第21話 染むること愛の如し
第21話 染み込むこと愛の如し
「直政いるか?」
男の呼ぶ声が玄関の扉の向こうから聞こえた。
…義弘じいちゃん!
井伊直政なる死神は目で私に合図を送った。
私は慌ててトイレに隠れた。
それを確認して、井伊直政なる死神は玄関のドアを少し開けた。
私はトイレのドアを細く開けてその様子を覗き見た。
「何だ義弘、今来客中だ」
「昼間忘れてたけど、お前のサインが要る書類があってな…」
井伊直政なる死神は義弘じいちゃんの手から書類を慌てて奪い取ると、
下駄箱の上のペンを取って、乱雑にサインをして突っ返した。
「なんだやけに取り乱して、お前らしくもない…あ! 女だな!
来客て女だな? そうだろう? 家に連れ込むとはお前もなかなかやるな」
「いや…あの、その…」
井伊直政なる死神は耳まで赤くなってうつむいた。
いつもの余裕はどうした、もじもじして小学生のガキみたいだぞ。
「どんな娘だ、紹介しろよ」
義弘じいちゃんは奥を覗こうとした。
私はドアをそっと閉じた。
「あ…いや、その…そうなんだけどさ、今お風呂入ってるから」
「もうそんな関係かよ」
「そんな! まさか! え…いやその…これから…」
義弘じいちゃんは、真っ赤になってうろたえる井伊直政なる死神を笑うと、
「ごゆっくり」と言い残して帰って行った。
「…義弘じいちゃん、もう帰ったか?」
少し間を置いて、私はトイレから顔を出した。
井伊直政なる死神は下駄箱の端につかまって、胸を撫で下ろした。
「やばかったあ…!」
「確かに今のんはやばかったな、あたしもどきどきやったわ」
「だって義弘のやつ、中覗き込もうとするんだもん」
私たちは目が合い、そして笑い出した。
今の、ちょっと面白かった。
…なんか楽しい。
「あ…富久ちゃんが笑った」
「悪いか」
「…かわいい、すっごくかわいい、こんなおっさんのくせして俺、すっげどきどきした…!」
井伊直政なる死神は私の頬を手で挟んで、笑いかけた。
胸の真ん中を甘い痺れが貫いて、駆けていく。
私もどきどきする…。
なんだか急に恥ずかしくなって、私は彼の手をすり抜けて背中を向けた。
おとんの手続きは思ったより長引いた。
私は足止めを喰らい、井伊直政なる死神の小さな部屋に閉じ込められた。
私は籠の中の鳥だった。
朝、彼が出かけてしまうと何もする事はなく、テレビを見るか、
彼のゲーム機を借りてゲームをするかしかなかった。
それでも私はこの状況に納得して、外出する事はなかった。
外出は罪の露見につながる。
それに私はあの人に自分を売り渡した。
私は自分で自分の翼を落としたのだ。
私の自由はもうあの人のものなのだ。
夕方、あの人が帰ってくるとほっとする。
井伊直政なる死神はおいしい食事を用意してくれる。
生活の何もかもを整えてくれる。
私を抱きしめて、キスをして、とても可愛がってくれる。
隣に寝る事にも慣れて行く。
私はこうやって飼い馴らされていくのだ。
他に何もない部屋で、私に自分を染み込ませるように。
私の全ては井伊直政だった。
そうして2週間ほどたったある夕方、帰って来た井伊直政なる死神は言った。
「富久ちゃん、明日の午後行くよ。おとんの手続きが終わった」
「えっ…」
私は一瞬たじろいだ。
ずっとここでの暮らしが続いて行くのだと思っていたからだった。
井伊直政なる死神は私を抱きしめて、耳元でつぶやくように言った。
「…本当の事を言うと、俺は行かせたくない。
富久ちゃんをこのままここに留め置いて、囲って、自分だけの物にして、
ずっと可愛がって暮らしたい、出来れば愛し合って」
「ごめん、でもあたしは行かんと」
その晩、私は隣に眠る男の顔をじっと見つめていた。
…最後まで本当に何もしないのね。
彼の安らかな寝顔が腹立たしい。
私は規則正しい寝息を唇で塞ぎ、ふとんの中に手を入れた。
「…なんでそういう事をするの?」
起きていた…!
井伊直政なる死神は冷めた声で問いかけた。
「それは俺を愛してしてくれる事なの?」
「え…」
「そうでなければ俺はつらい。富久ちゃんは何もわかってない。
男が女に身体よりも心を求めるってどういう事か」
井伊直政なる死神は突然、私の身体をひっくり返して上になった。
そうして顔を私の首筋に、胸にうずめた。
でもそれだけで顔を離してしまった。
「出来ないよ…俺、出来ないよ…富久ちゃんは本当に何もわかっていない。
襲うのは簡単だよ…でもそれじゃだめなんだ、おっさんだからわかるんだ。
富久ちゃんを襲ってしまえば、富久ちゃんの心は得られない。
でも富久ちゃんは、そんな俺の気持ちなんておかまいなしだ」
彼はまた横になり、寝返りを打って私に背中を向けた。
その背中が闇の中でいよいよ黒く、小刻みに波を打っている。
「富久ちゃんはひどい…俺の気持ちを知っていながら、
その気もないのに俺を煽って、翻弄して…しかも無意識だ。
そんな事出来るのは、富久ちゃんが誰かを本気で好きになった事がないからだよ。
おとん、忠恒、学校のやつら…一体何人の男にそんな事しているの」
「そんな…」
違う、そうじゃない。
触らせるのは井伊直政、あんただから。
触るのも井伊直政、あんただから。
「俺は男だから辛い、富久ちゃんにそんな事されたら自分に負けてしまいそうになる。
富久ちゃんを大事にしたいのに…それを煽る君は鬼だ。
男を赤く燃やして苦しむ様を眺めて楽しんでいる、君は鬼だ…!」
その晩、井伊直政なる死神がこちらを振り向く事はなかった。
朝になって目が覚めると、もう出かけたらしく姿はなかった。




