午前九時③
輝夜の住まう館を後にして、音也と女帝が我が家に帰宅した時には、既に愛しき娘、可憐の姿は無かった。理由は誰が言うまでもなく、学校。
「おかえりなさい」
いつも通り、天使の様な微笑みで、椎名が二人を出迎える。
「ただいま椎名。少し遅いけど、朝飯作ってくれないか?」
「わかりました、音也さん」
椎名はそう言うと、踵を返して、台所に向けて駆け足で向かった。
音也が椎名に命令に近い事を言ってしまい、申し訳なさそうにしていると、隣の女帝が、まるで独り言の様に呟いた。
「尽くし尽くされるのが、夫婦なんだと、私は理解しています。椎名さんは今、音也さんに尽くしています。だから音也さんも、椎名さんに尽くしてあげてくださいね」
その言葉は、励ましの言葉として音也の心に刺さる。
「ありがとう」
「いえ、私は別に大した事は言ってませんよ!」
少し照れ気味に、女帝は顔を紅潮させた。
「それでも、嬉しかったぜ」
「そう⋯⋯ですか。なら良かったです」
急なのにも関わらず、椎名は立派な朝飯を短時間で作り、テーブルに並べた。
「美味しそう⋯⋯」
席に着くと、女帝は涎を垂らしながら、料理をじっと見つめる。
「汚いぞ女帝。その涎を拭け」
音也は女帝を指差し、指摘した。
「し、失礼。メイドの分際でご迷惑をおかけしてしまいました」
慌てて涎を服の袖で拭くと、音也に軽く頭を下げる。
「まぁ⋯⋯女帝の言う通り、確かに椎名の作る料理は美味しそうだ。実際美味しいし」
「音也さん、それは褒めすぎですよ」
漆塗りのセーラー服の上にエプロンを着た椎名が、台所から二人の前に姿を現す。彼女の頬は、褒められるのが恥ずかしいのか、やや赤くなっていた。
「まだまだ、褒めたり無いよ」
「そ、そんな⋯⋯‼︎」
完全に真っ赤に染まる顔を、椎名は両手で覆う。
「こういうのを、バカップルって言うんですよねぇ」
目を逸らしながら、女帝は今目の前で繰り広げられる会話について呟いた。
音也はここ五年、運動を殆ど控えていたので、あまり沢山は食べられなくなっていた。それでも椎名は、満漢全席に近しいレベルの食事を毎度用意する。作ってくれた彼女の為にも、音也は毎度完食を試みるが、結局は断念してしまっていた。
「よし女帝、力を貸せ」
椎名が、洗濯機を動かす為に洗面所に向かっている間、席に着いた音也は、なるべく小さな声で隣の女帝に言った。
「いい、ですけど⋯⋯何をするんですか? まさか完食する為に、何か道具を出せとか言うんですか? 言っておきますけど、私は便利ロボットでもアブソリューターでもありませんよ」
「エスパーかよ。何でわかったんだ?」
すると女帝は腕を組み、自慢げにそれに答える。
「音也さんの言いたい事は、何となーくわかりますよ。ほら、音也さんって単純ですから」
「そんな単純かなぁ、俺」
怪訝な顔を浮かべながら音也がそんな事を口にしている間に、女帝は自身の能力ーー『万物創生』を使って、とある物を創った。
「それは?」
少しの間の後、女帝が力を使った事に気が付いた音也が、尋ねる。
女帝の手には、一粒の錠剤があった。それは誰もが見た際の第一印象の通り、薬なのだろう。
「これは『食欲全開! どんな物でも胃に突っ込め‼︎』と言って、これを服用した人は、約十分間、どんなに食べても満腹になる事はありません」
「相変わらずのネーミングセンスだな⋯⋯って凄いな、その錠剤。それがあれば、ここの料理もペロリといけちゃうじゃんか」
薬に頼るというのは何だか嫌な気もするが、愛する人が自分の為に作ってくれた料理だ。完食しない訳にもいかない。その為に、音也はどんな方法も厭わない覚悟があった。たかが料理。されど料理。
「よおし⋯⋯」
喉を鳴らす。女帝から錠剤を受け取り、水も無しに飲み込んだ。
「⋯⋯⋯⋯特に、何もないな」
飲んですぐに効果が出るのは、そもそもあり得ない気もするが、それが気にならないのは、彼がこれまで漫画などを見てきて育ってきたからだろう。
「当然です。ただ満腹にならないだけですから。あ、言い忘れてましたけど、副作用は一切ありませんからね」
「そういうのは、せめて飲んでから言えよ⋯⋯」
「どんな人でも失敗する様に、私だって失敗します。言い忘れくらい、大目に見てください。いや見ろ」
「どうして急に丁寧語が解除されるんだよ」
「おっとすいません。ちょっと気が緩んで素が出てしまいました」
女帝は口元を押さえ、謝罪の言葉を投げた。
ーー何ていうか、自由だよな。こいつ。
思えば、音也と初めてと出会った時から、彼女は誰よりも自由だった。シビトではあるが、どんな人よりも人らしい性格をしている。笑顔が眩しく、明るい印象を持っていて、けれどそれは、人によっては無理をしている様に見えた。
ーー桃花ちゃんの事、もしかして気にしてるのかな?
