キルトランスと初めての料理
結論から言うと、朝食は質素なものだった。
もともとレッタは昨夜、家に戻った後に近所の食料品店に寄って、夕食の食材を買ってからアリアの家に戻るつもりであった。
しかし一連の騒動の中でそんな事は当然できるはずもなく、手ぶらで、むしろ人様の手荷物状態となって帰ってきたのだ。
そうなれば必然、朝食の食材はアリアの厨房に残っている食材のみとなった。
この世界では科学技術と言うものはほとんど発達しておらず、食糧の保存事情に関してはまだまだ初歩的なものである。
肉や魚に関しては乾燥・燻製・塩漬けされたものばかりで、生肉が食べられる機会は何かのお祭りの時くらいなものだ。
この時代では最も保存の効く食料は穀類であり、次に野菜や果実などが数日持つ程度だ。
大陸北方の寒い地域であればもう少し日持ちはするのだが、タタカナルは北キルメトア大陸でも南方にあり、年間通して比較的温暖な気候であるが故に、保存事情には万年悩まされてきた。
しかし幸いにして、タタカナルの村は北側に少し行けば山もあり、南側は海へも近い。
そしてその中間の猫の額ほどの広さの平原に位置するタタカナルは、肥沃とは言い難いが、なんとか数百人の村人を養うだけの作付け面積を確保できる畑があった。
そのためそれぞれの地域の村から、ある程度の食糧が届くために北キルメトア大陸南部としては、そこそこの豊かな食文化の村である。
それ故に交易の小さな要所となり、交易の小さな隊商が途切れることはあまりない。
ただしタタカナルの西方、数日のところに、隣国ガヴィーター帝国に最も近い交易都市が存在するために、大きな隊商がタタカナルに寄る事は少ない。
地政学的な視点はともかく、アルビの保存事情に関しては一つの特筆すべき点がある。
それはもちろん「魔力による保存」の存在である。
現在のアルビでの魔力保存とは、氷を産み出すポーションを使って氷を使って保存する、冷蔵箱の事を指す。
魔力が無い世界であれば、氷は冬にしか作る事が出来ないために苦労をしたであろうが、アルビでは氷を産み出すポーションが作る事ができるために、世界のどこであろうが氷の調達は可能なのだ。
だが断熱技術や技術の問題で、最低でも一日に一回は箱内に氷を追加しなければならず、そして氷のマジックポーションは決して安いものではない。
そのために費用対効果が良いとは言えず、大都市の王侯貴族や豪商くらいしか通年で使用する事ができない。
タタカナルの村にも冷蔵庫自体は片手で数えられるほどしか存在しないし、通年の使用は村長の家ですら不可能である。
そのため、どうしても食糧を長期間保存しなければいけない事情がある場合は、村人たちが金を融通しあい、ポーションを大量購入して村長などの家の冷蔵箱で冷やすのだ。
実を言うとオレガノ邸の厨房には古い冷蔵箱があるにはあるのだが、経済的な事情により長年使われてはいない。
それ故にアリアとレッタの食糧事情は、他の村人と全く変わらない程度のものである。
「ごめんねぇ…ごめんねぇアリアぁ…。」
泣きながら平謝りするレッタ。必死でなだめるアリア。そして対応に困って黙っているキルトランス。
そんな彼女たちが囲む応接室のテーブルの上には、パンと肉の干物、そして豆のスープが並んでいた。
少なくとも最低限の品ぞろえはされているようには見えるが、レッタにとってはそんな事は問題ではないらしく、アリアが幸せになる献立を用意できなかった事が問題なのだろう。
「いいのよレッタ。品数は少ないけれど量は十分にあったじゃない。」
泣きじゃくる子供をあやす母のように、優しくレッタの頭を撫でるアリア。
その様子を黙って見守っているキルトランスは何を思っているのだろうか。
「それよりも早く食べないと、せっかくの暖かいスープが冷めてしまいますよ。」
その言葉にレッタも渋々と自分の椅子に座った。
ただでさえ申し訳ない状況に、自分のせいで冷めたスープになってしまったら、いたたまれないからだ。しかしキルトランスだけは、冷めた方が助かるのにと内心思った。
