第一話 黄昏ノイズ
正しいものは強くない、強いから正しいのだ。
人なんてのは所詮は一本道の迷路を散々迷い彷徨う生き物だ。
打ち棄てられ朽ちていく路端の廃屋が苔むし嗄れた声でそう言っていた。
世の中にはカミサマというものを深く信じる人もいる様ではあるが、そいつが作ったものの一つに俺がいるとするのなら十中八九不良品だろう…
その日は有給を取らされて起きたのは昼過ぎのことだった。
俺の出自はなんて事ない普通の家庭の次男として生まれて悪目立ちも勿論良い目立ち方もせずに育つが生まれついて目付きが悪く背丈もあった為、目をつけられがちだった。
しかしそれによって親に反抗心を燃やして「ババア、ジジイ」などという言葉も吐かずにやってこれた理由は定かではないが遊びと息抜きが下手でなった事との因果関係もまた未だ不明なままである。
さて、いわゆるサラリーマンになった自分は三十路になろうとしているのに何も成せずなれずにこんな(築29年1DKのアパート)場所にいるわけなのだが俺自身、自分に興味があるとしたら嘘になってしまうがなんでまたおれ商社の営業なんてやっているのだろうか。
まぁ、社会人ってのは来た仕事さえこなしていれば何も文句は言われないのだろうと高を括っていたし、ある種幼稚な万能感からの自惚れがあったのかもしれない。
己の地位は理想的な競争社会とは程遠く、日々の揺れ動きについて行くのがやっとの状態であった。
お昼時に放送している奥様方向けのドラマが優しく見える程度には人間関係の浮き沈みが激しいのが現実で、自分の思い道理にはならない事をさっさと気づけたのは良い点だ。 さながら減点方式の罰ゲームを延々と繰り返しているかの様でまるっきりこの社会というものは好きになれなかった…
俺の点数は残り何点なのか数えてばかり…親元を離れて都会から離れた海辺の小さな町から2時間程掛けて通っている。
さて、俺とこの小さな物語は出勤日と有給休暇の混濁を乗り越えてたところから始まる、意識こそ覚醒したが、疲れから来たであろう倦怠感が体と心が黄色信号を光らせていた。
まぁ、暫く放っておけば惰眠を続けていれば夕方前には体力も回復することだろう、よしよし…正直気分はそこまで良くなかったしそのまま二度寝と洒落込みたかった。
しかし、折からの冷気はばっちり講じたはずの防寒対策を突破しており、実はこれそのままなら凍死する危険性があるのでは俺は危惧し、重たい腰を持ち上げ起き上がることにした。
俺は手元のスイッチを押して暖房機を付ける。 閉じたカーテンの隙間から呑気に差し込む明るい陽射しが実に鬱陶しい、別に予定があるわけでもなく、かと言って起きた時間を気にするでもない、まだ日が傾いてい無いだけマシというものか…?
「だからって…結局の所起きたところでやることねぇなぁ…」
視線を天井に向けて俺はふっと呟く、カートンとライターを切らしてから大分経つが近年馬鹿上がりするそいつらとはもう、この際だがおさらばで良いだろう。
仕事のない日でも起きたら取り敢えずは顔を洗って眠気をリセットするのが習慣付いているので殆ど無意識に俺は鏡の前に居た、営業方なので常に清潔感のある格好はしなくてはならない。
いやいや今日は折角の休日…一日開けてはいるものの特にしたいこともないのは俺という人間は趣味と言えるほどひとつのことに熱中出来ない人種だからである。
それも長く続いた試しが無い、習い事でも勉強だろうとすぐに諦めがついてしまい、今日はなんとテレビもスマホも見る気力を失っている。
また、人に作られたものってのは受け手が情報を取捨選択するのではなく、情報が受け手を取捨選択している、と自惚れているからだから俺はそもそも情報を仕入れない。
それなら健康に良いからと原価数円のサプリメントを大枚はたいて買わなくて済むからいいとこんな屁理屈を言うのは「ただ」だからまだマシだという…
阿呆の様な屁理屈ばっかり捏ねながら、俺は自堕落な休日を送り、朝になると眠気眼でまたあの会社という場所へ何も考えず通う…そんな日々だ