遡る事五年前。学園崩壊が起こる前に、当時探偵を営んでいた音也の元に、一人の少女が依頼にやって来た。
少女の名前は矢弾桃花。学校の制服を着ていて、正に何処にでもあるような少女に見えた。
彼女の依頼はその日の内に解決すると、それから音也と彼女は、友人という間柄になる。そしてそれは、矢弾桃花という人物を、深く知る事となった。
音也は、彼女の名前を聞いた時から、その苗字に聞き覚えがあった。
矢弾家。その家系は裏社会では非常に有名な犯罪組織で、人を誘拐する事を主にしている為に、『誘拐屋』と呼ばれている。桃花はこの家の一人娘だった。
常に危険と隣り合わせな仕事をしている両親にとって、子供は足枷に過ぎない。だから彼女を愛さなかったし、逆に虐げた。
何の運命か、学校でも彼女はいじめを受ける。少しずつ、しかし確実に、彼女の心は砕けていった。
ある日、音也は桃花に尋ねる。「助けて欲しいか」と。しかし桃花は、差し伸べられた救いの手を、自ら払い除けたのだ。辛いのに、彼女は親と離れたく無く、更に音也を巻き込みたくなかったのだろう。
そしてそれから、音也と桃花は合わなくなった。
ある日の事、音也の元にとある人物が訪れる。
その姿は、矢弾桃花そのもので、発する声も、桃花そのもの。それなのに、中身ーーつまりは人格が異なっていた。
それが彼女ーー女帝である。
二十二柱シビトは、乗っ取った人間の記憶と人格を受け継ぐ。つまり音也の知る女帝は、元々あった女帝の性格と、桃花の性格が混ざっているのだ。
彼女は非常に優しい性格をしており、桃花から肉体を奪った事を、今も尚後悔していた。
誰かの人生を奪っておいて、自分だけ幸せになっていいのだろうか? そんな事を、日々考えているのかもしれない。そう思うと、音也は少しだけ、無理に笑顔を浮かべる彼女が、憐れに思えた。
「あの、どうしましたか? 私の事をじっと見つめて⋯⋯まさか私に惚れちゃいました⁉︎」
音也は顔の前で手を軽く振り、その可能性を言葉で否定した。
「んな訳あるか。俺は、椎名一筋だ」
「どうでしょうねぇ⋯⋯案外たらしですからね、音也さんは」
「?」
言っている意味がよくわからないのか、音也は首を傾げる。
「はあ。自覚が無いなら、重症ですね⋯⋯と言うか、早く食べてください。でないと、薬の効果が切れます」
「あっ、そうだった‼︎」
考え事や女帝との会話のせいで、すっかり忘れていた事に、彼女の一言で気付いた音也は、慌てて料理を食べ始めた。
薬の甲斐あってか、音也は初めて、椎名の料理を完食する事が出来た。それを見た椎名は驚き、音也に賛美の言葉を投げる。それはまるで、子供を褒める母親の様だった。
「ーー音也さん、話があるの」
女帝がもう一度と寝たいと言って、二階にある自分の部屋に向かってから数分。綺麗に料理が無くなった皿を、何度か往復して台所に運んでいる最中、唐突に椎名は、悲しそうな目を浮かべながらそう口にした。
「どうしたんだ?」
「それが⋯⋯ね」
椎名は、両手で持っていた皿をテーブルに置き直すと、音也の隣の席に座った。
「可憐、私達みたいに強い人間になりたいんですって」
椎名の言葉を聞くと、音也は顔を俯かせる。
「正直、可憐には俺達と同じ道を歩んで欲しくない。あの子に、あんな辛い思いはさせたくない」
気付けば、膝の上に置かれた音也の拳は、小刻みに震えていた。
「わかってます。私も、せめて可憐には幸せな普通の子として生きて欲しい。でそれは、私達の理想を、勝手にあの子に押し付けてるだけなんじゃないかって、気付いたんです」
「そう、かもな⋯⋯」
音也は、それを否定する事は出来なかった。確かに二人は、可憐の意志を無視して、自分達の理想を押し付けていた。
我が子を危険な目に遭わせない。それは親として、当然の感情だ。しかしそれ以前に、可憐の意志を、絶対に無視してはいけない。
「⋯⋯なぁ、椎名」
「何ですか? 音也さん」
すると、音也は椎名の手を優しく握り、顔を近付かせた。
「えっ、あ、え?」
あまりにも唐突に手を握られたので、椎名は狼狽し、顔を紅潮させる。
音也は一度深呼吸し、何かを決断させると、おもむろに口を開いた。
「⋯⋯もう一度、戦おう」
「えっ⋯⋯」
その言葉が、椎名の脳内で反響する。
「でも、今までとは違う。今までは、自分達の為に武器を取ってきた。でも次は、可憐を護る為に武器を取るんだ」
音也は、左手で椎名の頭の上にポンと手を置き、優しく撫で回した。
「我が子を護るのが、親の仕事だからな」
「⋯⋯⋯⋯うん」
本人も知らぬ間に、椎名の目からは涙が溢れ出ていた。まだ一日が始まって間もないのに、涙を流すのは、これで二度目だった。
ーーごめん、椎名。
愛しき人の頭を撫でながら、音也は酷い罪悪感に押し潰れそうになった。
彼が武器を取る理由は、別にあった。それは娘の為でも、椎名の為でもない。他ならぬ、自分の血族との因縁の為だった。
今、小桜町では確実に異変が起きている。町の人々は全く気付いていないが、それを誰よりも早くに察知した音也は、信頼できる存在である月華輝夜の元を訪れた。
彼女は「デュアライズが原因」と考えていたが、それとは別に、もう一つ原因があると、音也は仮定していた。そしてその仮定は、輝夜から聞いた話によって、確信へと変わる。
その確信が、彼に嘘を吐かせたと言っても、過言では無かった。
せめてもの罪滅ぼしにと、音也は気が済むまで、彼女の頭を撫で続けた。
音也や女帝については、本編と設定に矛盾や食い違いのある、最早黒歴史になり掛けている前日譚をご覧ください。
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