三題話 「眼鏡」「鉛筆」「コンクリート」
成人式で旧友に再会する。
そんな当たり前の出来事が、目の前の彼女に限っては普通では済まされなかった。
「この世界で、一緒に暮らそうよ」
静まり返っている教室の中心で、旭川シノは僕にそう告げた。
海底を思わせる、底の知れない彼女の瞳がその言葉に怪しげな気配を宿す。体から現実味が薄れていく感触がする。
二年ぶりに出会った彼女は、相変わらずの雰囲気で僕に語り続ける。
「この世界なら、どんな芸術だって極められるんだ。鉛筆一本で、どんな美しさだって表現することができる」
本気で言っているのだ。僕の知っている旭川シノという人物はそういう奴だった。鉛筆一本に全てを懸けているような、どこまでも芸術に真摯な人物だった。
彼女の、闇夜を弾くような手足は陶器を思わせる美しさを持っている。なんとなく添えられている手は、触れている学習机すら美しいものと思わせる何かがあった。
肩のラインをはみ出る程度に伸ばされた黒髪は、暗がりに溶け込みそうな黒色をしている。
なにより、人を計ろうと開かれている瞳が、僕を逃がそうとはしなかった。
夜の闇の中にいる彼女はまるで、太古の昔に生まれた魔女のようだった。
怪しく、気高く。
人知の及び知らぬ領域に生きている存在、そんな印象を与えていた。
しかし、そんな印象も、長い付き合いの中で免疫がついて、慣れてしまっていた。
それでも僕が久しぶりに見た彼女の姿に惹かれたのはおそらく、二年という時間の隔たりがあったことと、それともう一つ。あることに気付いたからだろう。
視覚的に、或は直感的に僕は彼女……旭川シノに対して、強い違和感を感じ取っていた。そして、それが看過できるものではないこともわかっていたと思う。
四肢、髪、身振り、表情、瞳。
そのどれもが美しく、それでいて既視感が纏わりつくものだった。いや、言い換えてしまえば――――何も変化をしていなかったのだ。
二年前に最後に見た姿が、そのまま今のこの場所に転写されていた。
僕の考えを見透かしてか、彼女は口角を少し歪めた。
「ああ――、気付いたみたいだね。私が二年前と何ら変わってないことに。勘違いなんかじゃあないよ」
とても信じられないようなことを告げられている。それを僕は理解していた。しかし、彼女の口から放たれているその言葉は、鵜呑みにしてもいい気がした。……やはり、直感的なことだったが。
彼女は続ける。
「地縛霊、とは違うんだろうね。でも似たようなものだよ。私はこの世界から出れないし、老いることもできない。その代わり、向こうの世界では芸術の神髄をつかんだ」
彼女は何でもないことのように言葉を紡いでいった。
そして、その様子もどこか楽しげに見える。彼女にとっては、老いることなく、この閉ざされた空間に縛られ続けていても、最高の絵さえ描ければ十分なのだろう。
そう言えば、そういう奴だった。
初めて会った時からいつだって彼女は。
彼女と初めて出会ったのは高校一年生の夏だった。
冷房もなく、熱気を閉じ込め続ける美術室での出会いだった。そして、その出会いは偶然の物だと言いきれる。
初対面の彼女は言った。
これも確信することができるが、彼女は別に僕だから問いかけたわけではない。たまたま、その機会があり、そこに偶然僕がいたのだった。
「これ、何に見える?」
当時、美術部の幽霊部員だった僕は、あんまり美術室へ近づきたくなかった。気まずい、ということよりも自分のプライドが許さなかった。
入って数か月の間に行かなくなってしまったが、入学当初はまじめに美術を学ぼうとしていたからだ。裏を返せば、当時はほとんど美術を学ぶ気力はないということだった。
それでも、僕は彼女の問いかけに付き合った。
惹かれるものがあったのだ。
「何回も描いてるんだけどね……」
彼女は手に持った画用紙をこちらに向ける。その絵は――今でも忘れることはないが、ひどく印象的だった。複雑怪奇という意味ではなく、むしろその反対だったけれども。
そこに描かれていたのは灰色の、立方体のようなものだった。ような、と言ったのは立体の面に小さな穴のようなへこみや、ひびが入っていることだった。
デッサンの初心者が初めに描かされるような一般的な図形。言い換えれば、何を現しているでもなく、強いて言うならば「デッサン練習用の立体」とでも言えるのだろうか。
しかし、僕は何となく答えがわかった。
