走れレッタ その1
レッタは竹馬の友、エアリアーナの家の扉を後ろ手に閉めた。これからは一人で歩まねばならない。
どのような艱難辛苦が襲ってくるとも、もう一度自分のこの手で背中の扉を開けて邪知暴虐の魔の手から友を救わなければならない。
レッタはすぐに出発した。晩春、暮色の空に星が煌きはじめていた。
さて一緒に暮らすための準備は何が欲しいかな。
これから始まるであろう、二人と邪魔物一匹の暮らしを色々と考えながら、レッタは薄暗くなった村に向かって歩き出し、家の門をくぐった。
突然、目の前に近所の人々が躍り出た。
「レッタちゃん!大丈夫?!」
「魔物に酷い事されなかったかい!」
「ご両親が心配して待ってるよ。」
濁流のように押し寄せた人々に、押し流されそうになりながらレッタは叫んだ。
「大丈夫だって!何にもされてないよ!」
その一言で悲壮な顔をしていた村人たちは、一応の安堵を取り戻し少し落ち着いた。
そうか…アタシはキルトランスが来てから、無我夢中で過ごしてきたから周りが見えていなかったけど、村人たちはみな恐怖に怯え私たちを心配しながら待っていたんだ。
キルトランスが思ったよりも悪い魔物じゃなかったからアタシは少し安心したし、だからこそ今こうやって家にエアリアーナを置いて出てきたんだ。
でもそんなことを中でやってると知らない人達は、きっと家の中で恐ろしい目に合っているに違いないと思ってたのかも。
「みんな、心配してくれてありがとう…でも大丈夫。アタシはピンピンしてるよ。」
そう言って手足を動かし元気さをアピールした。
「でも…アリアがまだ家の中に取り残されて…ドラゴンと二人で…。」
今となってはキルトランスがアリアに危害を加えるとは思えない。少なくともアタシが見ている間にはそんな素振りはなかった。
でもこのくらい芝居がかった言い方のほうが、村人たちには理解してもらえると思った。
「でも…アタシはもう一度ここに帰ってこないといけない…。」
まあ家に着替えとか取りに行くだけなんだけどね。軽い気持ちの悲劇のヒロインごっこのつもりの発言だった。
でもこの言葉が予想外の反応になっちゃった。
「そうなの…かわいそうに、エアリアーナちゃんを人質に取られたんだね…。」
「え?あ、う…うん。そんな感じ…?」
人質…?まあそういう言い方もあるのかな?
心配そうなおばさんの一人が、口元に手を当てながら言葉を続ける。
「でも、レッタちゃんがわざわざ危険な目に合わなくても、自警団の人たちに任せておけばいいんじゃ…。」
ごめん、その自警団を追っ払ったのはアタシだ。
「違う…自警団の奴らじゃダメなんだ。アタシがアリアと一緒にいてあげないと…。」
違います。アタシはアリアと一緒に居たいだけです。
見知らぬ雄一匹と大好きなアリアが、一つ屋根の下に住んでいることがイヤなだけです。
自分の趣味やらエゴを微妙に隠しながら、そのツケをキルトランスに押し付けつつ、言葉を選んで演技をしている。
だが次の瞬間に、村人たちのざわめきの間から信じられない言葉が出てきたのを、私は耳に入れてしまった。
「エアリアーナなんかのために、レッタちゃんが危ない目に合わなくても…。」
「そうだよ…あの子が危ない目にあっても仕方なかったんだよ…。」
レッタは激怒した。
怒りのあまりに眩暈で周囲が歪む錯覚を感じた。
「なんか」ってなんだよ…「仕方ない」ってなんだよ…。
こいつらアリアだったらどうなってもいいって思ってたって事かよ…。
悲しみと怒りと恐怖が綯交ぜになって、レッタの心を塗りつぶそうとする。
そう考えたら過去の事にも合点がいく。
アタシは昼間の広場であの混乱に巻き込まれた。
モンスターが現れた!そんな村人たちの叫びを聞いて、一番に広場に残してきたアリアを助けなきゃ!と思って走り出した。
だがもう少しで広場に出るという直前に、近くの村人たちに腕を掴まれて、広場向かいの家の中に引きずり込まれた。
全員が息を殺して身をひそめている中で、アタシは「アリアは?アリアは大丈夫なの?」と叫ぼうとしたけどおばさん達に口を押えられた。
「エアリアーナちゃんなら大丈夫だから。」
そう言われて私は声を出すことをやめた。
下手に騒いでドラゴンに目を付けられたらどうするんだ、といつもは優しいおじさんが怖い表情で言った。
「他の人たちが、きっと安全な場所に連れて行ってくれたよ。」
おばさんはそう言ってアタシを強く壁際に押さえつけた。
息の詰まるような緊張の時間の中で、時折おじさんが窓の陰からチラチラと広場の様子を見て、ドラゴンが攻撃してこないか、暴れていないかを監視しながら小声で「大丈夫…大丈夫…」と繰り返していた。
アタシはてっきりその言葉が真実だと思って、不安と戦いながらもアリアがどこかで無事でいる事を祈っていた。
だが現実は違った。
アリアは広場に取り残され、ドラゴンの恐怖に怯え、あまつさえ連れ去られた。(本当はアリアがキルトランスを家に招待しただけなんだけど。)
そして窓から眺めていた人たちは、みんな広場にいたアリアを目撃していたはず。
って事は、あのおじさん・おばさん達、広場にいた人々全員、そして自警団の連中全員が「アリアだったら襲われても仕方ない。」って思っていたって事なの…?
