ミチとの遭遇
「なんか飛んでる…。」
露店のおばさんはつぶやいた。遠目には最初、尾の長い鳥のように見えた。
そして数秒の目視の後、彼女の体内は底知れぬ違和感に、肌の内側から舐められたような感覚がした。
「ねえさ、アレ…なんだと思う?」
先ほどの独り言とは異なる、少し強いが無意識に抑え込んだような声で、隣の屋台の男に声をかけて空を指さした。
「…あん?」
そう振り返った男がその指先に視線を移した時、空の「鳥」はさらに大きくなっていた。そして二人は同時に認識する。
その飛行しているものには人間のような二本足があった。
そして鳥のような尻尾が揺らめいている。
鳥に太い足は無いし、人間に尻尾は無い。
そして人間に翼は無い。
魔物だ――!!
二人はほぼ同時に声を上げる。
しかし女の悲鳴は村の広場を切り裂き響く。
心の底からの恐怖と言うのは、声だけでもその強烈な感情を伝播させる。
広場の人たちが次々と空を振り仰ぐ。
そしてその顔が面白いように恐怖と絶望に変わっていく。
なぜなら後から見た者ほど、大きくしっかりと「それ」を認識してしまっているからだ。
ここからの街の広場の惨状は、到底すべてを書き尽くせるものではない。
人間たちを少しでも驚かせないように、ゆっくりと降りたつもりだったが、どうやらあまり意味は無かったようだ。
眼下の街の中央部の人間たちが、蜘蛛の子を散らすような勢いで動き始めた。もしくは小魚の群れに石を投げ込んだ時のような感じだ。その石は私なのだが。
慌てるあまりにぶつかって倒れる者も一人や二人ではない。中には踏まれている者もいる。
全ての者は周辺の建物に向かって、濁流のように動き始めている。
ふむ…あまり混乱させて怪我人が出ても悪いから、もう少しゆっくりと降りるようにするか…。
眼下の広場から人が潮が引くように消えていくおかげで、街の中央に降りやすそうな場所が出来た。とりあえずはあそこに降りて様子を見るか。
こんな反応はどこの街でもあったので、今更気にしても意味はあるまい。
どうやらドラゴン族は私が想像していた以上に、人間たちに恐怖の対象になっていたようだ。
最初の街では今回と同じように空から降りたので、やはり同じように大騒動になって、全ての人間は建物の中に隠れてしまって諦めた。
突然降り立ったのが悪いのかと思い、二つ目の街は少し離れたところに降りて、歩いて街の入口に向かったら、兵士たちがワラワラと出てきて完全に臨戦態勢。別に私は戦争がしたくて行ったわけではないので、また仕方なく別の街に向かう事にした。
三つ目の都市では上空に着いたら、魔術が雨のように飛んできて諦めた。
結局はどんな方法を取っても、人間が魔世界の種族を恐れている以上はこんなものだろう、とある種の諦めがついた。
そしてこの街も例外では無かった。
もうこうなったら好き勝手に見てまわるか…。
そう開き直って、すっかり人気のなくなった街の広場にゆっくりと足を着けると、予想外の事態に少し驚いた。
一人の人間が私の少し離れた井戸を挟んだ位置に座っていた。
「ほう、逃げない人間もいるのか…。」
座っている人間はうつむきながらゆっくりと立ち上がった。
見たところ戦士には見えない。魔術を使う者かもしれないから、念のために注意をしながら様子を見る。
見た感じでは…これは雌か?
どちらにしても逃げない人間は初めてで、今までにない好都合な事態には変わりない。こいつに少し話を聞いてみよう。
そう思って私はその人間に近寄ってみた。
歩き始めて私は違和感を感じ始めた。
彼女は不安げに首を振って周囲を見ている…ように見えた。
そして私の足音に気が付くと、こちらを怯えるように向いた…ように見えた。
「助けて…誰か…助けてください…。」
よく見ると顎が恐怖でガクガクと震えて上手く声が出せていないが、うわ言のように繰り返している。
「ねぇ、レッタ…レッタ!どこにいるの?!助けに来て…!」
一歩近づくごとに声がだんだん悲鳴に近くなっている。レッタとは誰だ?