入った会社も就業規則がまるで守られていないと言うほどでもないし、それなりにものはもらっているが、縁もゆかりもまるで無い土地で住めば都と我慢してはや数年が経過している。
何か機会があればもう少し都心に進出したいものだが…都心の地価なんて見ただけで嫌になるほど上り調子だしなぁ。
ただ家賃が相場より低い上に近くに鉄道の留置線が設置されており、始発駅のため一本分早く家を出られれば確実に次の始発を待って着席出来るという点と景色が良いのはこの場所の利点でもある。
だがしかしアパートの窓から見える風景には流石に一ヶ月で飽きてしまう始末、確かに景色はいいし高台にあるのは良いんだ。
だけども駅から上ってこなくちゃ行けないというのが致命的な弱点だと言える、帰りがなぁ…行きはよいよい帰りは辛い、お陰様で家でなにかやろうとする元気を残せない。
「冬に行ったってなんの目の保養にもなりゃしねぇ、風は強いし街に降りていっても半ば観光地で飯は高い人は多いとこりゃあ家から出ませんぜぃ…」
近所付き合いもそこそこに自治会などの面倒事は輪番制なので新参ものにはまだ回ってくる心配もない。
絶賛暇をもて余す午前の終わり、とはいえ折角の有給なので無駄にはしたくない。
会社の同僚は仕事中だからといって休みに会いたいとはあんまり思わないなぁ、
有給を消化しないと管理課から目玉を食らうので半強制的に上司に取らされて同僚から白い目で見られながら休んだのだが...それも消化の前日に明日の業務の分引き継ぎしとけとか急に言ってくるんだもんなぁ、その御蔭で次の日のを作らされるはめになって結局の所残業時間が発生したんだが、だめじゃないのかこれは。
「まだ昼休み前に言ってくれただけましだけどよぉ、その後引き継ぎの資料作んのに一時間半残業したんだけども?」
何もすることがない日は年寄り臭いと自分で自覚しているが溜息を連れて散歩にでも行くのが日課になっている、
決まった所を行くのではなくてふらっと着の身着のまま気の向くままに…である。
いつものと違う場所に行こうかと俺は見知らぬ街を愛車である緑色のマウンテンバイクでゆっくりと散策することにした。
しばらくする市街地の人混みと車を避けながら進むとふと立ち止まって思う。
この街はどこか余所余所しいのじゃないかと、住民たちはブランドと化した歴史の色濃く残るこの街で、史跡を資産として食いつなぐ日々を過ごしているんだなぁと他人行儀に考えていた。うん…それは流石に言い過ぎだな。
しかしまぁ自分自身は見知らぬ空を見上げている。からりとした椎茸や渋柿を干すにはいい晴れ間だった。そうか浜風だから塩がつくのか、うまくいくのかどうかやってみたことないな、調べてみるか…
目的と目標を鳶が絡まって身動きが取れなくなっていると、ただ漫然と死までの時間を過ごしているのではないかと杞憂を憂い、たまたま見つけた神社の一角で売っていた甘酒を片手に白い溜め息を吐いた。
「何をしても駄目だー!というときが時たまあるがそれって今みたいなことを言うのかもしれねぇ…あぁ、なんか胸がチクリと痛むな」
暇つぶしにというと語弊があるが時神社の御朱印集めができるという情報を聞き、俺は中学生の時からの相棒であるマウンテンバイクを転がしてみた。
「え、まじ? 確かにお役所仕事というか銀行は閉まる時間だけどさぁ…まだ四時なんすけど…」 溜息と二箇所しか判が押されていないし次の目的地であったはずの寺院が絶賛閉まってる。
なぜかといえば一箇所、二箇所とだいぶ昔からある由緒がある建物に静かに感動して見て回ったのが仇になったか、そもそも午後から活動したせいで結果として三社目で時間外になってしまったという訳、
こりゃあなんとも中途半端な結果となってしまい、俺は早くも傾いた太陽に恨み節を吐いて帰宅の途につこうとしていた。
貴重な休みなのだから一日寝溜めするか思いっきり活動するとかあるんだろうが今からでも「休日を過ごした!!」と言えるだけの行動をしたい…けど難しいかなぁどうだろう?