「コンクリート、ブロック?」
「正解」
続けて
「でも大不正解」
そう言うと、彼女は僕に差し出していた画用紙を乱暴に奪い取る。そのまま流れるように両手で画用紙の端と端を持ち――一息で破り裂いてしまった。
乱雑に裂かれた紙片が木製の床を覆う。よく見ると、たった今空から降ってきた紙片とは別に、何枚も――――何十枚もの紙片が落ちていた。
恐怖と、尊敬。
その二つが頭の中にふと湧いてきた。
「コンクリートブロックって言うのは、もっと……美しいものだよ。少なくとも、未熟な私が鉛筆一本で表現できるようなものじゃない」
言い切って、彼女は笑った。
その笑顔があまりに無邪気だったものだから、ついつい僕も笑顔を作ってしまう。
それが僕と彼女の、三年にわたる友情の始まりだった。
「三年間も一緒の部活にいたから、お前がコンクリートが好きな理由くらいわかるものかと思ってたけど。結局わからなかったよ」
初めて出会った時だけではなく、
暇を見ては彼女はコンクリートを画用紙に描いては破り捨てていた。僕から見ればどれも大した違いはなかったが、彼女にとっては大きな違いがあるようだった。
「本能だよ。女が男を好きなように、ね」
「……はぁ」
納得できなかったが、深く問い詰める気もなかった。
特に、僕の知る旭川は恋愛に興味を持つような奴ではなかった。まあ、知らないところで並々ならぬ愛情を注ぐ相手がいただけかもしれなかったが。
そこまで思い至って、自分が三年間一度も旭川にそういった感情を向けたことがないことに気付いた。
彼女との信頼関係は進めば進むほどに、「親友」に近づいていた。そして、その関係はとても心地よかったのを覚えている。
同じ趣味で切磋琢磨できることにとても充実していた。
出会ったその日から、僕は毎日とは言わなかったけれど部室に通うようになった。何も、彼女が目当てというわけ絵はなく、絵を描くということをもう一度始めた。
彼女――旭川シノが後輩でもなく、先輩でもなかったからこその関係だったと思う。同級生というのは理由のない安心を得られる関係だったのだ。
真夏だった。
幽霊部員をやめて、部室に通うようになって一か月程経った時のことだった。
部室の中は静かだった。部員の人数は多くはない、そして誰も口を積極的に開こうとしないからだ。それは全員がよく集中していることを意味していた。
部員には課題が出されていたり、あるいは各々が出したいコンクールに向けて作品を作っていた。
僕は始めてやる油絵に四苦八苦していた。色々なものに手を出して、特異なことを見つけようとは思ったがどれも一筋縄ではいかないのだ。
近くで作業している旭川のほうは手慣れた様子で油絵の課題を順調に進めていた。
コンクリートに芸術的な何かを見出せるだけあって、その技術のほうも部活内でも一つ頭のとびぬけているところがあったのだ。
対して、僕の腕は平凡よりも劣る。
特に、油絵というのはなかなか奥が深い。いや、奥が浅い画法があるとは思っていないけど。
最初に置いていく鮮やかな絵の具が、最終形とはずいぶんとほど遠い状態から始まることになる。最初に鮮やかな色を使っても、最後にはとても暗い色合いになったりする。
狂った道しるべだ。しかし、その道しるべが、しっかりと僕のことを完成形へと導いてくれる。
妙なものだ、そう思った。
そんなことを考えながら、目の前の作品に取り掛かり続ける。少しずつだったが、なんとなく要領を得ながら。
「そう言えば、なんで幽霊部員だったのさ」
僕の何倍も早く、正確に筆を動かしながら旭川は聞いてきた。
僕としては余り答えたくない話題だった。今でこそ、真面目に部活へきているけれども、挫折の原因なんてものは簡単に教えるには気が引ける。
それでも、旭川には話してもいい気がした。
幽霊部員だった自分を、またこの道へと戻してくれたという恩を感じてのことだ。
「ん――。なんか、才能がない気がしたんだ」
「知ってるよ」
即答。ついつい筆が止まってしまった。
慰めの言葉が欲しかったわけではないが、ここまであっさり断言されるというのも衝撃的なところがあった。
確かに、僕の才能なんて隣にいるこの同級生と比べたら、塵のようなものだと思うけれど。
入部して一か月も経てば、部内の雰囲気や、目立った実力者のことは把握できるようになる。
特に、旭川シノは別格だった。
