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杏の道標3

 挑戦という言葉でコーティングして、無知のまま飛び込んでいく人間を俺は素直に理解が出来ない。

石橋を叩いて渡ると言うじゃないか、先ずは他に橋を渡る人間をよく見てだな…と悠長に事を構える時間を作らないといけない訳だ。

時は金なりとはよく言ったもので、他人より時間を節約する為にはお金が必要なんだな、結局のところ。

やだねー、俺も余裕を持った健全な心と体が欲しいわ。

目は霞むし、腹は出てくる、ついでにいつもだるい体に覚めないお目目だからなぁ…順調なおじさんコースで笑えないんだよなぁ…


そんな事より…だ、俺たちは今銭洗弁天のお社に向かう最中な訳なんだが…

隧道というか、トンネルに入って少ししたら厄介な事象が発生した。 アクシデント、トラブルと言い方はなんでもいい。

カーブしているトンネルの向こうから黒い四つ足の影がこちらに迫って来たと言うのがこの事象(アクシデント)だ。

想像してみてほしい、薄暗い場所から不意に猛スピードで自分の腰の高さ程ある黒い塊が飛び出してくるのを、怖くないか? 俺は少しビビったよね。

 

一体何が起きたのかと言うと黒い影の正体はなんて事はない代物だったんだ。

答えを一文字で言うことも勿論出来るのだがここは敢えて想像力を働かせて説明する事にしよう。

小刻みに呼吸する度に上下する体と四足の細い足、整えられた毛並みをして、俺の足元でくるくると回ってみせている。


毛色が黒いので余計な勘違いをしたし、驚いた。

危ないやつかもしれないと俺も少しだけ考えてみたけれど、この様子を見るに襲ってくる様な事もなさそうだ。


さて、俺のなけなしの語彙力を発揮したところではあるけれど、皆はこれでわかったのだろうか。

それではネタバラシ、なんて言う種類かまでは忘れたけれど、これは紛れもなく真っ黒な犬だった。  


こちらを特に警戒する様子もなく、俺の目の前で遊んでほしいのか、餌が欲しいのか立ち止まって様子を伺っている。


吠えないなぁ…実家の近所に昔いた犬なんて物音一つ立てたら敷地の柵まで来て吠えてた記憶しかない、あいつと比べるとえらい違いだ。

首には赤いリードは付けられているし飼い犬で間違いないが、俺にはこの犬種が分からない。


ともかく、ここから先に行かせてしまうと飼い主が困るので何かしらして足留めないと…


「よ、吉川さんさっきのあれは一体なんだったんですか、変なものではありませんよね? ね?」

しまった、小岩さんの事を忘れてた…この犬が走ってきた時に声とか上げなかったから平気なものと思ってたけれど、そんな事は無いのか。

振り返ってみると小岩さんは隧道の壁に向かって蹲っている。

あー、大丈夫大丈夫、何かなと思ったけど誰かの飼い犬だったみたいだよ?

小岩さんに説明すると同時に犬に向けてお座りと手を翳して(かざ)やると黒い犬は素早くその場で体勢を整える。

よしよし、いい子だ。


「…そうなのですか…はぁ、その話を聞いて安心しました」

そう言いながら小岩さんがすくっと立ち上がり、一度深呼吸をする。

「ふぅ…なんですか吉川さん、進みましょう? 私達は別にトンネルに肝試しに来た訳ではありませんので」

えぇ…小岩さん、今の今まで座り込んでいたんじゃないですか…

「はて、何のことやら」

なんのことやらじゃないと思うんですけど?あ、小岩さんが犬の方へ向かって行く。

「よしよし、お利口さんですね 」

小岩さんはおすわりをする犬の頭と下顎を撫で始めた。

「向こうに恐らく飼い主さんがいるでしょうから早く行ってあげましょう」

今まで一度も吠えなかった犬が足元で「わふっ」と声を発した。

なんだお前、おとなしいと思ったら同意する様なタイミングで吠えて、これじゃぁ多数決でお前を放っておかなくなったじゃないか。


ま…そうですねと適当な返事をして俺たちは残りの隧道を小さな仲間を加えて歩いていく事になった。

「因みになのですが…」

因みに…何です?

「吉川さんに出した課題の件です、さっきの事は吉川さんが起因となって起きた感情の変化ではなく、外的要因によるものなので条件未達成とします」

あー、それまたお厳しい事で。

「簡単に私の表情筋はお仕事をしてくれないのですよ、残念でしたね」

 赤いリードを引く小岩さんの先を歩く黒い犬は、無闇に強い力で無闇に引っ張っていかない。

歩調は合っていない感じだが、それでも小岩さんが俺の前に出て歩くのはさっきまでとは違う展開だ。


ふーん、条件未達成ねぇ…でもさ、俺が仮に小岩さんの課題をこなせなかったとして、俺にデメリットとか罰則がない以上俺が真剣に取り組む必要性は無いんじゃないのか?