「ま、適当に酒でも飲みに行きたいが連休というわけでもないからねぇ」
下手にアルコールが入ったまんま明日仕事に行く事は流石に出来ないので深酒できないしなーそもそも自転車だった結局駄目やん、知り合いもこっちには殆ど連絡付かない奴に急にこっち来いって言っても平日なので十中八九来れないだろし...、
「となると…いよいよできることが少なくなってきたな」
そこからは完全な思いつきではあるがそのままアパートに戻るのも癪だったので思いつきで俺はゆっくり自転車を走らせて俺はとある浜辺へと向かった…。
時間帯もあれだし浜風で冷えた体は熱燗を一本作って干物を肴に温まりそのまま早めに布団を被ってしまうくらいに冷してしまおう。 そうだな、それがいい、後は風呂沸かさないとか…よしよし、やることは決まった、後は気ままにやるだけさ。
冬の海に浮く鴎には夜を共に過ごすものがいるのかともの悲しいさに浸る…そんな気も引き継ぎをしてきた仕事の進捗が気になっていつの間にやら何処かへと去っていった。
「自分でここまで来てなんだが冬の海なんて見てもしゃーないと思うんだけどな…」
まぁ、今日だけは水平線に沈み行く夕暮れを俺一人が独占出来るのであればそれもまた良いか…
流石にこの真冬と海側から来る風のある今日は街の外れにある砂浜には誰もいないだろう。
地元の住人の一部はその浜を磯女の浜と読んで近づこうとしないが、文字通り黄昏時に黄昏るにはうってつけの場所だ。
暫くすると海から吹いていた風も次第に弱まると水平線と砂浜の先で夕陽が空を焼いて青色を茜に変えていた、まだ日没までは時間がある…しばらくここで杞憂に浮かんでいるとしよう。
いやー人気のないこともさることながら穴場になっているこの浜辺へ足を運んだのはいつぶりだろう、最近は会社とアパートとの往復位しかしてなかったな。
「はぁぁ…洗われる様な汚い心を持った覚えはないがなんとも良い風景だな」
砂浜の入り口に日没までの数十分を一人で過ごす、冬の海の持っている物悲しい雰囲気も相まってこの世の終わりを待っている様ななんとも物悲しい気分にされてしまう、なんだが黄金に広がる水平線に浮かぶ雲に赤色に傾いた西の空に吸い込まれてしまいそうだ。
「青春の馬鹿野郎ー!ってそんな大きな声は出したくないわ、疲れるし」
誰に言ったわけでもない独り言が浮かんで来るそんなのはいつものことだ。
会社で「省エネだなぁお前は」とよく親ほど離れた上司にはよく言われる話だけれど、確かに疲れることは出来るだけしなくない。何にも労力と意識を割いて生きていたくないのは果たして俺だけなのだろうか、夕陽は俺の話なんか知らんと言いたげにそそくさとこの季節には沈んでいく…
根拠こそないものの、この歳になって人生経験なさと達成感のなさ、このからからになった自分の劣等感に虚無感はどうすればいいのだろう。
青春とかいう意味と意義の分からないものを無下にしてしまったせいで、幸福を求めることを忘れてしまった俺はこの先一体どうしたらいいと言うんだ。
目の前に広がる海の雄大さが俺を感傷に浸らせ溺れさせていくなんてそんなわけないだろ、俺は通常運転で浜の砂を踏みしめていく…
吸い込まれそうな魅力のある落陽と夕焼けを滲ませて海色にしてしまう水平線、今俺はこの世に一人で生きている。
あぁもういいか…別に俺がこの場から姿を消したとて困るのは実家の親位なもんだ。
正月に届いた地元の友人の年賀状に女友達だった奴と写ってその真ん中に見慣れない首も座ってねぇ乳幼児がおったってなんざ聞いてない。
何があったかなんて知りたくもないね!あぁ、もう構うものか。 太陽にでも吠えてやろう、負け犬の口上をさ!
俺は磯の臭いを感じながら冷ややかな空気で胸一杯に吸い込んで一気に全身全霊を持って…近所迷惑なんて考えずにカモメに届けようと腹に力を込めたその時だった。
...デ...コ...ノ...............サ...
「ゲッホゲホ!!グフッ!……!?」
肺に吸い込んだ空気が何処かへ入る予定に無かった場所にでも入ったのか、俄に風に流れてきた空耳に驚いて溜息が気道で右往左往し辺りを見渡したけども当然ながら人っ子一人としてこの場にはいない。
突然その場で咳き込むと肺が水でも吸ったかの如く、まるで息が出来ないのでびっくりした。
しゃっくりが喉でつっかえて息が出来ないと後から考えるとそんな感じだったと今なら言えるが…あの時はそれどころではなかった。
軽く酸欠になりながらも一度呼吸を元の落ち着いたものに戻せたので一先ず助かった、随分と気持ち悪い感覚もあったもんだ。呼吸もろくに出来ずに一瞬、このまま死ぬかと思った。 …え? なに俺、感情を吐露することすら許されないの…怖っ
なんて俺がこんなことで悲観的にならなきゃならんのだ…気がつくと風がおかしな方向へふらふらと俺の周辺を飛び交っている…あれ? この時間の風ってこんな風に吹くんだっけか?
「はぁぁ...馬鹿みたいだな俺は…」
この先仕事だけを考えて暮らせていけなくも無い…望まず・挑まず・考えずに非活動的三原則なんてただの惰弱と衰退しか産み出さないのだろう、それは仕事からリタイアした際に俺に死よりも退屈で緩慢な余生を送らせる気か?
自分の頭なの中とは関係がないかもしれないが眼前に広がるこの景色は絵から飛び出してきたかの様で不安になるほど綺麗すぎる風景だ。
こんなことで落ち込む様な奴でも必要もなかったはずなのに今日は不自然に思考がひとつの方向へ鈍化して体に鉛でも仕込んだかのようで重くなっていく...