何を描かせても目を引くような作品をつくる。写実的にも、象徴的にも描くことができる。詳しくは僕にはわからないが、普通の高校の生徒程度では太刀打ちできない実力があった。
僕と彼女は比べることすらできない差があったのだ。
だから、言ってしまった。
悪意はなかったつもりだった。
「――――確かに、お前みたいな才能はないけどさ」
するりと、何の抵抗もなくその言葉を吐いてしまった。僕は、それを言ったすぐに、酷い妬みで出来た言葉だと気づかされた。
なんとかその言葉を取り消したい。そんな感情は、旭川を想う心から生まれたのか、それとも自分の罪悪感から生まれたのかわからない。
それでも、
「わ、悪い。決して皮肉のつもりで言ったんじゃ」
「確かに私には才能があると思うよ、でも」
そう言うと、作業中だった油絵に手を付けずに鞄を探り出す。そして、その中からスケッチブックを取りだした。
そして、鉛筆を一本持って髪に絵を描き始める。
その様子はとても手馴れているようだった。油絵を描いている時も、彼女の体は迷うことなく作品を作り出していた。しかし、この鉛筆による作品はそれ以上だった。消しゴムによる訂正は一切いらず、定められた道しるべがあるかのように絵が描かれ続けた。
五分程度、普通のデッサンでは到底考えられない時間。
そんな短い時間で彼女は一枚の画用紙を埋め尽くした。
「またコンクリートブロックか」
「何度も言ってるよ。これは、違うっ」
そう言って彼女はその絵を――――写実的にコンクリートが刻まれたその画用紙を破き捨てる。
手慣れたもので、画用紙を破く力加減を理解していて、職人芸のように手早く画用紙をバラバラにしていた。
かつて画用紙だった紙片は床に落ちる。その様子を、どこか満足げに見つめながら旭川は口を開いた。
「画竜点睛を欠く、って言うんだよね」
「何が」
彼女はこういった――遠回りな表現が好きだった。
これが世の中にはびこる有象無象に使われるとうんざりするが、彼女の場合はその振る舞いがよく似合った。そして、僕もそれを聞くのが嫌いではなかった。
「私はほかの絵が描けなくても、コンクリートを描きたい。ただ上手いんじゃない、極めたいんだ」
滔々と彼女は語る。
「芸術の才能のおかげで私はその願望を見つけることができた。けど、それを叶える才能がないこともわかってしまった」
彼女の言っていることは、わかる。しかし実際にその感覚、感情を僕が得ることは決してない、とそう思った。
おそらく、彼女の芸術の技術はある一点まで上達してしまったのだろう。そして、その一点から先は底なし沼のような、先の見えない道があるのだ。
彼女はその沼に沈んでいるのだ。
不幸中の幸いという言葉があるが、彼女の場合はその反対かもしれない。
幸い故の不幸だ。
そんなことを考えつつ、僕の考えはきっと彼女の思っていることの半分も解釈できていないのだろう。僕のような凡人ではそれが限界なのだ。
だから僕はただ聞いていた。
続けて彼女は言った。
「私は芸術の才能よりも、それが欲しかったよ」
返答はしない。できなかったのだ。
ただ、率直に相容れないと思った。こんなにも近くにいるのに、そして短いながらも付き合いを続けてきたというのに、赤の他人以上に距離が隔てられているような気がした。
「…………ああ」
曖昧にこぼれた言葉は、何も意味を持っていなかった。その代わり、取り繕うだけの言葉を僕に考える時間をくれた。
彼女との距離を錯覚するための言葉を。
「――――自分の芸術の才能に自信があるなら、ちょっとばかり僕のことを手伝ってくれ」
「うん。いいよ」
そう言って、彼女は自分の作品が完成し切っていないにもかかわらず筆をおいてこちらを見た。
今でも不思議に思っていることだが、男子高校生が女子生徒にマンツーマンで教えてもらう、という状況にもかかわらず僕は全く動揺していなかった。
それが何を意味しているのか、当時は分からなかったが今ならわかる気がする。
「将来の夢?」
「そそ」
画用紙に何か(確認するまでもなくコンクリートブロック)を何回も描いては同じ回数破き散らしながら旭川シノは僕に聞いた。
季節は冬。
高校二年生になった僕たちは関係性に何ら変化もなく、そして行うことも同様に変化がなく。出会った時から地続きのような生活をしていた。
そんな僕たちでも、進路を考えなければいけない時期になれば、考えなければならなことはあるのだ。
それにしては子供っぽい話題だとは思ったが。
