上げながら。微かに声が聞こえてくる。そして、その声は悲鳴へと変わった。慌てる声。罵る声。泣き声。さらに叫び声。最後に、断末魔。
今、あの廃ビルの中には、きっと奴らがいる。
だって、俺がそう仕組んだから。
奴らは見えてるし聞こえている。だから一階に降りた俺は、何かないか探した。音を立てれば上にいるあいつらが降りてくる可能性がある。だから明るくて、光るやつ。
運の良いことを俺は、それを持っていた。
あいつが俺に持っておけと渡されていた懐中電灯。それを奴らにも見えるようにスイッチをオンにし、外に向けて地面に置いた。
俺は、その場から、廃ビルから出て裏からビルを見上げている。
出口は懐中電灯を置いた一ヶ所しかない。この廃ビルは三階建て。奴らが来た時点で一階は逃げ場としての活用は出来なくなる。そして、二階。二階は、窓から飛び降りれば怪我をする程度で逃げられる。
だが、俺はまた運が良かった。二階は色んなものが散乱していて、とてもじゃないが歩けるようなスペースはなかった。階段しか使える所はなかったのだ。だから、三階。俺たちが隠れ家としていたのは三階。三階の窓から逃げようなんてことすれば、怪我では済まない。
つまり、その一ヶ所が潰れた時点で、終わりなのだ。
俺が居なくなったことに気が付いたあいつらは、三階を探す。その間に奴らが一階に集まってくる。あいつらは、俺が逃げたと思い下に降りる。だが、なぜか一階に奴らが集まっている。
────お前が死ねば良かったんだよ!
そう、俺が死ねば良かった。確かにその通りだ。あの時死ぬべきだったのは俺だったのだ。
でも、生きている。俺は死んでない。あいつに助けられたから。あいつは死んで、俺は生きている。そして、あいつらも。
────お前が死ねば……お前が死ねばぁぁ!
いや、違う。
この場合において、それは違う。
だって……
シヌノハ、オマエラダカラダ。
「ああァァぁぁあぁアあァあァアアぁアあアァァァ!!」
聞こえる。
「助けて……! お願い、いや、いやいやいやイヤァァァ!!」
聞こえる。
「イダイ、痛い、痛い、いだい!! 死にだぐナイ! しにたく、ない……!!」
聞こえる。
「俺は死なねぇ! こんな所で──がぁぁぁァァァ!! やめろ、ヤメ、食うな……ぐわ、ナいで……」
聞こえる。
たくさん聞こえる。
あの廃ビルで今、人が死んでいる。
俺は──嗤った。
心の底から嗤った。あいつらは必要ない物だから。死ねば良い。死んで死んで死にまくれ。今まで何度お前らに殺されかけたか分からない。何度死にかけたか分からない。
ほら、どうだ。今の気持ちを教えてくれくれよ。殺される立場になった側の気持ちを、死にかける気持ちを。
そして、また俺は静かに嗤った。
もう十分楽しんだ。さっさとここを離れよう。そして、新たに始めるのだ。あいつら居ない平和な世界で。あいつの居ない退屈な世界へ。
俺は嗤いながら振り返る。
奴が後ろに居るとも知らずに。




