騒がしい朝の三人
混濁した意識が、徐々に覚醒の水面へを浮上していく。
何か夢を見ていた気もするが、言いようのない浮遊感に、その記憶すら曖昧で覚束ない。
ふと腕に温もりを感じて、少女の意識は急速に覚醒を始めた。
自分でも驚くくらいに目がパッチリと開いた。
飛び込んできたのは、朝日であろう光がカーテンの隙間から射して、薄ぼんやりと照らされている天井だった。
しばらく思考を巡らせる。
ここは…?
ああ、アリアの家の応接室のソファか…。
この手は…?
もちろんアリアの手に決まっている。そんなの見なくても分かる。
どうしてアリアはアタシの隣で座ったまま寝てる?
どうしてだろう…。
疑問が彼女の思考を加速させてゆく。
それと共に、昨日の出来事が巻き戻しのように思い出される。
あれ?アタシ…ここにいるのおかしい。
昨日家に帰ってから飛び出して…なんで飛び出したんだっけ?
ああ、アリアがドラゴンに…。
ドラゴン?!
その彼女の人生にとって、初の存在となった単語が引鉄となってレッタは飛び起きる。
彼女の手を握ったままのアリアにそれが伝わりビクッと体を震わせて、アリアもまた浅い眠りから引き戻された。
上半身を起こしたレッタは、即座に隣のアリアを見つける。彼女は眼を擦りながらもレッタから手は離さなかった。
「おはよう、レッタ。大丈夫?」
大丈夫って…何が?と訝しみながらもアリアの顔を見つめた時に、彼女の後ろ、視界の隅に覚醒の原因となった非日常が写り込んだ。
「?!」
認識よりも恐怖を先に感じたレッタは、無意識に「それ」から逃れようとしたが、体勢を崩して盛大に椅子から転げ落ちた。
つないだアリアの手が逃げる事を許さなかったからだ。しかしそのショックで彼女の意識は完全に日常に戻ってきた。
「ちょ、ちょっと!レッタどうしたの?!」
腕を引っ張られて一緒に倒れ込んだアリアが、驚きながらもレッタの体を触って状態を確認しながらゆっくりと体を起こした。
「あーびっくりした。…そうか…キルトランスだった…。」
寝起きの前後不覚だったとはいえ、彼女はすぐに記憶を掘り起し、目の前に座っている龍が昨日初めて会った魔族「キルトランス」だと認識してとりあえずは落ち着いた。
「ごめん、アリア。キルトランスに驚いただけ。」
素直に事実を述べて改めて立ち上がるレッタ。
立ち上がろうとするアリアの腕を掴んで素早くサポートする。寝起きとはいえ、この辺の連携は長年の二人の経験を感じさせるものだ。その様子を黙って見ているキルトランス。
「おはよう。アリア。それとキルトランス。」
「おはようございます。レッタ。それとキルトランス様。」
「うむ。…おはようございます。」
微笑むアリアと無表情のキルトランス。
実を言えばキルトランスは、レッタがソファで上半身を起こした時点で目が醒めた。
ドラゴンは基本的に眠りが浅い種族で、よっぽど消耗していない限りは深く眠ることは少ない。
そのかわりに長く寝ることが可能であり、数日間寝続けることも余裕である。
伝説にも残っている通り、酷く傷ついた龍は数か月、下手すれば数年間眠り続ける事もある。
ただし寝貯めは出来ないために、連続して起きていられる時間は、人間と大して違いは無いのが不便なところではあるが。
しかし眠りが浅いために、少しの変化で目を覚ますことができるため、他人から見れば何日も起きているように見られる事も多い。
二人が立ち上がったのを見計らって、キルトランスも立ち上がる。
いつもの癖で背伸びと共に、背中の翼を大きく広げたら翼の先端が天井を擦って、それを見たレッタが感嘆した。なにせ彼女はキルトランスが翼を広げるのを見るのが初めてだからだ。
「どうかしたの?」
「ああ、いや…やっぱキルトランスはドラゴンなんだなって思っただけ。」
「??」