このまま何処かへ沈んでいってしまう…そんな気がする。
身体機能がいつの間にか落ちていて呼吸困難で死にかけるとか死神でも笑わねぇよそんなの。
「死因は…横隔膜断裂です」なんていやいや、何の前兆も無くそこが壊れたりするわけが無い。何かこれまでに予兆はあったか、それとも見逃してたとか? 嫌だぜなんにもないままに突然にこの世とおさらばなんてのは、俺はまだ為すべきことを見つけてないってのにさ、
コ...ヨ.........デ......
それにしたってこの波の音の間、断片的に聞こえてくる低い女性の声と思われる囁き声は一体なんだ? 風の悪戯にしちゃぁ出来すぎな気がするし、空耳アワードって訳でもなさそうだが…
背中に這い寄るつめたい痺れと何か下手に振り向いたり、この場から立ち去ってはいけない気がして靴は濡れるが俺はそのまま波打ち際から少し海に入っている。
色々まさかとは思うが疲れ過ぎてここに来て何か変なことを考えんたのかもしれないが実はここの砂浜は本当に曰く付きの場所なのかもしれない…
なにやらこんなことをしている自分がこのまま波にでも攫われて崩れ去って行けば良いのになどということをふと考えてしまうとクスクスとひとりでに不気味な笑いが耳の奥でするようになった。
クスクス...フフフ
一歩試しに歩き始めると意識とは逆の方向へ足がフラフラと動いてゆく、乾きと諦めを謳って潤いを求める体は...っておいおいおいおいこの足と何処へ向かう気だよ、まてまてまてまて…
こんなな行動と考えは馬鹿げてる、と頭のなかでは分かっているのに体は糸でもくっつけられた人形の様に乗っ取られて白波を靴で踏み始め、視線は沖の水平線で不自然に浮かんだ様に見える黒いヒトノカゲ...影でしか無いのにこちらへ手招きをしている様に見えるのは絶対気のせいだ。
「なにがおこってるんだ?これ…」
サ...キ......ナ.........イ...?
手放したい不満と不安を含んだが黒く霧となって溜まる...溜まる、まとわりつき、引き剥がし、自分を構成する物質をどろどろとした黒い液体で溶かしてゆく…
俺はこれが疲労からきたの貧血が引き起こした目眩と立ち眩みの中似過ぎないだとしても確かにあの時黒髪を垂らした顔の無い女に手招きされていたと思った。
これが幻覚だろうと迷妄だろうと俺の脳が憐れにも錯乱した結果だろうと俺にとってはどうでもいい。
例えこれ自分が死ぬ前の脳内麻薬であったとしても気にするものか、もしそうならこれが頭の防衛機能なのだろう、前々から神経が参っていることに今更ながら気がついたのか…だとしたらもう遅いな。
自分の足元に刺すような冷たさよりも胸一杯に突如堰を切った劣等感と悪寒に押し流されつつあってその感覚は彼にはもう届かない。
オイデ...オイデ...オイデヨ...クルシイノハ...イヤデショウ...?
ウタカタノユメヲ...コッチデイッショニアソビマショウ...ヨ!!
さながらセイレーンにでも誘惑された餌は自分の無価値さに気づいてしまった。
甘く、冷たく、静かに染み込んでゆくこれはきっと…海風ではないナニカ、溶かし、纏わり付き、彼岸へとそれを誘う。
我々の生は所詮胡蝶の夢、醒めぬ夢など無いのに罪を重ね合わせて先へ先へ…美しい水平線の向こうへ…
考えることは疲れる。慰めるものもなくかといって他人のふりを下へ見下すだけの厚顔を持てずに青年は不安定さに安住して精神の負荷を切り離なす…憐れな機械のなり損ないは紅染まる逢魔時に仮生の手にかかる…はずだった。
「もしもし…お兄さん、お兄さん!! 一体そんなラフな格好で亀の背にのって竜宮城にでも行くつもりですか?」
何かに肩を叩かれて遠退いていた意識が急激にに釣り上げられる。
胸から首に上がってきていた冷たい甘さが一気に冷えた浜風に変わる。
俺よりは確実に年下の若い女の子の声が聞こえて我に帰ったわけだがいやはや情けない限りだ。 振り向くと確かこの辺りにある高校生の制服を着込んだ少女が少し不安そうに俺を観察していた、
「だいじょ…うぶそうじゃないですね、何かあったんですか?早く上がってきてください、目の前で普段着のまま冬の海に沈まれても大変夢見の悪い話ですので」
心配そうに声をかける少女と胸に溜まった寒気と頭にかかった靄を払うのとを同時にできなかった。
今しがた起こった出来事が全く理解できずに案外自分の頭の中で混乱が起きているらしく少女との応対にしどろもどろしてしまっていたがこれは決して俺が女の人との会話が苦手だとかそんなことでは決して無いからな? 決して無いからな!?
