初めてのエアリアーナ
ホートライドに抱えられたレッタを見送った後、二人はしばらく玄関に立ち尽くすと、アリアが中に戻ろうとひかえめに提案して中に戻った。
広めの玄関ホールを彼女はゆっくりと歩き始めた。
最初は普通に、そして十歩ほど歩いたあたりから速度を落とし、手を出しながら歩き始めた。奥の壁を探しているのだろう。
その歩みはレッタと共に歩く時よりもさらに遅く、キルトランスは少々やきもきした。
そして彼女の手がもう少しで壁を探り当てようとした時に、彼女の肩と手をキルトランスの手が包んだ。
「ここが壁だ。」
ぶっきらぼうな物言いではあるが、その手はあくまでも優しかった。
アリアは予想外の事に一瞬ビクッと体を竦めるが、すぐにキルトランスと分かると、はにかみながらも礼を言って、ゆっくりと壁を確認するように撫でた。
そしてアリアは先ほどよりは早く、しかしやはりゆっくりと壁をなぞりながら歩みを進める。だがその歩みは、確実に自信を感じられるものであった。
彼女の肩には龍の手が乗っている。
その大きな掌は彼女の肩を包み込み、その爪先は彼女の胸元に少々当たるくらいではあったが、その感触は痛みでは無くむしろ心地よい物であった。
彼女が二歩進めるとキルトランスが一歩歩く。神妙な面持ちでアリアを見つめるキルトランス、そして少しだけ赤らめた頬で歩むエアリアーナ。
時間をかけて二人は応接室に戻るとソファに座った。
座ると赤ら顔のアリアは大きくため息をついて両頬を触った。その熱さを実感しているのだろう。
その様子を勘違いしたのか、キルトランスが言い訳めいた事を言った。
「レッタのやってた事を、見よう見まねでしてみたつもりなのだが、慣れない事をするものではないな。迷惑だったか。」
「ち、違います!違うんです!。」
それを聞いて、慌てて両手を大きく振って否定するアリア。
「キルトランス様はちゃんとしてくれました。初めてだとは思えないほど上手なエスコートでした。」
「そ、そうか…それなら良かったのだが…。」
「ただ…。」
そう言いながら彼女は再び頬に手を当てて呟く。
「その…レッタ以外の人に体を触られるのが久しぶりで、ちょっと…びっくりしちゃっただけです…。」
再びため息をつく。事実、彼女の心臓は今までに感じた事のない高鳴りをしていた。
その原因を彼女が自覚しているのか、していないのかはまだ分からない。
実際、彼女の体に触れるのは村でも女性ばかりで、男はちょっと手を引く程度だった。肩を抱いたことのある男の手は、せいぜいホートライドが数回といった感じなのだ。
キルトランスがどう話を続けていいのか迷っていると、アリアはおずおずと申し出た。
「あの…ありがとうございます。もしキルトランス様がご迷惑でなければ…これからも助けてくださいますと…嬉しいです。」
そう言うと彼女は顔を伏せた。お願いするために頭を下げたというよりは、恥ずかしくて顔を隠したようにも見える。
「そうか…分かった。いや、私もこの家に、この街に住まわせてもらうのだ。これくらいの手伝いなら造作もない。」
キルトランスは安心したように言う。
何百年生きた龍と言えども、初めての事をするときは多少なりとも緊張はするのものだ。
まして人間の肉体など、つい先日まで触ったことが無かったのだ。
どの程度まで力を入れたらいいのか分からない柔らかい肌は、キルトランスにとっては泡を掴むように細心の注意を払って扱わなければならない。
ただキルトランスは先ほどのホートライドとの戦いで、人間の体の性能というものをある程度は分かったつもりであった。
体の大きさを考慮するに、ホートライドの半分くらいの力で接すれば大丈夫だろう、というおおよその見当を付けていた。
だがキルトランスが知らない事が一つだけあった。人間の男女には筋力に差がある事を。ドラゴン族は雌雄に身体的な能力差がほとんど無いのだ。
その辺の事実は後々、彼女との生活の中で徐々に知っていく事になる。
夕方の穏やかな時間がしばらく過ぎて、アリアが落ち着いた頃に、二人はポツリと話を始めた。
「そう言えば…今晩の夕食はどうなるのだろうな?」
アリアはハッと気が付いたようで、不安そうな顔になる。
「どうなのでしょう…?恐らくホートライドさんが持ってきてくれるのだと思いますが…。」
だがもちろんその保証はない。あくまでも彼の善意に期待するしかないのだ。
その不安そうな表情を見たキルトランスは、少し焦って言葉を付け加えた。
「まあ私としては、別に一日二日何も食べないところで問題は無いのだが。」
それを聞いてアリアも少し笑った。
「実は私も少しくらい食べなくても平気なのですけれどね。」
「そうなのか?」
キルトランスは意外そうに尋ねた。
レッタの騒ぎようとホートライドの気遣いを見るに、人間は一日に何度も食事をするのが当たり前だと思っていたからだ。
「食事はほとんどレッタに頼り切りでしたから、彼女がどうしても家に来れない日なんかは、何も食べない事も昔からよくありました。」
そう言って笑った。
「ほんと、今思うと私って…ダメですね…。」
その笑みは自嘲のものであった。
「ダメもなにも、目が見えないのであれば、その辺は仕方がないのではないのか?」