「それではいただきましょう。」
その言葉で少女たちの朝食が始まった。その様子を無言で見ているキルトランス。
アリアの前に並べられたお皿に向かって、彼女はゆっくりとテーブルに指を這わせると、指先がコツンと皿に当たった。
そしてそこから慎重に皿を手で確認しながら、中央に置かれているパンを探し出した。それをちぎって口に運ぶアリア。
今度は隣の皿にゆっくりと手を伸ばし干し肉へ。
そして二つの皿の間にあるスープの皿に手を伸ばすと、今度はゆっくりと指で縁をなぞり始めた。指先にスプーンが当たると、それをゆっくりと持ち中のスープを飲み始める。
アリアがスープを飲もうとした時にレッタは静かに手を伸ばし、アリアに気づかれないように皿を押さえて、誤ってアリアがスープを零さないように手助けをしていた。
その様子を見ていたキルトランスは心の底から感心していた。
人間には優しさと知恵があるではないか。
二人の息の合った連携を見ているだけでキルトランスは心が躍った。
しかしその様子を見たレッタが尋ねてきた。
「…キルトランス、どうしたの?食べ方わかんない?」
この言葉にもキルトランスは内心舌を巻いた。
普通、このような状況であれば「食べたくないの?」と意思を問うのが普通であろう。しかしレッタは当然のように手段の方を問うた。
それはレッタが長い間アリアの世話をして、彼女が困った時の手助けをし続けた結果の配慮だ。
食べないのは食べ方が分からないからだ、という思考に慣れていた彼女だからこそ出てきた言葉だ。
昨日はどうしようもない面倒な女だという認識ではあったが、そのような思慮深い一面もあるとは意外だ。
「ああ。どれも初めて見る食べ物だからな。」
そして案の定、レッタの配慮は正しかった。
キルトランスからすれば「料理」という物は須らく初体験であり、方法も道具も未知の世界だったからだ。
「だが君たちを見ていれば分かるだろう。私には構わないで二人は続けてくれ。私は二人の真似をして食べてみる事にする。」
その言葉にアリアは少し恥ずかしそうに応えた。
「うう…私の方は見ないでください…。私の食べ方ってたぶんおかしいと思いますから、真似しちゃダメですよ?」
確かに見ていて二人の食べ方は違うことは分かるが、キルトランスには何が正しくて、何が正しくないのかは分からない。
「安心しろ。私には人間のマナーなんてものは分からない。なんでも口に入れば問題はなかろう。むしろ目が見えなくても、普通に食べられているエアリアーナに驚いている。」
「そうだよ。アリアだって昔と比べたらすっごく上手くなってるんだから、気にしちゃダメ。」
レッタがフォローをするが、スプーンを持つアリアの手が止まって、彼女はとても恥ずかしそうに俯いた。
きっと彼女にとって、食事をしている所を他人に見られている、という自覚をするのが珍しかったからであろう。
「キルトランスはアタシの真似して食べてみればいいと思うよ。」
そう言いながらレッタは食事を続ける。
彼女はアリアのサポートの合間合間に自分の食事を進めている。キルトランスは彼女の助言通りに真似して食べてみる事にした。
とりあえずアリアが最初に手を付けたパンに手を伸ばしてみる。堅いような柔らかいような不思議な触感であった。
補足ではあるが、アルビでの庶民的なパンは日持ちを最優先するために、丹念に焼き上げてあるため密度も高く硬いものである。しかしキルトランスの筋力では堅いと言う認識はされない。
キルトランスは、アリアがしていたように指でパンをちぎって口の中に放りこんでみた。
そして口の中に広がるはずの味を堪能しようとしたが、微かな酸味がしただけであった。こんなものか…と思いながら噛もうとしてみたが非常に噛みづらい。
それもそのはず、彼の口の構造は咀嚼に向いていないのだ。
頬の皮が少ないドラゴンは口の前方での咀嚼は難しい。その様子は犬の咀嚼に近いだろう。