「あぁ、平気だが…すこし目眩がしてしまってどうにも貧血になったらしい、最近あまり運動の方を積極的にしていなかったから急に砂浜でランニングなんてしてみたら動悸やら目眩やらで意識保つのも危うくなるわ…いや~助かりましたよ~」
なんてだいぶ心にもないこと言ったぞ俺、ついでに営業スマイルなんかしちゃってどう見たっておかしいだろうその言い訳…苦し紛れとはいっても流石にそれは…
「あ…」
ほら、話しかけてきた女の子も反応に困った顔をしているじゃないか、大丈夫だ俺はわかってる。無事に変人扱いされるんだーあーもぅ畜生め。
「あ…そうなんですか? 昔とった杵柄を使って経験だけで行動すると体がついていかなくって痛い目にあうって父が言っていましたが腰は特に気をつけないと癖になるみたいですからね」
あ、今この子、絶対に話をこのまま穏便に済ませようと適当に話を合わせたな…?
動機も収まってきたので少女の姿を確認しようと振り返るとそこには砂浜に似合わぬブーツに黒の暖かそうな黄土色のPコートを羽織った、髪の少し短い子が俺の肩ほどの小さな背でこちらを注意深く観察していたがしかし、髪の色よりも気になったのはその瞳の色、
髪の色も色素が薄く茶色がかってはいるが瞳の色なんて緑がかっている。それに俺は驚いたが俺のことは少しも気にしない様子で彼女は話を続けていく。
「そう...か、ぎっくり腰とかにはくれぐれも気を付けるとしよう」
存外普通に反応が返ってきたな、てっきり引かれるかと思うくらいわざとらしい反応をしたんだけど。
「まぁまぁ、それはこの際置いときまして…こんなことで夕凪に体を冷やされて体調を崩されては大変ですから近くの暖める場所とか洋服を買える場所に行きましょう」
自分の住んでいるアパートからここまでは10km無い位だがズボンの膝下まで海水の侵入を許してしまったこの状態で海辺を自転車で走ってみろ...明日の欠勤は確定申告になってしまいかねない。
「ええと、ありがとうそれじゃぁ…な?」
土地勘が未だに無いので遭難などしないように携帯でGoogle先生に頼りながら行くしかないね
「…はぁ、こんな時間に何をしていたのかはあんまり深く聞きませんけど…貴方因みにいくつですか?」「年齢? 聞いてどうするんですかそんなこと」「敬語を使い続けるか否かの基準として有効ではありません?」「...なるほど
平日のこの時間に学校の制服も着てに君こそ何をやっているんだと言いたくなったが自分の実年齢よりも少しだけ見栄を張りたくなるのは恐らく俺の歳くらいからだと思う。 っていうかここを通って通勤通学する人を見たことなかっただけなのだが…
「三十路のおっさんだよ、残念ながらな」
正確には二十七だが三十路でいいだろう、合コン中の女じゃあるまいしこの年齢の男にはどうでもいい話だ。
「そうですかならば一応の敬意は込めましょう…ところでお名前は?」
一応ってなんだ一応って、さらりと個人情報を答えてしまいそうになって口を噤む。
何が目的でこの子は俺に名前とかその他諸々聞いてきたんだ?
「名前…教えてくださいますよね?」「おお、そうだな俺の名前は寿限無」「冗談はそのやつれた顔位にしてください、もう少しで骸骨に見間違う位には顔色悪いんですから」
中々に言ってくれるじゃないか、この学生さんは…俺傷ついちゃうぞ?
「し、初対面の目上の人にそこまで皮肉をいうのか…」「相手にされないので」
「ぐぬぬ…分かった。よしかわみなとだ、吉川南斗。どこにでもありそうな名前だろ?」
自虐しながら少女へ目線をやるとマフラーで半分隠れた口元が動いているようだが…何を呟いているかは全くの不明である。
「そうですか、でははたしも...私も名乗らなくては失礼になりますから…かさいなぎ、葛西凪です」 葛西...あんまり周囲では聞かない名字だったが、地名でどこかにあった気がするな、「カサイ」はどこだ?京都か?