「…吉川さん、失礼を承知で言いますけれど」

失礼を承知で?

「友人関係になっていて尚且つ未だに交流のある方っていらっしゃいます?」

…いない事は無いさ。 オンラインでゲームしたり、飲みに行ったりだってするよ? どうして?

「…いえ、ならいいのですが」

小岩さんはそれ以上言わずに、俺たちは隧道の出口へやっとこさ辿り着いた。

一度行った道だし、帰りも隧道の中で何かに出くわすなんて事は無いだろう。


隧道を抜けた直後に犬の飼い主さんらしき女の人が気がついて急いで駆け寄ってきた。

「すみません」と「ありがとうございます」を何度か言われて都度頭を下げて来たので最後の方はこちらが謝ってしまう始末だ。

曰く、散歩で立ち寄ってお参りするのに手水舎(ちょうずや)で犬のリードを縛って待たせていたのだが、結びが甘く解けてしまったのだと言う。


何かお礼をさせて下さいと言われたが、それほどの事はしていませんよと言って丁重に断っておいた。恩を笠に着るのは好きじゃないし



 俺と飼い主の女の人が世間話を交えつつ一通り話し終えるまで小岩さんと黒い犬は待たされていた訳だが、小岩さんは慣れた手つきで犬の撫でている。


人懐っこいんですねと飼い主さんに聞いてみるとそうなんですよと返す。

「人を見かけたりするとすぐにそっちに走り出しちゃうので、困ってしまう時もありますよ」

それでさっきも駆け出してしまったんですかねと俺はサラッとそう言った。

「いけない、散歩がてらに足を伸ばしたからもうこんな時間! そろそろお暇させて頂きますね?」

時計を見た飼い主さんが少し困った顔をしていたので、俺はどうぞと軽く話す。

「すみませんどうもありがとうございました、ツバサ!行くよー!」

つばさと呼ばれた黒い犬は今度は元気よく返事をして飼い主の後をついて行った…

まーたまにはね、こんな変わった出来事に出会ったりもするよなうん。


「可愛かったですねつばさくん。 大人しくて人が好きなんてあれは散歩中にはモテモテですよ、間違いないです」

それに賢くて芸まで出来ると来たら間違いないな。

「…珍しく意見が合いましたね、吉川さん。

因みになのですが私は犬か猫かと聞かれたら犬派です」

へー、そうなんだ。詳しいの?

「一般的な犬種がわかる程度には」

一般的な犬種ってなんだ…

「特に犬種の認識を間違っていても怒ったりとかはしませんのでお気になさらず。 誰も柴犬と秋田犬の区別の仕方を聞いて凄いとはならないじゃありませんか」

た、確かに?

「因みにこの二種の犬種を並べると一目瞭然で、サイズが違っていたり、細かい顔のパーツの形が違っていたりと案外差があったりなかったりするんですよ」

へー、そうなんだ。因みにさっきいたワンちゃんの犬種が思い出せなくてさ…もしかして分かったりします?


小岩さんに犬種を聞いてみると少しして

「そうですね…」と始まりすらすらと事典の説明文みたいな紹介が出てきた。

へー、ラブラドールレトリーバーって言う犬種なんですね。

「先程言いましたが黒い短い毛なのでこの犬種が当てはまると思います。 飼い主さんに聞いたわけではないので絶対の保証はありませんけれど」

それでもね、俺の知らない事を知ってるってのは凄い事だと思うよ。


「…そうですね、世の中は案外人の知らない事で出来ているのかもしれないですね」


人の知らない事…俺にはよく分からないが、俺より知識のある小岩さんが言うならそうなんだろうな。

「あ、あの!吉川さん、私が大人ぶっているとか思わないんですか?子供の癖にとか…知った様な口を叩いてるとか…」

遠慮がち小岩さんは言う。


んー? 別に大人も子供もあんまり関係ないと思うけどなー。 だって大人みたいな子供もいるし、子供みたいな大人もいるますよー?

大人だから優れてるとか子供だから劣っているなんて事は多分無いからねー、知らんけど。

頭の回転と知識とか引き出しの多さが違うだけの話さ、

お悩みを聞いてみようかホトトギスってね。


「なんですかその語呂だけ合っている俳句、ホトトギスの悩みを聞いてどうするんですか」

あれだよ、念仏唱えるだよ。

「念仏…?すみませんそれは分かりません…」

いやいや、単純に「ほー法華経」ってそんな宗派無かったっけ?

「はぁ、吉川さん….二点ですね」

手水舎(ちょうずや)で手を洗いながら、小岩さんは厳しい採点を俺に付ける。

少し柔らかい陽射しが雲の中から差し込んできたのはただの偶然だろうな…


次回へ続く。

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