貴方に捧げる別れ詩
明るい話ではありません。
病み注意です。
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「そろそろお迎えのようだな」
全盛期の筋肉は見る影もなく衰え、病にやつれた顔はうっすらと汗が滲む。
黄金に例えられた濃い金髪は白く色褪せ、澄んだ海の碧を結晶に閉じこめた瞳は濁りかけている。
病床に横たわる枯れ枝に似た身体を支えながら、私はいつもと変わらぬ調子の声で答えた。
「はい、そのようですね」
30年以上連れ添った年上の夫が病に倒れ、今まさに天へと召されるこの時。
妻である私自らが看取ることが出来る事を、あらゆる神へ感謝を述べたい。
「本当にお前には苦労をかけたな・・・私がこの年まで生きてこれたのは、全てお前のおかげだった・・・・・・」
「そんな・・・」
「お前がその痣に触れされてくれるようになってから、私がどれだけ神に感謝したことか」
私の首に生まれた時からある三日月型の痣に、震える指で触れ優しく撫でる。
他人に触れられると妙に感情がざわつくこの痣に触れる事を許した人物が少ないと知る夫は、ことあるごとに触れたがる。
見えないものを確かめる様に指を這わしながら、妻の金緑の瞳をのぞきこんだ。
「若い身で嫁ぎ、本来要らぬ苦労をかけた不甲斐ない私を見放さず、跡継ぎを育て上げ、愛らしい娘まで与えてくれた。私には過ぎた妻だ」
「・・・旦那様・・・」
力強く惜しみ無い労いの言葉は、片手を握りながら側に控える私の心に染み渡る穏やかな声。
夫にとっての、妻へと遺す最期の労りは糖蜜のよう。
眼から流れた涙の一滴は、これまでのあらゆるものを洗い流す清らかな輝き。
「私はお前と結婚して、幸せだったよ・・・ありがとう」
あぁ・・・嬉しい。嬉しい。嬉しい。
その言葉が聞きたかった。
その涙が見たかった。
今、私は人生で一番幸福を感じている。
「旦那様・・・私も幸せでしたわ」
「・・・アリシア」
互いの想いを交わし夫は、未練はもうないとばかりに満足そうな溜め息をついた。
夫の掌に指を絡め、視線を交わし私の想いを流し込む。
甘い甘い糖蜜を。
胸焼けをおこすほど。
「ふふ・・・なんて、私が本当に言うと思っていたの・・・・・・可愛い人」
「・・・・・・アリ、シア?」
「コレでようやく、私は解放されるのですね」
穏やかに黄泉へと旅立とうとしていた夫が、何を聞いたか解らないという呆気にとられた顔で、恍惚とした表情を隠さない私の姿を凝視している。
閉じかけた目を見開き、瞬きもしない。
ああ、なんて無様な表情。
私はその顔が見たかった。
ずっとずっと、その為だけに貴方の傍らに居たのよ。
あぁ・・・・・・幸せ。
私は夫を心から受け入れた日を、病で記憶を無くすか死を迎えるその瞬間まで、決して忘れる事はない。
あの日が私の生き方を変えたのだから。
*****
「アリシア・・・すまない」
「・・・・・・・・お兄様、私・・・・いえ」
侯爵家からの正式な婚姻の申し込みに、子爵家が抗えるはずなど無かった。
政略結婚ではなく、侯爵位を継いだ者に家格の劣る子爵令嬢が見初められる。
ましてや相手は、この国で最も尊い竜族の血を継ぐ由緒正しい侯爵家。
なんて栄誉な事だと他人は皆、羨望と嫉妬の眼差しで噂するのだ。
私の気持ちを痛いほど慮ってくれていた兄とその友以外は。
15歳の誕生日に、28歳の侯爵に嫁いだ。
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特に容姿が美しいわけでもなく、多額の持参金を用意出来るわけでもない私が望まれたのは、たんなる消去法。
夫となった侯爵が、真に愛する女性を囲う為の張りぼての盾として。
両親をなくしたばかりの我が家に目をつけ兄に話を持ち掛けてきた夫は、血筋を表す髪と瞳の華やかな色彩以外は、至って凡庸な人物だった。
取り立てて優秀ではないが、有り余る財産とそれなりの人望で使用人や領民に慕われた苦労しらずの男。しかし権力を使うことには長けていた。
まだ若く力のない子爵に抗うすべなどなかった。
私には想いを寄せていた人が居た。相手も憎からず想ってくれていて婚約間近だった。
しかし断ることなど出来ず、色々な想いを封じた箱に鎖をかけ、心の底に沈めて嫁いだ。
結婚式の当日に初めて顔を合わせた時、ことのほか強い眼差しを受け、一瞬心が波打ったが気付かなかった事にして。
理由の如何に関わらず、望まれて嫁いだ以上は、経緯はどうあれ妻として夫に尽くす。
