桃色の終着駅
完結。
終わり。おしまい。さようなら。
俺の生涯はあの町に置いてきた。
他人の望むまま小学、中学、高校、大学、会社に入って安穏な日々に身を投じてた俺は、この電車に乗り込んだ瞬間この世からいなくなった。
俺は車内を見回すと、一番陽が射し込む暖かそうな席へ腰を下ろした。
少しだけ汗ばんだ肌がむず痒い。ネクタイを緩めてワイシャツのボタンを外す。
冷房は完備されてない。
俺は窓を開けた。初夏の香りが鼻孔をくすぐる。
電車はノンストップで走り続ける。
俺一人を乗せて。
コトリ。
音がした。
誰もいないはずなのに、と訝しく思って立ち上がってみたら、隣の車両に少女がいた。
セーラー服を着た線の細い彼女は、俺に気付くと弱々しく微笑んだ。
「ああ、君もか」
俺の言葉に少女は頷く。
俺は少女の隣まで歩いて行き、ドサリと腰かけた。
「お互い難儀なことだな」
「はい」
と、蚊の鳴くような声で答える少女がとても痛ましい。
俺は知ってる。
この電車に乗れるのは、自ら死を望んだ奴だけだ、と。
何故知っているかはわからない。勘のような不確かなものではなく、確信に似た何かがある。
「辛かったろう」
「いえ」
少女はスカートをギュッと掴み、拳を震わせた。
俺は出来うる限り優しく微笑み、彼女の頭を撫でた。
少女は泣いた。大粒の涙を後から後から溢した。
つられて俺まで泣いてしまった。
二人とも塵に積もった疲れが押し寄せてきて、眠ってしまっていたらしい。
瞼を開けたら、窓の外は夕焼けに染まっていた。
どこまでも続く田園風景。
ちらほら他の奴もいる。
電車は何度か駅に停車した。停車駅は暗くて何があるのか、俺にはわからない。
よくもまあ、こんなところで下車しようと思う奴がいるもんだ。
「お兄ちゃん」
「ん?」
少女が俺のワイシャツの袖を掴む。
不安げに瞳が揺れた。
「まだサリナと一緒にいて」
「おうよ。任せとけ」
歯を見せて笑えば、少女もホッとした笑顔を見せる。
来る日も来る日も電車は走り続けた。
終点はまだ来ない。
「輪廻転生の終わり」
微かな声で少女が言った。そう、俺はそれを狙っている。
生きる苦しみから逃れたのに、何故また生きなければならないのだ。
終点にあるのは、無だとわかっている。なにもない場所――いや、場所ですらない。虚無。
そこに、早く辿り着きたい。
「……お兄ちゃんは、そこに行くの?」
「ああ」
「……」
少女は俺の腕に抱きついて目を瞑った。そのキテレツな行動に困惑して頭を掻く。
「狭間速人さん」
いつの間にか車掌が目の前に立っていた。
ニコニコ笑っている車掌は、呆然としている俺とサリナの切符を取り上げてハンコを押す。
「次の駅で降車して下さい」
「は? ……俺は……俺はもう生きることを望んじゃいない。降りないぞっ」
そう吼えても、車掌は深く笑うだけ。
「大丈夫です。降車し、生きたくないと思えば、あなたが今望んでいる"輪廻転生の終わり"にすぐ辿り着けます。終点は常に存在しているのです。……あなたが自ら命を絶った時と同じように」
車掌に言われ、押し黙るしかなかった。手足が震える。
そっと、手に温もりが触れた。サリナだ。
この短いような長いような電車旅を共に過ごした少女。
「……ごめんな、兄ちゃん降りるわ」
サリナの目が涙で揺れた。
降りたくはない。あんな、前の駅みたいに真っ暗な駅に降りたくはない。
次第に電車が減速していく。
ドアが開いた。
勝手に体が動く。サリナと車掌に背を向けて外へ向かう。
一歩、踏み出す。
左腕に振動が走った。
「サリナ……?」
刹那、真白い世界が広がって、どっと色彩が溢れ返る。噎せ返る花の香り。
自然と涙が出た。
「お兄ちゃん、生きよう。サリナ、頑張ってみる。一緒に、生きよう」
心が洗われていく。
少女に手を引かれて出た改札口には、桃色の花がところ狭しと咲き誇っていた。
「……貴方、赤ちゃんは……?」
「ふふ、君に似て元気いっぱい泣いてるよ」
「まあ、私はおしとやかです。男の子なの、女の子なの?」
「うーん。中間、かな」
「………………」
「そんな怖い顔で睨まないで欲しいね。やれやれ、出産後まもないというのに、その気迫は表彰もの――」
「貴方」
「はい、申し訳ありません。……双子、男女の双子だよ」
「そう、なの?」
「ああ」
「………………っ」
「ああ、もう。本当に泣き虫だな、君は」
「ご、めんなさ……。嬉しくて」
「…………。名前、何にしようか」
「男の子が櫻で、女の子が桃」
「ハハ、即答か」
「貴方が楓、私が紅葉でしょう。いいじゃない」
「はいはい」
病室は温もりで溢れていた。
「誰も、輪廻転生の終わりなんてわからないんだよ」
終点のない電車内で、車掌は呟いた。
老いた体の節々が軋んでいる。
車掌は窓の外に見える景色を眺めた。
彼は皺が刻まれた手でガラスをなぞる。
「終わったことさえ、気づかないのだから」