「今ね、キルトランスが翼をバーッ!って広げたんだよ。」
そう言ってレッタも手を大きく広げるが、もちろんアリアには伝わらない。
「そうなのですね。私も広げたところを見てみたいです。」
「うーん、どうやって見せ…。」
苦笑して頭をかきながら、レッタが口を開きかけて不意に硬直する。
起きたり驚いたりの連続で、思考の混乱が落ち着いた今、彼女の脳はずっと引っかかっていた謎を突然、意識し始めたのだ。
「…あれ?アタシなんでここにいるんだっけ?」
「昨日、アリアとキルトランスと別れて…家に服を取りに戻って…。」
ゆっくりと噛みしめるようにレッタは言葉を続けて、昨日の自分の軌跡を想起しはじめた。
「ここに戻ってこようとしたら、お父さんとお母さんが反対して…しょうがないから窓から飛び出して…村の中を走って…。」
そこまで思い出してレッタの記憶は止まった。
「…あれぇ?アタシどうやってここで寝てた?」
心の底から不思議といった感じの表情でアリアに尋ねる。
「覚えてないんですか?!」
驚くアリアと、さもありなんといった顔をするキルトランス。
「お前を、えっと、ホートライドとか言う男が担いでここまで運んだのだ。」
「え?マジで?…どういう事?」
キルトランスが言ったことを理解できないレッタは、改めてアリアに聞き直す。
「キルトランス様の言葉、そのままですよ。気を失ったように寝ているレッタを、ホートライドさんが裏口からこっそり担いでここまで運んでくれたんです。」
「なんでそんな事になってんの…。」
「もうっ!むしろ私たちの方が聞きたいですわ!」
要領を得ないレッタに少し膨れた顔で怒るアリア。だがそうは言われても、彼女自身で合点がいっていない事を説明する事は難しい。
「ちょ、ちょっと待ってアリア。」
頭に手を当てて、必死に記憶を掘り起こそうとするレッタ。
「えっと…アタシ頑張って走って…ああ、アリアの家の裏木戸が見えた!って思った瞬間に…何かにぶつかって倒れた気がする…。」
その「何か」を必死で思い出そうとするが、それがホートライドであると、あの時の彼女が知る由もないのは無理からぬことだ。
「…で、目が醒めたらソファの上だったわ。」
彼女の知りうる限りの記憶を正確に吐露して、レッタはため息をついた。
「ま、後はホートライドに聞くしかないわね。ホートライドはどこ?」
切り替えが早いのが彼女の長所だ。しかし部屋をキョロキョロ見回すが彼の姿は見えない。
「ホートライドさんは昨日の夜のうちにお帰りになりましたよ。」
「そうなんだ。」
呆れたような言い方でアリアが諭すが、なにせ命の恩人の所業が一切記憶にないレッタとしては、そもそもホートライドが運んできたと言う事が疑わしいのだから、そんな淡白な言葉しか出てこないのだ。
「じゃあ、後で聞きに行くとするか。」
悪びれずあっけらかんと言うレッタ。完全にいつもの彼女である。
「それはそうと…、体は大丈夫ですか?」
いつもの彼女に戻った事を確信して安心したのか、アリアもいつものふんわりとした口調で尋ねる。
「え?なんで?…体は…。」
アリアの質問の意図が分かりかねたレッタは、ふと思い出したように腕を広げたりくるりと回ったりと色々な動作をしてみた。
「あれ?そういえば…あ、ごめんねアリア。別に悪いとこがあるわけじゃないよ。ただ…。」
「なんて言うか、服がボロボロなんだけど…、体には傷一つないと言うか…。」
レッタの顔が次第に疑念で覆われる。
「えー?アタシ昨日の夜に走ってる時にけっこう疲れたし、あっちこっちぶつけたり引っ掻いたりしてたはずなんだけど…。」
それに反比例して、アリアの顔がなぜか誇らしげになっていく。
「なんつーか…全然平気っぽいんだけど?」
首をかしげるレッタ。
事実、彼女は自分の体の二カ所の痣以外に何も見つけれられなかったのだ。
