惰眠の龍
第一章は意図的に小難しい書き方をしております。
第二章からは比較的普通の小説のような文章になりますので、途中で挫折せずにお読みいただけると幸いです。
見渡す限りの鬱蒼と茂る密林。
天は生まれてこのかた、陽の存在を知らないのではないか、とすら思えるほどの厚く垂れこめた雲。
その薄暗い雲からは途切れることなく雨が降っている。
木々は天からの恵みを奪い合うように、天に向かってその手を伸ばして止まない。
その葉を打つ雨音に世界は包まれていた。
密林の遥か遠くに樹木の切れ目が見える。
その先には海が広がっていた。
陽を受けない海は漆のごとき暗黒で、これもまた、いつから続けているのか分からない波打ちを繰り返している。
時間の止まったような変化のない世界。
それでもこの世界に動く者たちはいた。
ある者たちはその巨体に似つかわぬ小さな翼をたたみ、木々の間に横たわりながら悠久の惰眠を貪る。
ある者たちは蛇のような体に大きな翼を持ち、曇天の隙間を縫うように踊っている。
ある者たちは波の合間を自在に動き回り、何かを狩っているようにも見える。
陰鬱に見える世界にも、それを享受して生を楽しむ者たちは必ずいるものだ。
彼らは人間世界における異形の存在であり、畏怖の象徴の一つでもある。
この世界はドラゴンの楽園であった。
深い密林の奥の方に、一際高い木々が散見する場所があった。
その木々は遠くからでは距離感が分からなかったが、近くに寄ればその常識を超えた大きさに驚くだろう。
大樹は直径十メートルを優に超え、高さは恐らく二百メートルほどであろうか。
人間世界の最高の塔であっても、まだ同じ高みに届くほどの建築技術は確立されていない。
この楽園にはそんな常識はずれの大樹が散見されるのだ。
そんな大樹の中の一本、胴の中腹付近に大きな虚が見える。
その虚からは犬の鼻先のようなものがはみ出していた。
大樹の葉の隙間から零れ落ちた一滴が、運悪くその鼻の穴に直撃して飛沫を散らす。
すると虚の中からくしゃみが聞こえてきた。
「よりによって鼻の穴に直撃するとは…。」
不機嫌そうに一人ごちる声。
その低く不思議な声は虚に響き、彼が人間ではないことが容易に想像できた。
声の主は、何度か鼻を鳴らすと大きく一息ついて、再び悠久の惰眠の中にまどろもうと目を閉じた。
すると遠方からはばたく音が聞こえてきた。
音は少しずつ近づいてきて、その虚の上空に止まった。
その異形の者も当然ドラゴンであるが、外見は人間に近い手足を持っていた。
身の丈は二百五十センチメートルほどだろうか。
薄紫の鱗に包まれ、背中には身長と同じほどの翼が、力強く湿気の重い空気をかいてる。
しなやかながらも筋肉質な手足の先には太い爪があり、足よりももう少し長めの尻尾。
そして頭部に伸びる角は、彼がれっきとしたドラゴンの種族であることを物語っている。
「おい、キルトランス。起きろ。」
虚の主と同じ不思議な声は少し不機嫌そうに吠えた。
それに対してキルトランスと呼ばれた者は答えない。どうやら狸寝入りを決め込むつもりなのかもしれない。
返事を数十秒待ったその龍が、痺れを切らせておもむろに右手を上げると、指先にこぶし大の氷塊が生まれた。
魔術である。
そしてその塊を黙って虚の中に投げ込んだ。
なかなかの勢いで虚の中に飛び込もうとした塊が、不意にその手前であらぬ方向に曲がって、大樹の幹に当たって砕けた。
「…人が寝ているのになんて起こし方だ。」
「寝てるヤツの反応じゃない。」
こちらも不機嫌な声で返事をする。
「どうせ長老からの呼び出しだろう?ダグラノディス。」
そう言って虚の中で寝返りをうつ。
「分かってるなら話が早いな。長老がしびれを切らしてるぞ。急ぎの使いで呼んだのに何日も来ないと。」
そう言いながらダグラノディスと呼ばれた龍は虚の近くの枝に下りたつ。人間の大人が両手を回しても半分も届かなそうな太い幹が重みで軋む音を立てる。
「気が向かない。長老もたった数日でしびれを切らすとは…まだ若いつもりか。」
「十二日前を数日と言うかどうかは人それぞれだが、オレなら長老の忍耐力に敬服してさらに忠誠を強めるね。」
急ぎの用事で十二日も放置されるとは、どうやら龍たちはとても気の長い生き物らしい。
「で、ダグラノディスが使いに来たわけか。」
「そういう事だ。来ないなら力ずくでも連れてこいとの許可を得ている。」
そう言ってダグラノディスはスッと目を細めた。
「力ずくなら長老自ら転移でもさせればいいのに。」
多少の殺気すら感じる視線を意に介さず、キルトランスは顎を虚の縁に乗せた。
その様子は犬にも似て、人間から見たら愛らしく感じないことも無い。
「無茶を言うな。長老はもうそんな体力は無い。」
そう言ってダグラノディスは喉を鳴らす。
キルトランスがゆっくりと頭を上げて起き上がった。
その喉を鳴らす音は苛立ちの表れであり、彼が出す場合はけっこう本気でイライラしている状況なのだ。
さすがのキルトランスでも、ここで彼と一戦交えるつもりはないし、お気に入りの巣穴の枝をへし折られたくない。
「そうだよ。最初から大人しくそうすればいいんだ。」
そう吐き捨てる。
虚の縁に大きな足をかけて、ゆっくりと一人のドラゴンが顔を出した。
その体はダグラノディスとは異なり、初夏を髣髴させる鮮やかな緑色の鱗。
身の丈は彼よりも小さいが二メートルはゆうに超える体躯を持っている。
頭上の双角はダグラノディスよりも長く太い。
一般的に角は立派なほど、強い魔力を持っていると言われている。
先ほどの氷塊を身動き一つ取らずに逸らした件を見ても、彼は強い魔力を持っているのだろう。
久々に虚の外に出たためか、キルトランスはしばらく眩しそうに目を細めて遠くを見ている。
その視線の先には、この大樹ほどの高さはないが一際目を引く太い樹があった。その樹が先ほど話に出た長老の住む樹のようだ。
「目は覚めたか?」
声色から、ようやくダグラノディスから険が抜けた事が分かる。
しかしキルトランスは返事はしないで、気怠そうに首を回したり腕を動かしたりしている。さすがにドラゴンと言えども、何日も寝ていれば体が固まるものなのだろう。
しばらく目を閉じて無言で体を伸ばしていたキルトランスが、ひときわ大きくため息を吐いてから目を開く。その眼には先ほどの眠さは無い。
「では長老様のところにご挨拶に伺うか…。」
やはりイヤそうな声音は混じってはいるが、覚悟を決めた感じでキルトランスは虚から身を乗り出した。
寝ていた時には畳まれていた翼が広がる。
そのまま宙に浮いたキルトランスはダグラノディスに一瞥をくれると「で、ダグラノディスは一緒に来るのか?」と確認をする。
「いや、オレのお使いはここまでだ。」
「そうか。」
そう言ってキルトランスは体を大密林の空に投げ出すかのように倒し宙に浮くと、そのまま滑るようにして大密林の空へと進み始めた。
大樹は徐々に遠ざかり、枝の上にいたダグラノディスがゆっくりと立ち上がった時には、その姿は木の実のように小さくなっていた。
キルトランスは渋々と空を滑る。