キルトランスの落ち着かない夜 その1
キルトランスはいつも通りに自室のベッドの上で寝ていた。
窓の外からは時折村人の声が聞こえてきて、今がまだ宵の口であることが分かる。
いつも通りに夕食を終えると、今日は誰ともなく早く寝るような形になった。
ほぼ毎日のように誰かしらの客が夕食にいたのだが、今日に限っては誰の訪問も無かったことも早く寝ることになった要因であろう。
キルトランスは昼間に自警団本部で話した事を思い出しながら、夢と現の間を揺蕩っていた。
どのくらい時間が過ぎたのかは分からない。しかし夜半にはなっていないはずだ。
隣の部屋で微かな物音がすると、その音の主は静かに廊下に出た。
そして微かな足音を立てながら彼の部屋の前に立った。
部屋に入ってくると思ったが、何を迷っているのかいつまで経っても部屋の扉に動きはない。
どうせ音の主はイルシュなのだが、扉の前にずっと立っていられると、さすがのキルトランスでも落ち着いて眠れはしない。
どうしたものかと思ったが、こちらから動こうとした時に扉が微かに軋んだ。
はたしてイルシュが恐る恐る、扉の隙間から顔を覗かせてきた。そして隙間から部屋の中に滑るように入り込む。
一連の音は、アリアが忍んで部屋に来る時と比べると、格段に小さいのはさすが腐っても諜報部員と言ったところであろう。
(…起きてるよな?)
微かな声を漏らすイルシュ。
キルトランスは返事の代わりに部屋の片隅に小さな炎を灯した。
仄かな月明かりのみであった部屋に灯った明かりは、蝋燭程度のものとは言え、十分な明るさであった。
入り口を背に立っていたイルシュは軍服姿であった。
「どうした?お前が部屋に来るとは珍しい事もあるものだな。」
皮肉交じりに尋ねるキルトランス。
部屋を出る前から訪ねてくることが分かっていたのだから今更である。
だが恐らく今晩のイルシュは特別な事情があって来たのだろうから、下手に先手を打って彼女の目的が果たせなくなっても困るだろう。
イルシュはどう話を切り出せばいいのか考えているようで、下を俯きながら黙っていた。
眼鏡越しの上目使いでキルトランスを覗う姿は、可愛げの無いイルシュからしたら珍しい愛らしさではあるのだが、悲しいかな彼にそんな感性は無かった。
「…私を暗殺でもしに来たか?」
思い返せば元々彼女はキルトランスの偵察に来た諜報部員であり、現在も監視目的で屋敷に居座っているはずなのだ。
偵察ついでに暗殺などという物騒な話も、ありえなくは無い。
(…んなわけねえだろ…。)
もっとも彼女はキルトランスの規格外の強さを何度も目の当たりにしており、まかり間違っても「襲う」などと言う自殺行為な選択肢を選ぶ気にはなれない。例え彼が寝ていたとしても、だ。
だが彼の意図的な煽りが呼び水になって、イルシュはようやく話し出す決意をしたようだ。
「ま、でも当たらずと言えども遠からずって所かもな…。」
彼女が小さなため息を付きながらベッドの方に歩き出した。やはり足音を殺してゆっくりと。
「ちょっとさ…。」
ベッドの前に立つと、そこまで言いだして再び口をつぐんだ。
何を言えば良いのか、何を言って良いのか。彼女はずっと思案していた。
だがいつまで経っても答えは出ない。何を言っても事態を好転させることは出来ないからだ。
キルトランスは気長に待つ事にした。夜はまだ長いのだ。
ゆっくりと瞳を閉じて、彼女の気配だけに集中した。
「私、ちょっと出かけてくるわ。」
散々時間をかけて絞り出した言葉はとても簡素なものであった。
だが、彼女にそれ以上の言葉を言う事はできなかった。
「…今からか?」
「…そうだよ。」
「そうか…。」
訥々とした会話が静かに流れる。
お互いの腹を探っているようでもあったが、その実は別である。
言うに言えない事情を汲んでくれ、という心の悲鳴をキルトランスがどこまで汲み取れるのか、という懇願であった。
イルシュは軍属であり、諜報部員である。そしてキルトランスは監視対象であった。
彼に軍の状況を漏らすのは重大な服務規程違反である。
己の保身を考えた彼女は、後にもしバレたとしても被害を被らないギリギリの言葉を選ぼうとしていた。
だが、どんなに考えても暗に伝えることは難しかった。彼の部屋に軍服で来たのも、これからの行動が軍事目的である事を暗に匂わせるための選択であった。
だからせめて「これから何かあるのかも」と匂わせる事が出来れば…。そう考えながら必死に言葉を探した。
「また、あ…。…今度な。」
「…ふむ。」
少しの言葉のやり取りの末に、そう言って静かに踵を返したイルシュ。
「また、明日」という言葉を飲み込んだ彼女は誠実であったのかもしれない。なぜなら明日会う事は出来ないのだから。
扉の取っ手を握って最後に小さく呟いた。
(みんな、元気でいてくれよ。)
その言葉にキルトランスは答えなかった。
イルシュにはそれで良かった。彼らの無事を祈る権利なんかないと思っていたからだ。
だが、これから無事では済まない事が起こる。そう匂わせただけでも満足して、ここから去るしかないのだ。
扉を少しだけ開いた時に、背後から小さな声がした。
「なぜ私に言いに来たのだ?」
イルシュは少し手を止めて考えた。
そして首だけ振り返ると少し笑って「…なんでだろうな?」と答えると、再び隙間から廊下に静かに出て、ゆっくりと扉を閉めた。
これでいいよな…。
こんなの単なる自己満足だって事は分かってるさ。
どうしようもないけど、私は悪くないって言い訳したいだけの欺瞞だ。
でも、キルトランスならなんとかしてくれる。いや、逃げる私の代わりにお姉さまとアリアを…この村をなんとかしろよ…。
彼の部屋の前で扉に背を向けて、一通りの自己弁護を内心呟くと、イルシュは胸を張って顔を上げた。
北側から入る微かな月明かりが彼女の顔を照らす。
その顔は軍人の顔であった。
イルシュは自分の部屋の前に用意しておいた背嚢を静かに持つと、自分の部屋には戻らずに静かに玄関に向かった。
玄関を出ると月明かりが静かに彼女を照らす。
村は静まり返り、誰の声も聞こえない。
この時期特有の少しだけ湿り気を帯びた南風と、それに揺れる草木の微かな音だけが彼女を包んだ。
極力、物音を立てないように留めておいた馬の所に行くと、馬を驚かせないように起こして手綱を握った。
そして家の門を極力静かに開けたが、さすがにここは無音は無理であった。
静かな夜に金属のこすれる音が広がる。
しかしここまで来てしまえばもう後戻りは出来ない。
開き直って馬を門の外に連れ出すと、門を開けたままイルシュは馬に跨った。
最後に屋敷を振り返り、レッタとアリアが寝ているであろう部屋の方を一瞥すると、静かに馬の腹を蹴った。
「ありがとな。元気でまた会えると…いいな。」
馬は少し眠そうにトボトボと歩き始めた。
今後の展開をどうしようか悩んだ為に更新が遅くなってしまいました。
すみませんでした。