「吉川さんはこんな時間にこんな場所に何をしに…さては…高等遊民ですか?」
「うん…?高等遊民て、それニートですよね葛西君?」
「そうですか?果たしてものごとは言い様ですよ吉川さん、撤退は転進に全滅は玉砕に美化されますから」
「ちっとも肯定的になってないなそれ、それに付け加えていっておくと案外と土日休日の休みの業種ってあんまりないから」
へー、そうなんですかと関心の無さそうな生返事か聞こえてこいつは俺を目上に見てないなという結果がはっきりした。
「一応これでも年収も同期の中じゃそこそこある方なんだぞ、預金もある」
いいか、大人の張れる意地なんて金位しかないんだぞ? 本当に此位しかないのが悲しい事だが。
「人は持っているお金で判断できませんよ、見えにくくともその心で判断するべきです。」「至言だな」「金言ですよ」
おかしいな、俺はこんなにも話している相手に対して身構えずにいれたのかと疑問が浮かぶ。
最近仕事先でしか声を発することなかったし、同期や後輩との関係もあまり突っ込んだものではなくて淡白なものだったので自分の思う最低限の文言しか交わしていなかったというのに...ナゼだろう、
あの緑色がかった不思議な目を見ていると自分の心を見透かされているような見通されているような気がして言葉があとからあとから紡ぎ出されてしまうような気がした。
「さて、急がないと風邪ひいてそうですので移動しましょうか、吉川さんのおかげで私も風邪を引いてしまいそうなので反省してください」
くるりと踊り子のように回れ右をして葛西は溜め息を白く宙に浮かべて俺の愛車(赤い自転車)のとなりに止まっている水色のちょこんとした小さな自転車、そういえば葛西さんは平均より少し背丈の高い俺に対してかなり身長差があるよな…まぁ、高校生なんてまだ子供だしな、態度とかまだま背伸びしたいお年頃なのだろう。 よしよし、俺は葛西さんのお言葉に甘えるとしよう。
「そう…だな、葛西さんよろしく頼む」
「はーい、ではではご案内しまーす」
いやほんとダウナーなのかドライなのかこの子の性格はよくわからないな…
俺以外にとっては何でもない一日が夕暮れとともに終わろうとしている、あのままもしかしてなんて事は考えたくは無いが、自分は今本来であるならば海底で横たわり、魚の餌にでもなっていたのではないかと考えるとどうも背筋が寒くなる。っていうか寒くなるというか...足の感覚無くなってきてるんだがこれは...どうしたものか。
「そういえば私、この時間になるとあそこの海岸へよく来るんですよ」
海岸沿いの道を高校生と思われる少女と自転車で軽快に漕いでいく。
俺の愛車のマウンテンバイクのライトは白熱灯のぼおっとしていて、今にも消えそうで目の前の闇を照らせていない。
それに対して葛西さんの乗る最新の自転車に至っては三段ギアのLEDの電灯、なんとまぁ時代を感じてしまう。
「ほう、それまたどうしてなんだい?確か御近所さん達はあそこは妖怪の棲む海岸とか言ってだけど…」
葛西さん曰く妖怪というのはオーバーにしてもあの海岸で死亡事故が発生しやすいのは確かでなんでも海岸の形状として離岸流が発生しやすいのだとか…それを妖怪と言わん気持ちは分からないでもない、未知というものに対して興味と同時に尊敬と恐怖を持つのがさも人間らしい…
昔からの言い伝えとしてあの海岸には入るなと言いたかったので妖怪がいるっていうんだろうな。
「それはそれとして、海を見るのが好きなんですよ、夕暮れ時は逢魔が時とも呼ばれるんです、魔に逢う時間なんです、あっ…あの砂浜にいるのが妖怪なら吉川さんはさしずめ悪魔ですね」
なんで葛西さんに悪魔呼ばわりされるのかは深くは聞かないでおこう…あれか逢魔が時に出会ったか俺のこと「悪魔」なんていうんだなこの子は…初対面の大人に対しててそんな事を言うのもどうしてなのかこの時はまだ俺には分からなかったし彼女は後になっても教えてくれなかったんだけど。
ゆらゆら交差する不規則な薄明かりと白色の無機質な光、夜の闇が冷たく舞い降りていくなかで時おり自動車が速度を上げて夕闇の静寂を切り裂いていく…
ポツポツと会話らしい会話を途切れさせながら安い量販店へ俺達は向かった。
「膝から下が控え目に言って感覚無いし凍傷とかしてる気がするんだが…これ大丈夫か?」
おかげで自転車降りるのにも一苦労だ、今は何ともない…凍傷とまではいかないがしもやけ位は出来てるだろうし…
「本当になんで真冬の海にサーファーなどでもない人が着の身着のまま入ってるんですか」
日頃点検をしているはずのわが愛車の足取りはかなり重いというのも凍えて自分の両足は鈍くなっているからで、自転車の速度に比例して電球のその明るさは行ったり来たりを繰り返す。
「意外と吉川さんは話すのお好きだったりするのですか?」
自分の話、今の就職先とか学生時代のちょっとした友人とのばか騒ぎした話など...面白いのか面白くないのかは分からないが葛西さんは適当な相槌を返してきたのをみるに聞くに耐えないような話ではなかったようだ、機会があったら後輩に同じ話でもしてやろう。
「うんうん、あまり好きって訳じゃあないな」
「あ…え、そうなのですか? しかし人の経験というのは聞いていて自分に置き換えたり反面教師になったりしますから無駄にはなりません。全てが傾聴するに値するかは微妙ですけど聞いていて面白いと思ったので貴方はアタリです」「アタリとは...?」
「はい、文字通りの意味ですよ?」
なんか調子が狂うというか不思議な表現の仕方をする子だな…
「それより足は大丈夫ですか」「それより…ね」「えぇ、それより大事なことですので」
それ、俺の今までの話は要らなかったってことでいいのか…トホホ
葛西さんは海岸側と背後を一度だけ確認すると信号待ちで交差点の前で停止する。
正直足取りが重くなってきていて彼女が走らせる自転車に追い付けなくなっていたが単に足がかじかんでいるだけ…だよな?