この事実に思い当たって、ただでさえ湾曲した視界に、さらに後頭部を殴られたような衝撃を感じた。
思い出してみれば、自警団を追い出すために話している時にも、誰かが「とりあえずレッタちゃんだけでも安全なところに…」と聞こえたじゃない。あれもそういう意味だったのかな…。
一度ネガティブに回り始めた心は止まらない。
過去のあらゆる言動が脳裏に走馬灯のように浮かんでくる。
今思えば、昔から村人たちの言動の細部にそんな兆候はあったじゃん。
その時はわざと目を瞑ってたけど、やっぱり昔からずっとみんな心の隅で思ってたんだ…。
そんなに…そんなに盲目の子が邪魔なの?!
確かにみんなに迷惑はかけてるかもしれないけど…あの子は悪い事なんか何にもしてないし、すごく優しい子なんだよ?!
アタシだって一生懸命あの子の手伝いもしてるし、アリアだって一人で色々出来るようになるように、ずっと頑張ってるんだよ!!
好きで目が見えなくなった訳でもないのに、ちょっと体のどこかがおかしいだけで、居なくなってもいい存在になっちゃうの?!
レッタの心が千切れそうに軋む。信じていた世界が崩れていく。
判った…。村のみんなはアタシの味方なのかもしれないけど…。
みんな…アリアの敵なんだ…。
不思議な事に、先ほどまであれほど混乱していた頭が、冷泉に浸ったようにスッキリと澄み渡ったのが分かった。
レッタはぶるんと両腕を振って、矢の如く走り出した。
集まった人ごみを掻き分けて、「レッタの心配」をする声を振り切って。
薄暗くなった村の家々の間を疾走するレッタ。その姿はさながら暗殺者のそれにも似ている。
眼からは怒気と共に涙が迸り流れていた。
エアリアーナの家とレッタの家は少し離れてはいたが、歩いて十五分もかからない距離だ。
道すがらの家は全て、扉も窓も開けられていた。
それは今も村の中にいるであろうドラゴンを警戒して、少しでも音を聴き逃すまいという対応だ。
タタカナルでは魔物の襲撃の時には、全員自分の家に戻ってこのような対応をするように、自警団から教えられている。
それは過去の経験からで、全ての扉を閉めて魔物が近づいてきたのに気付かず、襲撃に対する対応が遅れて被害に会う事が多かったかららしい。
全ての窓を開けておいて、もし魔物の足音が聞こえてきたら、どこでもいいから安全な場所から屋外に逃げた方が助かる確率が高いし、他の家にも逃げ込みやすくなる。
そう、アタシは警戒を解いちゃったけど、タタカナルはまだ厳戒態勢中なのだ。
あちらこちらに自警団の兵士が見かけられて、アタシはそれを全て隠れてやり過ごした。なんだか今あいつらに見つかると、面倒な事になりそうな気がして。
すぐに自分の家が見えてきた。戸口にお母さんとお父さんの影が見えた。
なんだか急に安堵の気持ちが溢れてきて涙が止まらなくなる。
そっか、アタシはこんなにも緊張してたんだ…。
それと同時に走るのを止めて、他の家の裏に隠れて息を整える。緩みかけた心をもう一度引き締める。
これからどうしよう…。
家に帰ればきっとお父さんとお母さんは喜んでくれる。
でも…もし、もう一度アリアの家に行くと言ったら、絶対に許してくれないよね。
二人の気持ちは痛いほどわかる。でも、アタシはアリアを一人にしたくない。
もちろん今までアリアの家でお泊りしたことなんか数えきれないほどあるし、数日連泊で帰らなかった事だっていくらでもある。
アリアはアタシの大切な友達で、アリアを助けるために色々世話をしてあげたい、って事も応援してくれていた。
お父さんとお母さんだけは、村の奴らみたいにアリアなんかどうでもいいって思ってない…と信じたい。これを裏切られるのが一番怖い。
でも、もし二人がアリアを大切に思ってくれていたとしても、アタシがもう一度ドラゴンのいる家に戻ると言ったら許してくれるかな?