彼がそう問うとアリアは寂しそうに首を振った。彼女の髪が肩をさらさらと流れる。
「違うんです。今までレッタが全部やってくれるのが当たり前だと思っていて、自分で何の努力もしてこなかった私ってダメだなって思って…。」
キルトランスはそれには何も答えなかった。
人間の社会の様子が分からない以上、彼女の現状の良し悪しを判断できるものでは無いし、自分の住んでいた世界の基準で断定するものではないと思ったからだ。
ドラゴン界で考えれば、卵から孵った後しばらくは親の庇護もあるが、一年も経たずに自分で獲物を捕らえるようになり、親元を離れ一人で暮らすのが当たり前である。だから食事にありつけないのは己の未熟さでしかない。
しかしドラゴン界でも他の種族でも、弱い種ほど相互協力をするものだとは知識で知っていた。それは弱さを克服するための知恵だと。
そして人間たちが群れをつくり、街をつくり、互助をして生活しているのは、弱さゆえの行動だと思っていた。レッタとアリアのように。
だがそれを悪だとは思わない。
さまざまな種族には、さまざまな生きる術があるのだ。
生き残ろうと足掻く行為に悪などありえない。それは須らく尊い努力である。
だからこそ、レッタがアリアを生かすために助けるのは、良い事だとは思っていた。
しかしながら、確かに彼女の口から告白した「レッタに頼っていて、自分で生きる努力を怠っていた」と言う事に関してはその通りかもしれない。
しかし彼女は自分でその怠惰を克服し、努力をすると宣言したのだ。
その意思に賛同し、それゆえに自分も手を差し伸べようと思った。
彼がアリアから感じた、心地よい魂の息吹は間違ってはいないようだ。
「そうかもしれない。しかしエアリアーナ・オレガノ。君はこれから努力するのだろう?それならば、それで良いのではないか?」
その言葉を聞いて顔を上げるアリア。
「そう…ですよね。」
物憂げだった彼女の表情に光が射す。
「分かりました。キルトランス様の言うとおりです。私、これから頑張りますね!」
徐々に力強さを帯びる言葉に、彼も心が温かくなる感じを受けた。
それから二人は厨房に向かい、夕食になりそうなものが何か無いかを探した。
しかし食糧はほとんどなく、ホートライドが買ってきたものはすべてその場で食べてしまっていた。
辛うじてパンの塊が残っていたので、今日はそれを食べて終わりにしよう、という話になった。
厨房を物色している間、キルトランスは初めて見る人間の道具に興味津々で、色々とアリアに聞いて回った。
しかしそれらのどれも、アリア自身が触った事もない道具ばかりで、説明が出来たものはほとんどなかった。
むしろ答えられなければ答えられないほどに、アリアが落ち込むのが分かったキルトランスは、途中から問うのをやめた。
「これから二人で学んでいけば良いではないか。どうせレッタに聞けば、イヤと言うほど説明してくれるのではないか?」
彼女を慰めるように言うキルトランス。
「そうですね…。」
暗澹とした面持ちで答えるアリア。
沈みかけた陽はすでに室内には届かず、厨房はかなりの暗さになっていたため、彼女の面影をより暗いものへの感じさせていた。
二人はパンの塊を持って応接室に戻ることにした。
しかしその後、すぐに来客が夕食を持ってきてくれたために、幸いにも二人は普通に食事をすることが出来たのだった。
その客とは、意外な事にジャルバ団長であった。
「おう、お二人さん元気でやってるかい?」
玄関越しに二人を見ると、手にしていた籠をキルトランスに渡した。
「はい。ありがとうございます。大丈夫ですよ。二人で仲良くやってます。」
アリアは不安に思わせないように努めて笑顔で答えた。
「そうかい、そりゃ良かった」と軽口を叩いた団長は、少しだけ声のトーンを落として言った。
「ホートライドな、ちょっと今忙しいみたいで、オレが代わりに持ってきてやったぜ。」
何かどう忙しいのかは言わなかったが、何か手を離せない状況なのだろうとキルトランスは思った。
その事情とは、前述のコルキア家の大ゲンカに彼も巻き込まれた事なのだが、それを言えばアリアが心配すると思い、あえて言及をしなかったのはジャルバなりの気遣いだ。
「キルトランス殿。レッタが来れないぶん、エアリアーナを守ってやってくれ。」
そう言って笑った。
キルトランスを信用すると決めた団長は、エアリアーナの事を彼に託した。
それはつい昨日まで怖れていた敵とは思えないほどの豹変っぷりであったが、それが逆に彼の潔さでもあるのだ。
「承知した。」
キルトランスが手短に肯くと、ジャルバ団長は笑ってアリアの方を見た。
「だってよ。良かったな。たぶん今夜はこの村で一番安全な場所だぜ。なんてったってドラゴン様がお前を守ってくれてるんだからよ。」
アリアは照れながら笑う。少し後ろのキルトランスに振り返りながら。
その様子を見てジャルバも安心したように肯いた。
そして一言だけを言うと、二人に背中を向けて帰っていった。
「あと一日だけ出るのは我慢してくれ。たぶん良いようにいくからな。」
二人はその背中を見送ると、再び共に応接室に戻った。




