オレガノ邸の四人
ホートライドはレッタを抱きかかえて、ゆっくりとオレガノ邸の裏戸を開けると屋敷内に侵入した。
ゆっくりと扉を閉めると息を殺す。
外から誰の声も聞こえてこない所をみると、どうやら屋敷内に入った事はばれてはいないようだ。
今の彼は完全に命令違反状態である。
他の団員たちに見つかれば叱責は免れないであろう。ばれないように戻りたい気持ちもあったが、今は腕の中のレッタをどうにか介抱することが先決であった。
ホートライドは息を殺して周囲を観察する。
いつもは賑やかな時間のタタカナルの村も、今日は死んだように静まり返っていた。ただ腕の中でレッタの乱れた息だけが聞こえる。
裏木戸から最も近い厨房の中は、幸いにも月明かりが射しこんで思ったよりも明るかった。ドラゴンが厨房にいない事を確認してから厨房の扉へ向かう。
レッタは息は荒いものの、どうやら眠っているようで先ほどから反応がない。だが今はそのままにしてやりたかった。彼女には少しでも休養が必要なのだ。
厨房の扉をゆっくりと開けたが、木の扉が軋んで少し音が出た。心臓が高鳴ったが、両手をほとんどレッタで塞がれている今はどうしようもない。
覚悟を決めて彼は廊下へ一歩進んだ。
廊下は真っ暗であった。もちろん月明かりがあるため、歩くのには不自由をしない明るさだったが、この時間帯の一般的な家庭のような灯りがない。
それもそうなのだ。エアリアーナは眼が見えないために、家の中でも灯りをつける必要性がない。
それ故に部屋の明かりはいつもつけないで、レッタがいる場合だけ彼女が自身でランプを持って移動していた。
その習慣が今は裏目に出ていた。
普通であればエアリアーナがどの部屋にいるのか、もしくはドラゴンがどこに潜んでいるのかを漏れた灯りで探せるものが、まったく目印が無いのだ。
風の噂ではドラゴンは洞窟などの暗い場所を好むために夜目が効く、という事をふと思い出して背筋が凍った。今のこの状況は完全に敵に有利な状況なのだ。
相手が巨大なドラゴンであれば、この狭い家の中が不利に働く可能性もあったのだが、広場で見る限り身長は二メートル程度で身動きに関しては問題ないであろう。
それ以前に両手にレッタを抱えている状況では、対応のしようが無い。
一歩、また一歩と慎重に歩みを進めようとするが、彼の身に着けている鎧がこすれて音をたて、廊下に響いた。しかもレッタを抱きかかえている二人分の体重が、床板にかかって一歩歩くごとに軋みを立てた。
一瞬レッタを廊下に寝かせて、自分だけで探索をしようかとも思ったが、ドラゴンがどこにいるか分からない状況で、彼女をここに一人で置いていくのも不安ではあった。
どうしたものかと思案しつつ、もう一歩を踏み出した時にゆっくりと少し奥の部屋の扉が開いた。
心臓を握られたような緊張感がホートライドを襲う。
エアリアーナは微かに月明かりが入る薄暗い部屋の中で、キルトランスと談笑をしていた。
彼女は興味津々と言った感じでドラゴン界の事、キルトランスの事を聞いては想像を膨らませ、彼は人間界の事を色々聞いて知識を得ていた。
もっともエアリアーナから得られる知識はどれも視覚情報を欠いているので、言葉での想像には限界があり、興味の魅かれたものがあっても、それは実際に自分の目で確かめなければならないが。
ひとしきり話してふと沈黙が訪れた。
キルトランスは沈黙が嫌いな方では無かったので、先ほどから何度も訪れた沈黙も自分が何か尋ねたいことが思いつくまで黙っていたし、エアリアーナが話し出すまで黙っていたりもした。
「あの…。」
今回はエアリアーナが先に口を開いた。
彼女は少し恥ずかしそうに俯いて言葉を紡いだ。この短時間ではあったが、キルトランスは彼女の表情をだいぶ読めるようになっていた。
「キルトランス様、私の事は…アリアって呼んでいただけませんでしょうか?」
「ふむ。」
アリアとはレッタがエアリアーナを呼ぶときに使っていた名前で、キルトランスにだってそれが愛称である事くらいは分かっている。彼がダグラノディスをダグと呼んでいるようにだ。
「私はかまわないのだが良いのか?」
愛称である以上は親密な仲の証になってしまうのだが、彼女は抵抗がないのだろうか?まあ本人が抵抗がないのであれば、別に私は…少し抵抗があるかもしれない。
今日会ったばかりの異世界の人間を、いきなり愛称で呼ぶと言うのは今までに無かったことだからだ。
だが彼女は私の心の微妙な葛藤など無視して「…はい。お願いいたします。」と微笑んだ。
「そうか。分かった…善処しよう。」
やはり少し気恥ずかしくて、その場では即応は出来なかった。
「なんだか、アリアって呼ばれると仲良くなった気がして嬉しいです。」
なるほど仲が良くなったから愛称で呼ぶのではなく、愛称で呼べば仲良くなる気がする、か。そういう考え方もあるのだな、と思った。
「それでは私は…」
と言いかけてキルトランスは固まった。自身の愛称を知らないからだ。ダグもキルトランスとそのまま呼んでいたし、他のドラゴンニュートの仲間も普通にキルトランスと呼んでいたからだ。
「どうかなさいましたか?キルトランス様…?」
彼女が不安そうに首をかしげた瞬間、エアリアーナの表情に緊張が走った。同時にキルトランスもその気配に気が付いた。
「…何か物音がしましたね。」
顔をゆっくりと扉の方に向けるエアリアーナ。
彼女は音に非常に敏感である。視覚情報を得られない分、耳が非常に敏感になっているのだろう。
「ああ、誰かが家の中に入ってきたようだ。」
「ですが…レッタではないような気がします。」
キルトランスもそれに肯く。レッタがあんなに静かにこの家に入ってくるとは思えない。
「自警団が突入してきたのでしょうか?」
「突入と言うよりは潜入だろうな。」
自然と二人の会話は小声になる。
エアリアーナは慎重に立ち上がろうとする。キルトランスも一緒に立ち上がって、彼女を助けようとする。
彼女の腕をつかんでゆっくりと扉の方に向かう二人。途中でエアリアーナが恥ずかしそうに「ありがとうございます。」と礼を言った。
扉の前に立ち耳を澄ませる二人。
時折ギシッ…ギシッという音が聞こえてきた。
「裏口から誰かが入ってきたようです。…すごく体の大きい人かしら?」
「気配は…恐らく一人のようだな。」
「間違いなくレッタではなさそうですね。」
エアリアーナは緊張で身震いをした。
「私が駆除しようか?」
キルトランスが事もなげに不穏な提案をする。エアリアーナは不安そうな顔をして彼の顔を見たが、ゆっくりと頭を振った。
「キルトランス様は騒ぎを起こしてはダメですよ。私が出ます。…ほら、一応この家の家主ですし。」
彼女はそう言って緊張した面持ちでゆっくりと扉を開いた。