たぶん絶対にダメだって言うと思う。普通の親だったら絶対に言うと思う。
それでもアタシは、アリアの笑顔を見に戻らないといけない。
よし…。
自分の家の窓をチェックする。大丈夫。アタシの部屋の窓も空いている。
最悪、自分の部屋から逃げ出してアリアの家に向かおう。
覚悟を決めた少女は服の袖で涙を拭う。
大丈夫。もう涙は出てこない。
出来るだけ平気な顔をして家に戻ろう。ちょっと目が赤くなってるかもしれないけど、そこは仕方ない。
隠れている家の人に気づかれないように大きく深呼吸すると、立ち上がって家の前まで小走りに走る。
家の玄関に入った瞬間に、大きな音をたてないように出来るだけ静かに扉を閉める。
その音で台所にいたお母さんと、テーブルに座っていたお父さんがビクッと怖がるように身を竦めた。
でもアタシだと気が付いた瞬間に、いつも体が痛いとか腰が痛いとか言ってたのが嘘みたいに、飛ぶように走ってきた。
二人ともすごく嬉しそうな顔。アタシも泣かないって決めてたのに涙が出そうになる。
弱いなぁ、アタシ…。
「レッ…!」
でも叫びそうになる二人の顔を睨みつけて、唇に指を一本当てる。
当然喜んで娘も飛んでくるだろうと思っていた両親に緊張が戻った。
「ごめん!ちょっと静かにして!」
ここからの演技はアタシの一世一代の大舞台かもしんない。行くよ、アタシ。
「ど、どうしたのレッタ?」
お母さんがオドオドしながらゆっくりと手を差出し、お父さんも周りをキョロキョロしながら近寄ってくる。
その二人の手を握る事なく、アタシは台所の開けられた扉に走り寄りしっかりと扉を閉めた。
よし、これで多少話しても、家の外に音が漏れにくくはなったと思う。
少し安心して二人の方を振り返る。
「ドラゴンに追われているのか?」
お父さんが恐る恐る尋ねる。
お父さんは確かに勇気のある方じゃなかったけど、こんな時でもやっぱりいつものお父さんだな…良かった。
「あのね、お父さん、お母さん…。」
ただいま、と言いかけて言葉を飲んだ。これからまた家から出ないといけない。
「大丈夫。追われていないよ。」
二人の顔から緊張が薄れる。アタシはそこでようやく両親の元に駆け寄った。
お父さんもお母さんも泣きながらアタシを抱きしめてくれた。
その体の痛さが、二人がどれだけアタシを心配してくれていたのかが分かって苦しかった。ごめんね、お父さん、お母さん。
どのくらい抱擁してただろうか。お父さんもお母さんもグチャグチャの顔で何度もアタシを抱きしめてくれた。
でもアタシは酷い奴だ。
途中から心の中で、次に言うべき言葉ややるべき事を考えている。たった一人の冷たい娘でゴメンね…。
それでもアタシはアリアのためならなんでもする。
「お父さん、お母さん…聞いて。」
アタシは覚悟を決めて二人を少しだけ押し戻した。
「どうしたの?レッタ?」
「ごめんな、痛かった?」
「ううん、大丈夫。」
「ホートライドくんが家に来て、お前がドラゴンと一緒にいるって聞かされて…。」
そっか…ホートライドが報告してくれてたのか…。
アイツは昔からいらないお節介ばかり焼く奴だったな…。
でもこれでアリアもアタシも、ドラゴンと一緒にいたという事実が、村中に知れ渡っている可能性が高い事が分かった。
そうなれば、アタシが村の中を歩いているのを見つけたら、保護しようとする人たちもいるという可能性も高いって事が分かった。
「あのね…落ち着いて聞いて。」
二人が神妙な顔をする。アタシは極力二人に恐怖を感じさせないように、努めて笑顔で話し始めた。
「うん、ホントにさっきまでアリアの家でドラゴンと一緒にいたの。」
「上手く逃げ出せたんだな?」
はぁ…その言い方、聞きたくなかったな…お父さん…。落胆する気持ちを抑えて笑顔で言葉を続ける。
「ううん、逃げ出したんじゃないの。普通に一回家に戻るねって言って出てきたの。」
「え、どういう事なの?!」