幸いにもその日の部室には人が少なく、身の上話をしても恥ずかしいこと範囲もない。何とも都合がいい日だった。
筆を止めて、少し考えて答えた。
「……特にない」
秀でた特技もなければ、これといった目標もなかった。今やっている美術だって大成するには才能も努力も足りないだろう。いたって普通の回答だったと思う。
そう言うと、彼女はこちらを向かずに声を出す。
「画家を目指す気はないの?」
「嫌味かよ。一年以上一緒にいるんだ。お前だって向いてないことはわかるだろ」
自分で言って悲しくなる、といったことはない。
一年以上自分の腕前と触れていくうちに、隣にいるのが彼女ということを除いても、自分の才能の乏しさには気づかされる。
それでも部活を続けているのは、惰性と言った部分が多いのだと思った。
「わかってる、けどね」
彼女は何かを言い淀んでいるようにそう言った。
珍しい反応で、僕はつい彼女のほうに目をやる。
彼女は画用紙に描き込むことを止めてこちらを見ていた。
「お前は、画家か」
「たぶんね」
やはりか、納得して僕が目を離そうとしたその時だった。
彼女は言葉をつづける。
目は逸らせなかった。
「けれども、やっぱり――――」
「コンクリートブロック、だろ」
そうそう、と言って彼女は頷く。
冗談で言っているのではなく、そしてただただ本気で言っていることは知っていた。それでも、画家よりも優先して叶えたい願いだというのだろうか。
その執着心に、少し心が震える。
それを誤魔化すために僕は問いかけた。
「そんなに一生懸命なら、旭川、お前はいつか描けるようになるよ。そして、その後はメガネのフレームが描けないなんて言い出しそうだぜ」
冗談のつもりでそう言った。
だからこそ、彼女の言葉の真剣なことに驚かされた。火照った体で、冷水をかぶった時のような衝撃が身を焼く。
「死ぬよ」
いつもと同じような口調で、先ほどまでの面影はない。
「……え」
「コンクリートブロックが描けたら、死ぬ。私にとってはそれが人生の終着点なんだ。そこまで至ったら、その先の人生は灰色でつまらないものになる」
冗談の一切含まれていない、世界に対する宣告のような言葉だった。
事実を淡々と述べているような、重たいものも感じる。
「君も、いつか命を懸けてでも成し遂げたいことが見つかると思うよ。そしたら、私と同じように思うさ」
何を言っているんだろうか。
僕には彼女がまったく別種の生物のように思われた。
「……はは」
曖昧に笑う。その仕草は簡単で、だからこそどれだけ重大なのかを僕は分かっていなかった。
彼女と会話をした最後の日は、僕たちの卒業式の日だった。
僕は結局、美術系ではない普通の私立大学へと進学をした。三年になってからは部活に行かず、その分勉強していたことが実を結んだのだった。
そして、部活に行かない一年間は早く過ぎたように感じた。
原因はきっと、旭川と会うことがぐっと減ったからだろう。
「眼鏡、そんなもの付けてたか?」
旭川は卒業証書の入った筒をバトンのようにして弄んでいた。まったく取り損ねるようなそぶりは見せず、起用に操っていた。
そんな彼女が眼鏡を身に着けていた。初めて見たもので、なんともなしに僕は聞く。
「心機一転、てね。でも、いらないかな」
そう言って彼女は眼鏡を外し、手に取る。そしてそのまま僕のほうへと投げた。
何を考えているのか、聞くことも考えることも間に合わない。なんとか落とさないようにその眼鏡をキャッチしようと試みる。
取れなかったらどうしようか、なんて考えたが無事に手に収まった。
「なにしてんだ」
「手土産みたいなものさ。なんだかんだで、長い付き合いだったから」
それは正しい。しかし、僕には違和感を覚えることだった。
出会って二年半程度経ったが、それでも僕は彼女の距離が短くなったような気はしなかった。それどころか、彼女との隔絶は開き続けていたようにも思える。
もしくはそれすら間違いで、もともと彼女との距離が本来より近いものだと勘違いしていたのかもしれない。
どちらでもいいことだったが。
「……………………」
会話が続かない。
久しぶりに会ったということもあるが、これから別れることが僕の口を重くしていた。簡単な言葉すら、発することに気が乗らない。
言うべきことがあるという気はしているのに。
そんな風に黙り込んでいた時だった。
「……あ」