あの綺麗な海岸に戻りたいなんて俺はちっとも感じてなんかいない…多分あんな不思議体験滅多にできるわけではないが今思い返すと不気味で足だ毛ではなく背筋がまで凍りそうな話、あの時葛西さんが現れなければ俺は今頃土左衛門になってふぐの餌にでもなっていたことだろう、縁起でもない。
「本当に大丈夫ですね?周りに…何か…いえこれ以上は止めておきましょう。」
葛西さんは一体なんの心配をしているのだ? 周囲を見渡しても葛西さんと俺しかいないはずなのだが?
自転車のスタンドを上げて店へ急ぎ適当な靴下とジーパンを購入しそのまま着替ることにした。
野口英世が二・三人旅立って思わぬ出資をしてしまったが背に腹は返られないからな…
「とほほ、休日だってのに散々な目にあったよ、明日も早いしちっとも休めてないわ…」
「それはそれ、これはこれですよ。物事は切り替えと諦めと度合いが大事なんだ…!ってさっき言っていたじゃないですか?」
「まぁ、理論上の実際に実現可能かは結構シビアなところあるからね?」
学校の目標でよくあったじゃないか、「文武両道」って絶対正義みたいな全てにおいて全力であれってやつ、あれって違うんだよ。
「自分の強度に似合った物事に対する付き合い方ってのがあるんだ」
「理屈をこねるよりも卑屈なとところにいますね吉川さん」
「現実主義者だから孤立しやすいんだ」「吉川さん、早速捻くれてるじゃないですか」
店舗外の自動販売機で温かい飲み物でも取り敢えず買おうとお札を投入し葛西さんに何が良いかと聞いてみると
「あ、いえ…いただいて構わないのですか?」と首を傾げるのが何ともあざとい葛西さんを横目に俺は彼女の年代が好みそうな甘いミルクティーのボタンに手を伸ばすと葛西さんは
「あの…すみません、私甘くないものの方がいいので今吉川さんが買ったものの方が…いいです。
と言ってきた。
若い女の子って甘いものが好きなもんだとばっかり思っていたがどうやらそうでもない様だ。
「あ~そっかそっか、なら…そうだね、幸いまだ開けてないしこっちをあげよう、軽いけど付き合ってくれたお礼だな!
軽く放ったコーヒーのスチール缶を少し前のめりになりながら受けとる葛西さんが、少しだけ可愛く見えた。
「んっ…暖かいですね…手袋越しでも伝わってきます。ふぅ、吉川さんありがとうございます。」
わざわざお礼までしてくれるとはなんとまあいい子だ。
俺の上司にも見習わせたいよあいつ、絶対に謝らないし頭下げないんだよあの野郎…思い出したら腹が立ってきた。
だってあいつあの失敗で俺が頭下げなぁったら…甘い香りのするカモミールティーなる紅茶の缶が売っていたので俺はそれを買っていみたが、甘さのあとに苦味が舌の上に残る。
「どうかされたんですか?なんだか苦虫を潰した様なお顔ですけれど…?」
「あー、いや別に何でもないよ?」
「何でもなくって考え事しているとそちらに夢中になってしまって自分でもなにをしているか分からなくなる、ってさっきもそうだったんじゃないんですか?」
「いや~なんというかあれはほら…魔が差したんだよ」「…小岩さん、魔が差したというより「魔に差された」というのが案外正しいのかもしれません…」
なんだか葛西さんはまた変な言い回しをする子だ。
互いに言葉数も少ないまま飲み物とくれて消えゆく…すっかり暮れてしまって空には夜のカーテンがかかり、白い月が浮かんでいた。
なにやら言葉に出来ない閉塞感の迷路は案外と抜け出す方法があるのかもしれない、俺達は買い物袋に濡れた服を入れて店を後にする。
「今日はなんだかすまなかったね葛西さん?」
「マッタクデスネーというよりもちゃんとしてください大人なんですから」
「大人に幻想をいだいちゃいけないぞ葛西さん、大人なんてろくでもないやつの巣窟だからな?」
「吉川さん…どんな人生経験をしたらそこまで人間不信になるんですか…」
人と仕事以外で話したのは久しぶりでしかも女の子というのはなんとも新鮮だがこんな非日常的な体験はこれでいいのだ、さっさと安い発泡酒でも煽ろう。
「あ…そうですね、それでは吉川さん私の家はこっち方面なので…この辺で」
ここまでこんなおっさんに付き合わせてちゃってすまないねと帰りの方向を確かめながら葛西さんに声をかけて俺はちっとも心の動かす必要のない安穏とした通常営業へもどることしか考えていなかった。
「…え?いや…あの…」
これまで口籠ることなんて無かった葛西さんが何故か口から言葉が出なくなった、饒舌多弁ではないけれどこの子は多分言いたいことははっきり言うだろうが何か言いにくいことでも有るのだろう…まさか社会の窓が!?