「よかった。それはですね…昨日の夜、寝ているレッタをキルトランス様が治療してくださたのです。」
かしげた首がさらに深くかしげられる。
「え、マジで?」
そのかしげの深さは、フクロウのそれを髣髴とさせるほどの角度である。
「…事実だ。」
これと言って誇るわけでも、恩着せがましい雰囲気を出すわけでもなく、淡々と答えるキルトランス。
「…魔術で?」
「うむ。」
「そっか…。」
本人が記憶を失っているのだからどんな事を言われようが、とりあえずはそれを信じるしかない。こういう時のレッタは素直である。
「覚えてなくて悪いんだけど、ありがとうキルトランス。」
「え?あ、う、うむ。気にしなくていい。」
予想外の素直な感謝の言葉に、むしろキルトランスの方が困惑してしまっている。
「それにしても…すっごいお腹すいた…。」
なんとなく現状を把握したレッタは、ふと自分がひどくお腹を空かせている事に気が付いた。
それは彼女が体験した事のない、何日も食事が無いような空腹であった。
それもそのはずである。
レッタは魔術での回復により、三~四日に匹敵する食事分の栄養と、体力を消耗していたからだ。もちろん彼女にそれを知る由もないが。
「とりあえず朝ごはん…。」
と言いかけて、彼女は電光石火の速さで首をアリアの方に向けた。
「ちょっと!アリア!昨日の晩御飯って?!」
「え?!…え、え~っと…。」
ばつが悪そうに顔を伏せるアリア。
決して彼女は悪い事はしていない。むしろどちらかと言えば被害者に近いのだ。
「もしかして…食べて…ない?」
顔面蒼白で言うレッタ。
その表情を見てキルトランスは、一回食事をしない事がそんなに悲壮な事態なのだろうか?と疑問に思った。
ドラゴン族の多くはその巨体に似合わず小食である。
一日一食食べれば上々で、普通は数日に一回。ごろごろ寝ているだけであれば、十日ほど食べなくても問題はない。ただし一食の量はけっこう多いが。
「ごめんなさいー!!」
悲鳴に近い声でアリアを抱きしめるレッタ。頭をこれでもかとばかりにグリグリと撫でながら謝罪する。
アリアが先ほどバツが悪そうにしていた理由はこれであった。
レッタは自分の人生を削ってでもアリアの世話に命を賭けている。その真摯さは村人たちも知るところである。
しかし当のアリアは作ってもらうだけでも恐縮しており、一回くらい抜かれたところでレッタを責める気持ちは微塵もない。
だからこそ昨日の夕食を作れなかった事実がレッタにばれる事によって、彼女が自責の念にかられる事に抵抗があったのだ。
「だ、大丈夫。大丈夫よ、レッタ。」
アリアもレッタに負けじと彼女を抱きしめ返して必死で訴えた。
「レッタは何も悪くないし、私だってちょっと食べないくらいで死にはしないもの。」
キルトランスは二人のやりとりを呆気にとられながら見ていた。
どうやら人間にとっての食事と言うのは、私が思っている以上の大切な行為なのかもしれない。
しばらく謝罪と慰めの応酬が続いたが、はたとレッタがアリアの体を引き離す。
「こうしちゃいられないわ!すぐにでも朝食を作らないと!二食分の豪華な朝食にしないとね!」
鼻息荒く気合いを入れるレッタ。
「え、お腹は空いてるけどそんなには食べられないわよ?!」
慌てて暴走気味のレッタを諌めるアリア。
事実である。人間はどんなに空腹でも、一度に食べられる量には限界がある。それはキルトランスと言えども同じだ。
厨房に向かおうとするレッタにしがみつきながら、彼女を落ち着かせようとするアリア。二人はそのまま廊下へと消えた。
キルトランスはその様子に圧倒されて後姿を見送ったが、そういえば料理をするところを見てみたいと思い後を追った。
誰もいなくなった応接室には、いつもの朝の光がぼんやりと残されていた。




