二つの月「ユエ」と「ルーナ」
二人は暗くなった応接室のソファーで夕食を食べていた。
その光景は知らぬ人が見れば、奇異以外の何ものでもないのかもしれないが、二人にとってはごく自然な光景と言える。
片や光があっても見る事は出来ない少女、片や光が無くても月明かりだけで十分に見える龍。
二人とも光を必要としないのだから、ランプをつける事もない。
だがむしろ、二人にとっての奇異はテーブルの上の料理だったのかもしれない。
ジャルバの持ってきた食事は、いつもアリアとレッタの食べている食事とは趣が異なって、少々味の濃い刺激的なものであった。
見る人が見れば、それらすべてが酒の肴の料理である事にすぐに気が付くのだろうが、一人は少女、一人は人類の門外漢。それに気づけと言う方が無理があろう。
香辛料の類に耐性の無いキルトランスはその刺激に閉口し、少女はその釈明に四苦八苦していた。
キルトランスに至っては香辛料の刺激で唾液が止まらず、口からダラダラと零れていた。
もっともドラゴン界では唾液を気にする文化がなかったので、本人はいたって平気であるし、アリアもそれに気が付く事もないので、誰にも咎められることもなく、夕食は粛々と進んでいった。
しかし事情を知らない人が見れば、暗闇でドラゴンが少女を前によだれを流し続けるという、かなりホラーな状況に見えた事であろう。
それはともかく、今までの味との相違に関しては、ジャルバ団長の好みの問題だという事をアリアが説明してキルトランスに納得してもらったが、彼はこれを期にアルビにも色々な食べ物があるのだという事を思い知り、ますますもって興味を深めたのであった。
食事が終わり二人は水を飲みながら一息ついていた。
陽はとっくの前に沈み、二つの月の片方が中天に、もう片方は北の地平近くにあった。そのために少々暗くはあったが、キルトランスにとってはこれと言って問題があるほどの暗さでは無かった。
窓の外の月を見ながらキルトランスはふと呟いた。
「…静かな夜だな。」
カップを両手で持って一息つきながらアリアは笑う。
「それはレッタがいないからでしょうね。」
それにつられてキルトランスもフフッと笑った。驚いた表情で彼の方を向くアリアに、キルトランスは戸惑った。
「どうしたのだ?」
「いえ…なんでもありません…。」
慌てて表情を隠すアリア。それは魔世界の住人が笑うという事に驚いたのだ。
アリアとて昨日からの交流で、彼が人間となんら変わらない心を持っている事は知っているつもりであった。しかし「笑う」という行為は、特別なものだと心のどこかで思っていたのだ。
そして笑う龍を目の当たりにして、アリアの心はさらに彼に近づいたのかもしれない。
「…明日でようやく家から解放されますね。」
微かに赤らめた少女の頬は、さすがの龍の目をもってしても気づくことはなかった。
「そうだな。ようやく自由に動けるようになるのだろうか。」
キルトランスは外を見たまま呟く。
「ええ、村に出られるようになったら…一緒に村を回りましょう。」
「ああ、楽しみだ。人間がどのように生活しているのか、早く見てみたいものだな。」
アリアは思った。
もし自分の目が見えるのならば、彼と共に村を歩いて紹介してあげられたかもしれない。
しかし自分はそれすらもままならない身なのだと思い知る。
自分にできる事は、せめて彼の足を引っ張らないように一緒に歩くことくらいなのだ。
十年以上生きてきた村ではあるが、未だに生活に必要な場所以外への移動は、レッタや村人たちの助けが必要なのはどうしようもない事実だ。
だからこそ彼女は、村を紹介すると言うのではなく、一緒に歩くと言う表現を使った。
せっかくの異世界からのお客人に、おもてなし一つ満足に出来ない自分の不甲斐なさを恥じると共に、やはりこれからは一人で生きていける範囲を広げよう、と心に誓ったアリアであった。
「本当なら、夜はもう少し賑やかなんですよ。」
「ほう?」
キルトランスは興味を引かれたように問うた。
「いつもだったら、もう少し外は人の声が聞こえたりするんですよ。それこそジャルバ団長の声が聞こえる時もあります。」
そう言って彼女は笑ったが、キルトランスは少し複雑な顔をした。
「…それはつまり、未だに私を恐れて皆が静まっていると言う事か?」
決して責めたつもりで言ったわけではないが、彼がそう受け止めても仕方は無い。苦笑しながら弁解するアリア。
「さすがにあの日からまだ三日しか経ってないですから、村の方々もびっくりしているんだと思います。」
そう聞いてため息をつくキルトランス。
人間たちが怖がる事情も分からないでもないのだが、こうして隔離されて弁解の余地もなく怖れられているとなると、やはり少々歯がゆい思いは否めない。
「でもキルトランス様が皆様に会えば、すぐに怖くなくなると思いますよ。」
アリアは思った。彼ならきっと村人たちも受け入れてくれるようになるはずだと。
そしてその橋渡しの役目は、他でもない自分にしか出来ない事であると。
「そうだと良いのだがな…。」
彼も少しだけ希望を持って答えた。
それは自分とは異なる文化を持つ人間に興味が湧いて、さらに色々な事を知りたいという欲求が求めた希望であった。
二人はしばしの静寂に包まれた。
春先のタタカナル。片方の月「ユエ」が満月を窓から覗かせていて、もう片方の月「ルーナ」は下限の三日月の姿で北にある山脈の峰に近い。
この季節の夜風は北から吹き、村の草木を優しく揺らしている。虫の控えめな声が静寂の村に響きわたり、開け放した窓から静かに流れ込んでくる。
キルトランスはその全てに五感を研ぎ澄まし味わっていた。
ドラゴン界とは何もかもが違う世界、アルビ。決して肉体にとって居心地のいい場所とは言いかねるが、不思議と心はとても居心地が良かった。
その理由が目の前の黙して俯き、少しだけモジモジと指をいじっている少女に因るものだとは、今の彼には気づくことは出来ないであろう。
そしてどのくらいの静寂が続いたであろうか。
少なくとも窓の真ん中にあったユエが、窓の枠に触れそうになるほどの時間は過ぎていたようだ。
このキルトランスと言う男、静寂が嫌いではない。用事が特に無ければ、他の龍が近くにいてもずっと黙っていられるような性格なのだ。
しかし静寂は少女によって控えめに破られた。
「あの…今晩はどちらで寝られますか?」