「よ、吉川さんの恰好が変だとかそういうことを言いたいんではないんです、ええっと…吉川さん…」
自転車から手を離して少女互いの距離を確かめる様に、自分の立場を確かめるように、少しずつ男に近づいていく、低く唸り声を上げる夜風が男の心拍を余計に駆り立てる、感情を少しづつ、少しづつ高鳴らせる…
「吉川さん、貴方は自分を見つめ直し自分を卑下して憐れみ、遠ざけ、憂う人ですね?
余り褒められたことではありませんからね、貴方を見ていると…なんだか不安になります。」
えぇ、初対面の女の子にここまで言わせる男って中々いないと思うのだが
どっか木枯らしに吹かれて飛んでいってしまいそう…というのは流石に冗談ですか?!」
「その…私、おんなじ周期で動くので機械みたいとよく言われるんです。
もしかしたら…もしかしたら!来週もあの砂浜に立ち寄るかもしれません、お休みとかありましたら…その時はお願いしますね?」
俺の返事も聞かないままに葛西さんは一度だけ此方を向いて穏やかに微笑みを向けると急に恥ずかしくなったのかどうかは分からないけれど彼女の翡翠の瞳は宵闇へ残像を残しながら消えていった…
「…何だったんだろうか、今日の出来事は…?」
ポツンと冴えない男が一人、すらっと伸びた街灯のもとに残された。
少しだけ遠出をしたばかりに折角の休日に午後から活動をしたらにわかに死にたくなり、奇行に走った末に女の子に救われて彼女にコーディネートされた服装でこんな場所に立っているなんて...
ここはどこのどの辺なんだろうかと携帯で確認したら海岸のさらに南で家から小一時間は確実に掛かる距離、正直足取りは決して軽くないがだからといってすごく思いかと言われればそうではない。
「葛西…凪か…」
吐く息は白くすぐに夜に紛れてしまう、さっきまでそこにいた自分より若い異性の姿はもうない。
久しぶりに煙草が欲しくなったのはなぜだろうか、買いにいこうとしてコンビニに寄ろうとも考えたが何時の間にやらスーパーにて自炊の準備をしているという不思議悪い気はしないこのまま物草をして空きっ腹に酒を流し込むことにはならなそうだ。
健康志向なぞしてどうなるんだというひねくれた悪魔の囁きを押し潰して適当に具材を集めて帰路へ着いた…
「しらかば~あおぞぉら、み~なぁみかか~ぜぇ」
かなり古い曲だがふと頭に浮かんだ曲を鼻唄を取り敢えず口ずさんでみる、俺は久しぶりにアパートの自室の鍵を開けて誰もいないけれど気の抜けた「ただいま~」の挨拶をしてみた。
「この夕飯は~水炊き~アヒルにあるのは~水掻き~」
余裕を持てる事を目指そうとするのはこの話には蛇足な気がするがもう少しだけお付き合い願おう、 俺という諦めてばかりだった人間が少しぐらいは何かを求めるようになっても…まぁ、何を今更と言われるかもしれないが…
何の気の無しに人は変わるものなのかと俺が後々思うきっかけになった。
因みに蛇足になるかもしれないが、俺はその後あの砂浜へ休みの夕刻になると気分転換を兼ねて自転車を走らせる事にしている。
「あ…またこんなとこまで来たんですか…」
「違うわ 残業が終わったし、そもそも俺を読んだのは君だろう?」
「え、そうでしたっけ?、休日の夕方になってやることが散歩とは…というより自転車なのでどちらかといえばツーリングですよね?」「そう...かもな」
「 それで今日はどうするんですか? 私のオススメはレストランでも行って吉川さんがちゃんと食べているのか確認するとかがいいと思うんです」
「それはもしかしなくてもオレの奢りか?」「まさか、折半ですよ「自分の分は自分で」です」
とまぁ少し嬉しそうな笑みを浮かべてある曜日の黄昏時、絵画から飛び出してきたかの様な輝かしい夕日の前に人知れずの白浜で青年と少女の話がを紡ぎ初めていた。
そうこれはどこにもない、ここにしかない物語、この日常の続きはまた気の向いたらにするとしよう。
それではこの度はこれにてお開き