その一念で侯爵家の女主人となるべく学び、夫との距離を縮めようとしたが、夫は平民の街娘を堂々と侍女として雇いそばから離さない。
彼から時折投げ掛けられる視線は、重たく暗く私の神経を逆撫でる。
そのうち侍女が夫によく似た美しい色彩の男児を産み、私は益々居場所を失っていった。
夫に軽んじられた名ばかりの正妻など、惨めなものだ。
日に日に強くなる古参の使用人達から向けられる私への憐れみと、当主を見捨てないでくれと庇いまとわりつく視線が、いっそう私の首を締め上げる。
表向きはおしどり夫婦を演じられているからこそ殊更。
それでも私は妻である以外にこの家で生きるすべが無い以上、感情を殺して夫の望む妻役をこなした。
茶会では夫をたて、女主人として使用人に指示を出し、愛人が産んだ男児を悋気をおこさず跡取りとしてあつかう。
侯爵が求める理想の『妻』として。
少しずつ。
少しずつ、降り積もる何かを抱えながら。
10年。
嫁いでから10年、その生活を続けた。
転機は、本当に突然だった。
愛人とその子どもが出掛け先で事故にあい、この世を去った。
最愛の女と子に襲い掛かった不幸にたえられなかった夫は、酒浸りになりながら『妻』にすがった。
それまで見向きもしなかった女から与えられた表面上だけの慰めに救いを求め、長らく理想の『妻』で在り続けていた『私』を初めて認識し、赦しを乞うたのだ。
嫁いでから10年目の冬。
あの人と無理矢理引き離された季節。
私は夫の謝罪と懺悔を受け入れた。
その日から夫は、掌をかえす様に妻を大事にした。
まるで結婚式の日からやり直す様に。
とどめていた堰が決壊したかの如く。
望む唯一の存在をやっと得たのだと。
ああ、なんて。
なんて空々しい。
頭の何処かで、いつかの鎖が弾け飛ぶ音を聞いた。
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「アリシア・・・君は今、幸せかい?」
「あら、変なお兄様。跡取りも産めて、今はほらっ、春には二人目も産まれる私が幸せなのは当たり前でしょう?」
「・・・・・・アイツとは、会っているのか?」
「・・・ふふ、以前夜会でお逢いしたわ。相変わらずお優しかった」
「アリシア・・・侯爵とは、その・・・・・・」
「心配性ね。それなりに仲良くやっていてよ。・・・色々あったけれど、今はとっても優しくして下さるの。私の『旦那様』は」
「・・・・・・・・・・」
*****
「アリシア・・・・・・」
夫の呆然とした呟きは私の名を形作る。
「はい、旦那様」
穏やかに返事をしながら瞼を閉じて彼の理解を待つ。
憤怒に満ちる心をさらけ出すのかしら。
あの日の様にみっともなく赦しを乞うのかしら。
それとも
堕ちた魂を私に差し出して下さるかしら。
「アリシア」
しばし無音に支配された空間を打ち破ったのもまた、夫が呟く私の名。
呼ぶの声に目をあけ、微笑みながら視線を向けた先にあった夫の顔は、絶望に染まってーーーーーーーいなかった。
クシャリと歪んだ目元は苦くとも甘さを湛え、口元は痣と同じ三日月に笑んでいる。
寝台に沈みながら手をもう一度持ち上げ、頬を撫でながら首へと触れた。
指はもう、震えていない。
「それでも私は、幸せだった」
「・・・・・・・・・左様ですか」
「お前は、私の妻だ」
「はい」
「あの子達は、お前が産んだ。妻の子は、夫の子だ」
「まあ・・・」
「私の子だ」
「えぇ、そうですわね」
私は今きっと、満面の笑みを浮かべているのだろう。
夫は、そんな私を眩しそうに目を細めて見つめていた。
「アリシア」
「はい、旦那様」
「愛している」
「ええ」
「愛しているよ」
「存じております」
「お前は迷惑だろうが、私はまた、来世でアリシアと廻り逢いたい」
「・・・・・・・・・・・」
「アリシア」
「・・・はい、旦那様」
「お休み」
「はい。・・・お休みなさいませ」
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力を失い寝台から投げ出されている腕を布団の上へと戻し、妻を求めたやせ細った指を一本ずつ撫でてゆく。
最期に夫が私の目尻を撫でた指が濡れていたのは、気付かなかったふりをして。
「良い旅路を。ーーーーーーデューク様」
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他の短編に裏話があります。
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