自分の中の違和感が一歩ずつ確信に変わっていく。
そして目の前に立った時に私は聞いてみた。
「お前…眼が見えないのか?」
私が声を発すると同時に彼女は崩れ落ち、頭を覆って助けを懇願しだした。
予想外の行動に狼狽してしまう。
いや、人間が私たち魔世界の人を恐れている事は知っている。しかし、こちらに害意は全くないのにこういう行動をとられると、まるでこちらが悪いことをしているみたいではないか。
思わず周りをキョロキョロと見回してしまう。違う、私は彼女に対する害意はない。
気が付けば全ての人間は視界から消え、建物の中に逃げ込んだ人間の一部が、窓からこちらの様子をうかがっているのが確認できた。
その視線はいずれも恐怖に彩られ、何人かは憎しみすら湛えていた。
何回も繰り返してきて慣れているはずなのだが、どうにもあの視線は心にくる。
「す、すまない。お前を驚かせるつもりはなかったんだ。」
とりあえず平常心を取り戻してもらうべく、私は極力優しいつもりの声で話しかけた。この声をもし森の連中に聞かれたら、百年は話のネタにされるに違いないが、ここが人間界であることが運が良かった。
「お前を攻撃するつもりはない。だから落ち着け…ください。」
なんかもう、自分で言っていてだんだん恥ずかしくなってきた。慣れない敬語もどきまでうまく言えないし。もうこの街吹き飛ばしたい。
しかし羞恥に耐えた結果もあってか、彼女はゆっくりと顔を上げた。
「…助けてくださるのですか。」
「襲っていない人を助ける事は出来ないが、少なくとも今は人間に危害を与える気はない。」
「は、はあ…。…?」
彼女は呆けたように口を開け、事態がつかめないようだった。
「えーと…とりあえず落ち着いて立ってくれないか?」
今は一刻も早く、私が彼女を襲っているような構図を直してもらいたかった。
自分で言うのもなんだが別に私は雌に優しい優男ではないが、意味もなく雌を威嚇するような性格でもないのだ。だからこの状態は非常に心苦しい。
少し待つと彼女は手を付きながらゆっくりと立ち上がった。その様子を見て私は確信をもって先ほどの質問をもう一度してみた。
「お前は眼が見えないのだな?」
彼女は複雑な顔をしながらも答える。
「はい、その通りです…。」
こちらを見ようと開いた目はどこにも焦点はあっていなく、漠然と声のするこちらを見ているだけであった。
「あの…あなたは…ま、魔物…さん、ですか?」
魔世界の住人がこちらの世界では、魔物と呼ばれているのは分かっていた。
なんだか悪者扱いされている気分で良いものではなかったが、他の世界の文化に文句を言ってもしかたあるまい。私は仕方なく同意をする。
「ああ、お前たちの世界で言うなら魔物だな。正しくはドラゴンニュートだ。」
その言葉に彼女がまた体を震わせる。
少し嬉しかった。魔世界でも少し前までは比較的無名な種族であったドラゴンニュートが、人間界にも知られているとは。そして少なくとも畏怖の対象である事が。
「だが恐れる必要はない。別にお前をどうこうしようという訳ではない。」
もう何度も弁明する自分が恥ずかしくてたまらない。
「あ、ありがとうございます…。」
彼女も少しは落ち着いたようだが、まだ顔は赤く息も少し荒い。
キルトランスに任せていたら、いつまで経っても彼女の容姿を気にする事はなさそうなので、ここで一言付け加える事にする。
彼の眼前にいる女は背中の後ろくらいまでの黒髪を編み上げてあり、首元はすっきりと涼しげである。
このまま窓辺に座り、静かに本を読んでいるフリでもすれば、深窓の令嬢と言っても違和感はないほどの美少女であった。歳の頃は恐らくは十八前後であろうか。