お母さんが少しヒステリックな声を出した。慌てて口に手を当てて落ち着かせる。
「なんて言えばいいのかな…とりあえず、話せば分かってくれるドラゴンさんだった。凶暴じゃなかったよ。」
「そんなはずないでしょ!だってアリアちゃんがさらわれたんでしょ?!」
やっぱりそういう話になってたのか…。
ホントはアリアが家に迎え入れたんだけど、今言っても絶対に信用されないだろうな。
「大丈夫。アリアは無事。何にも酷い事されてないよ。」
努めて笑顔で話す。むしろ初めての空中浮遊に笑顔だったよ、とも言いたかったが話がややこしくなりそうなので止めた。
でもその時の笑顔を思い出せて心が落ち着いた。ありがとう、アリア。
「でも、二人ともまだ家の中にいるの。」
そう言って立ち上がると、ゆっくりと自分の部屋に向かった。当然両親ともついてくる。
「二人ってまだ誰か他に捕まっている人がいるのかい?」
怪訝そうに尋ねる母。しまった…今の言い方はマズかった。
「ああ、ごめん、二人って言うのはアリアとキルト…キルトランスって名前のドラゴンの事ね。」
部屋の中に入ると、アタシはゆっくりと部屋を歩きながら着替えの服を手に取ったり、お気に入りのブラシを手に取ったりして品定めをしはじめた。あんまり多くは持っていけないけど、三枚くらいあったらなんとかなるかな…。
「でね、アタシ、アリアに約束したの。また戻ってくるからね、って。」
その言葉で両親の顔色が変わった。そうだろうなとは思ってたけどさ。
「待ちなさい。まさか…またアリアちゃんの家に行こうって思ってるのか?!」
お父さんが叫ぶ。
アタシの部屋の窓は開けっぱなしだ。今のは近所に聞こえちゃっただろうな…でもあの窓を閉める訳にはいかない。そこがアタシの最後の希望だからだ。
「ちがうの。ちょっと戻るだけ。」
「違わないでしょ!」
お母さんもヒステリックに叫んだ。
もう時間がない、これ以上ここにいたら近所の人たちも動き出しちゃうかも。
「アリアはアタシを信じて待ってるの。だからアタシは行かないと。」
そう言いながらアタシは手にした荷物をベッドの上に放り出した。本当は鞄に詰めて行きたかったけど、たぶんそんな事を許してはくれないよね。
両親は私の言葉を聞いて止めようとしてる。お母さんもお父さんも扉の前に立ちふさがって部屋から出さないつもりだ。
「ねえ、お父さん…。」
「なんだ。」
聞いたこともないような厳しい声色で返事をされた。お父さんそんなに怖い顔が出来るんだ…。ちょっと見直したよ。
「お母さん…。」
「絶対ダメですからね!」
いつもアタシの我儘を苦笑しながら聞いてくれてたのに、そんな顔で怒られるだなんて残念だな…。
「アタシのこと、愛してる?」
一瞬二人が固まった。別に愛してないとか言う意味じゃない。この状況でこの質問の意味が分からないと言う間だ。
「も、もちろんだ。だからレッタを危険な目に合わせたくない!」
「そうよ!レッタが戻ってもしドラゴンが暴れたらどうするの!」
二人が同時に叫ぶ。
「ありがとう。アタシも愛してる。」
そう言って言葉を続けるように口を開いた。二人がアタシの顔を見つめる。怖い顔で。
次の瞬間、アタシはベッドの上の服や荷物をシーツごと丸めて肩に担いだ。そして部屋の入口を一瞬睨む。
お父さんがアタシの意図に気が付いたのか入口で身を固めた。お母さんがアタシを止めようと体を前に動かそうとした瞬間。
アタシは窓際の椅子を踏み台に、一気に窓枠に足をかけて暗くなった外へ飛び出した。
そして暗い草むらに着地するより早く、背中から二人の悲鳴が聞こえてきた。
ごめんね。お父さん、お母さん。これからは良い子にするから今だけは許して。
暗くひっそりとしたタタカナルの村を、再びレッタが疾走する。
太宰治の「走れメロス」からちょいちょいパロディを入れています。
そっくりな文章がたまに登場しているので気が付いたら笑ってください。