仕方なく奥歯の方でパンを噛んでいると、次第に仄かな甘みと香りが鼻をつく。
初めての感覚を堪能しながら一口目を飲みこんだ。そして二口、三口と進めるにつれて徐々にコツを掴んできたのか、楽に食べられるようになってきた。
本人は全く自覚はないのだが、噛むたびに口の端からパンのかけらがボロボロと零れている。
もちろん零れているのに気が付いていないわけではない。ただ零れるという事を重要視していないだけだ。
人間であれば子供ですら親に叱られるであろう行為だが、そんなことはキルトランスが知る由もない。
レッタはそれを少し見ていたが、何も言わずに自分とアリアの食事を続けた。
一個のパンを平らげると、次は肉と言われていた物体に手を伸ばしてみる。
しかしその肉も、キルトランスの思っていた肉とは程遠いものであった。
獲物を捕まえてそのまま食べる事も多く、料理と言えば焼く程度のものでしかなかったドラゴン界にいた彼には、干し肉というものが理解できなかった。
それもそのはずである。
アルビで言う太陽に相当するものが無く、高温多湿のドラゴン界では肉の腐敗は速く、生肉を放置しておけばあっという間に腐ってしまい、食べられるものでは無くなってしまうからだ。
とりあえず爪の先で詰まんだ茶色の板状のそれを、鼻先に持ってきて匂いを嗅いでみるが、刺激臭がするだけで生肉の匂いは全くしなかった。
その刺激臭の原因は香辛料と塩なのであるが、スパイスというものを知らないキルトランスからすれば少々不安になる匂いでしかなかった。
だが二人の少女がそれを普通に食べたところを見ると、問題はないのだろうと信じて口に放りこんでみた。
「ぐ…。」
強烈な刺激としょっぱさで驚き少し声が漏れた。
素材をそのまま食べる事が多いドラゴンからすれば、あまりにも味覚の情報量が多すぎたのだ。
「キルトランス様、どうかされました?」
「あれ?キルトランス、まさか肉がダメなの?」
少女二人がキルトランスの様子に気が付いて声をかけるが、彼はなんだか気恥ずかしくなり、曖昧な返事でごまかしながら、歯の間に干し肉を挟んだまましばらくそのままにしていた。
「干し肉はよく噛まないとダメだよ。」
と助け船を出すレッタ。
「噛めば噛むほど美味しくなりますよ。」
と微笑むアリア。
二人の言葉を聞きながら、やはり奥歯の方で咀嚼をしてみるキルトランス。
すると確かに刺激は気になるが、噛めば噛むほどに味が変化をして、徐々にキルトランスが知っている肉の味に近いものがじわじわと出てくるではないか。
血の滴る肉の味とはまた異なった味わいが気に入ったキルトランスは、しばらくその味覚を堪能すると嚥下して二枚目の干し肉に手を伸ばした。
アリアとレッタの様子を見ると、二人は一枚の肉を小さく噛み千切って食べていたが、キルトランスの口ではそんなに小さい破片を噛むことが難しくて、結局一枚そのまま口に放りこむ事にした。
再び強烈な刺激が舌を包んで、徐々に濃い肉のエキスが口に広がる。
その味を楽しんでいると、レッタがニヤニヤと覗き込みながら「キルトランス、それ気に入った?」と問いかけてきた。
「うむ。これは面白い味だ。」
口から肉片を落とさないように気を付けながら答えるキルトランス。その応えを聞いて、少女たちの顔がほころぶ。
「そっかそっかー、気に入ってくれてなにより。」
「うふふ、人間の食べ物がお口に合って嬉しいですわ。」
二人は楽しそうに話しながら食事を続ける。彼に今後食べさせたい料理の話をしたり、どういう物が好きなのかを話ながら。
少女たちの会話に登場した単語の全てが理解できなかったキルトランスだが、逆に人間の料理の種類の多さに驚き、食べてみることが楽しみになった。
ちなみに豆のスープに関しては昨夜のお茶と同じように、非常に飲むのに苦戦して結局魔力で丸めて口の中に放りこんだ挙句に、豆にむせて吐きだすという醜態を晒した。
人生初の料理体験となった朝食は、キルトランスの好物に干し肉が加わったという大きな成果を残して終わった。