薄め唇は花を連想する淡い彩があり、その声は少しウィスパー気味の良く通る声だ。
鼻筋は少し低いかもしれないが、それでも形は良く彼女の凛々しい印象に華を添えるものであった。
服装はアルビの基準でシンプルであり、年頃の乙女が身に着けるような装飾品は何もなかった。
草色のスカートと茶色の上着、下には白のブラウスと質素ではあったが、手入れのされた良い服である。
つまりは結構な美少女あったのだが、他世界の多種族の容姿の美醜などはキルトランスに分かるはずもないので、責めても仕方は無い事ではあるが。
「目が見えなくて逃げられなかったのか。」
「はい…先ほどまでレッタと一緒に買い物に来ていたのですが。レッタが少し離れた時に…その…あなた様が来て…。」
そう言い淀んだ。たぶんお前のせいだと言いたいのだろうが、私を怖がっているから言えなかったのだろう。
しかし突然、顔を上げて言葉を続けた。
「あ、レッタって言うのは私の友達です。」
先ほどの謎が一つ判明した。なるほど友に助けを求めていたのか。
「急に大騒ぎになってどうしたのかと思ったら、突然誰かがぶつかって来て倒れたところを何人もの人が走って来て…。」
どう考えても私が原因の一端だな。意図せずに彼女を被害者にしてしまったのか。
とは言っても、彼女を守らなかった街の奴らの責任でもあるから、私が一方的に加害者という訳でもあるまい。
「それは大変だったな。」
見れば彼女の服にはいくつもの足跡らしき土がついていた。
「見捨てられたのか。」
「仕方ないです。私…目が見えないから村のお荷物なので…。」
そう言って彼女は少し悲しそうな顔をしながら自虐的な笑みを浮かべた。
緊急時にはいたしかたない事だが、そういう事もある。
ドラゴン族にも色々な障害をかかえて生まれてくる龍はいる。そういう者はほとんどの場合において、弱肉強食の世界の摂理の中で命を落とす場合が多い。
それでも全ての者は生まれながらの境遇と戦いながら、頑張って生きていくしかないのだ。
もちろん同種族であれば庇護もするが、助けきれずに脱落していくのは仕方がない。
もっとも、龍族とくに魔術に特化したドラゴンニュート族においては、肉体的弱点を魔術で克服できる者もいるので、一方的に庇護されるケースは少ない。
弱者を助ける者がいるという人間の一面を見たのと同時に、弱者を見捨てる者たちもいるという一面も見て私は複雑な気持ちになる。
「その…あの…それでドラゴン様はなぜこの村へ?」
色々考え込んでいた私に、不意に彼女の方から声をかけられて我に返る。
「ああ…人間の世界を見てみようと思ってな…。」
「は、はぁ…そうなんですか…。」
予想外の答えだったのか、彼女は何と返せばいいのか分からないように言い淀む。
「偵察ですか?」
ふと任務の核心を突く言葉を聞いて驚く。しかし、いちいち人間に魔世界の話す必要もないので誤魔化すことにした。
「いや…単純に人間とはどういう生き物なのかを見てみたくてな。」
これも嘘ではない。それと共に、この目の前の雌にも多少の興味が出てきたのも事実だ。
そこで私は一つの提案をしてみた。
「もしお前がよければ、人間とはどういうものかを教えてほしい。」
「えーっと…。」
彼女は少し思索したが、おずおずと答えた。
「わ、私でよろしければ…。」
こうしてしばらくの話し合いの結果、私はとりあえず彼女の巣に行ってみる事になった。
広場から離れる時も向かう途中も周囲の人間の視線を感じながらなのは不快ではあったが、人間側の事情も分かるのでここは耐える事にした。
ちなみに巣ではなく「家」と言うのだということは道中、彼女から訂正された。
そして街ではなく「村」だという事も。もっともその違いはよく理解できなかったが。