変わっている点もない、至って普通のコンクリート片が目に入った。ハンマーでかち割られたように武骨な断面をさらしていて、錆びた鉄の棒が突き出している。いつもなら見逃すそれが、いやに僕の目を引く。
そしてコンクリートから瞬間的に、僕はすぐ隣の彼女を連想した。もしくは逆だったかもしれない。ともかく、僕は彼女に対しての会話のネタができた、なんてことを思った。
だから僕は顔を上げて、旭川のほうを向こうとした。
それと、乾いた音がしたのは同時だったと思う。
彼女はいなかった。
そして、たった今重力に叩き落されたかのような、見覚えのある筒が転がっているのみだった。
「何の冗談だ?」
僕は旭川を探しに辺りを散策した。ずっと手に持っていた眼鏡と、筒を持ち主に渡すことは結局できなかった。
瞳を開く。
意識が現実を認識した。
闇夜の教室、向かい合うのは旭川シノただ一人。
彼女との記憶が脳裏を巡った。そして、自分の考えもまとまったように感じている。振り返れば、ぁ止むまでもない決断のようにすらとれた。
「すまん。筒は忘れた」
「えっ、何が」
できるだけあの時の動作と重なるように、僕は唐突にその行動に映った。彼女の目には、その様子に多少の困惑が浮かぶ。それでも反射神経を生かしてそれを捉えた。
二年間部屋に保管しておいた。そして、今日に限って外に持ち出していたそれを。
「眼鏡」
「二年前と同じなら、それが必要だと思ってさ」
さすがにこの事態を予測はしていなかった。そもそもできるはずがない。彼女が僕たちの卒業式の日に行方不明になって、そして成人式の日にまた会えるなんてことは。
それでももう一度会えて、こうしていられることには感謝すべきだろう。
「――――ああ。そういうことか」
旭川は不意にそんなことを言う。
何かを深く悟ったような、そんな口調だった。それは僕が初めて見る彼女の様子でもあった。
「残ってくれないんだね」
「ああ」
即答してやった。
僕なりの仕返しだった。
全てを分かったようなことを言う彼女のように、僕もそうやって返答したのだ。
彼女は少しだけ悲しそうに笑っていた。いや、悲しそうに見えるのは錯覚かもしれない。僕にはそれを判断することはできなかった。
「理由とか聞いていいかな」
彼女はそう言った。
「命を懸けてでも欲しいものは、命を捨てても手に入らないって、知ったから」
目を開くと、そこは電車の中だった。
僕はその電車の席に座っていた。そして、成人式の帰り道だったことを思い出す。
目が覚めて丁度、家の近くの駅に留まったので立ち上がって電車を降りた。体は少し倦怠感を背負っていた。
帰路をたどる。
思考を染め上げるのは先ほど見た光景だった。夢のことだった。卒業式で別れ、それ以来行方不明となった同級生と再会する夢。
あれを現実と思うべきか、否か。それを判断はできない。。
そんなことを考えながら歩いていると、まだ固まりきっていないだろう生コンクリートが、地面を切り取った空間に張られているのが見える。
思い浮かべるのは旭川のことだった。
次に思い浮かべたのは彼女の眼鏡。なんとなく持ってきていたそれをなんとなく触れたくて、ポケットの中に手を入れる。
「ん?」
触れたのは金属製のフレームではなく、もっと繊維質のものだった。
取り出す。すると、
「コンクリートブロック」
それは郵便はがきを半分に切ったような大きさの画用紙だった。そこには、彼女が最後まで満足することのなかった題材のコンクリートブロックが描かれていた。
「夢じゃなかった、か」
その画用紙を見つめて、そうつぶやいた。
そして、その画用紙を丸めて生コンクリートの張られた工事現場に投げ入れた。
「違いなんてわからねえよ」
在学中に何度も見ては、破られていった絵と、今見た絵。彼女のいた世界が本当に芸術を極められる世界ならば先ほどの絵は「完成されたコンクリートブロック」の絵だったのだろう。
それでも、違いは分からなかった。
「ああああ――。こんなもののために、あいつは」
卒業して二年経て、いろいろなことを振り返られるようになった。
高校生だった自分は、旭川とどんな関係になりたかったのかを。
僕はきっと、旭川と平等でいたかったのだ。
そこに、魔法のような力はいらなかった。自分なりに追いつきたかったのだ。
彼女との壁は、もはや人知の力では崩せないほど厚いものとなり、僕の目の前にある。それはきっと、命を賭しても近づくことのできないものだ。