第壱話 -戯-
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ちょうちょう ちょうちょう
菜の葉に止まれ
菜の葉に飽いたら
桜にとまれ
桜の花の 花から花へ
とまれよ あそべ
あそべよ とまれ
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薄紅の花弁が、ひらひらと宙を舞い、伸ばした手のひらにふわりと柔らかに落ちた。
暖かい陽射しが庭を照らし、ふわりと吹く風が、庭の花木を優しく揺らす。
そんな光景を見ていると、何故だか自分の気持ちまでがぽかぽかと暖かくなり、口元が自然に緩んでしまう。
「風が吹き、花びら舞い散り、地に臥して…あーあーそのまま全て朽ちてしまえばいいのに」
「……………」
「若しくは消えろ。消滅! 消滅!」
呪詛の如く、否定的な言葉をぶつぶつと呟きながら、廊下に寝転ぶ彼は腕を上下に振った。
「大体さぁ、春という季節は全く以って意味不明な季節だよ。暖かくなったかと思いきや、急に寒くなる。桜の舞い散る姿は美しいが、大量に落ちれば塵となる。いらないよ。ゴミだゴミ。神様とやらは何故こんな季節を作ったのかぐぶふぉぉお!」
話を最後まで聞かず、両手に抱えていた洗濯物を彼の顔面に、無言で落とす。
顔を洗濯物に押しつぶされた彼は、くぐもった声を出しながら、首から上を洗濯物に埋もれてしまった。
「…春がお嫌いなんですか? ロキさん」
淡々とした声で問うと、大量の洗濯物を手で除けながら視界を開かせた彼が、頭の上にブルマを乗っけながら
「よう待子。気分は上々か?」
からからと笑いながら、彼、露季さんは答えた。
「あなたのくだらない呟きさえ無ければ、私の気持ちは上々でした」
「相変わらずお前は冷たいな」
「冗談が通じないと言ってください」
露季の横にしゃがみ込むと、私は取り込んだばかりの洗濯物をいそいそと畳み始めた。
「ねえ待子?」
「何でしょう」
「『春』という言葉に、様々な意味があるのを君は知っているかい?」
「意味、ですか?」
「そ」
不意に話しかけてきた露季さんの問いに、洗濯物を畳む手をしばし止め、考える。
ちらりと露季さんの方を見れば、こちらを見ながら厭らしくにやにやと笑っている。
「ふむ、春は四季の最初の季節で、陰暦では1月から3月。太陽暦では3月から5月。天文学的には…」
「ちょちょちょ、ストップ。待子、ストップストップ! ボクはそんな難しいことを訊ねた訳じゃあ無いんだけど!」
予想外の答えだったらしく、露季さんの顔が軽く引き攣っている。
まさかの私の答えに、慌てふためく姿がちょっと面白い。
「ボクは『春』という言葉に注目して考えてもらいたかったんだがね」
はぁ、と額に手を置き、わざとらしく大きな溜息を吐く露季さん。
溜息を吐きたいのはこっちの方だ。
「なら、回りくどい言い方は止めてさっさと教えてくださいよ?」
呆れながら言ってみると、もっと可愛いおねだりが出来ないのかね? 等とオヤジ臭いことをぶつくさ言われたが、続きを急くと露季さんは話し始めた。
「『春』という言葉はだな、草木の芽が『張る』意、また、田畑を『墾る』意、そして気候の『晴る』意からと言われているんだ」
「根を張る、開墾する、そして晴れる…なるほど」
「個人的には『晴る』が一番春らしいとボクは思うな。ほら、この暖かい陽射しがなんとも春らしくてー…あ」
口を慌てて押さえるが、時すでに遅し。私は片眉をぴくりと上げて、冷めた瞳で露季さんを見つめた。
「あの、なんか露季さん、さっき自分が仰った言葉と、かなり矛盾していませんか? 生暖かい陽射しが嫌いだとかどうとか?」
「ま、まあ『春に三日の晴れなし』と言うしなー」
あははははと、慌てて話を無理矢理紛らわす露季さん。
それでも私の呆れた怒りは冷めやらない。
「あ、後もう一つ春に意味があったの忘れてた」
「春がお嫌いのくせに、やたらと春について詳しいんですね」
少し皮肉を交えながら露季に言うと、露季さんは不機嫌そうに「マチ、少し口が過ぎるよ」と咎められた。
…私が悪いのだろうか?
今目の前では、露季さんが今まで畳んで重ねていた洗濯物を「土砂崩れー」と言いながらどさーと薙ぎ倒している。張り飛ばしたい。
そんな心の呟きが聞こえたのか? 寝転がる露季さんが私を見上げ、憎たらしく笑いながら言った。
「マチ子。何かボクに言うことは無いかね?」
「…………すみませんロキさん。以後言動には気を付けますので、春の意味を教えてください。」
わざと長めに溜めて言った謝罪に、露季さんは満足そうな笑みを浮かべ
「解ればいいのさ。次度を越した言い方をしたら給料減らすからな」
そもそも私は、給料というものを今まで貰ったことが無い。
彼の言うことは、半分が嘘。半分が真実。だけど殆ど嘘。
意味が解らないだろう。
言っている私も意味が解らない。
「色情」
「は?」
「単刀直入に言えばセック」
「わー! わー!? きゃー!!?」
「ス」
いきなり何を言い出すんだこの餓鬼は!?
「何だようるせーな」
「いきなり何を言い出すかと思えば何ですか! 何故春からそのような話に移るんですか!?」
「別に下ネタの話がしたかったから言った訳じゃないんだけど。ただ売春とか買春とかにも春って言葉が入ってるなぁってのを思い出し…」
「やめてください! 春のイメージがぶち壊れです!!」
「必死な待子マジうけるわー! 何? 純粋無垢で処女な待子たんはこういう話が苦手なんですかー? ぎゃははははっ!!」
「…う」
言い返せない。顔が赤くなっているのが解る。
「良いのよ待子。ボクは非処女より処女の方が大好きさ。美味しいからね? ぎゃーはははははっ!!!」
引っ繰り返りながら狂ったように笑う露季さん。
畳み途中の洗濯物を握る手が震えている。
もうやだこの糞餓鬼。
「ぎゃあはははぁぁあはっははははははっはははははぁ…うん?」
げらげらと大声で笑っていた露季さんが、突如がばりと跳ね起き、或る一点を見つめ、目を細めた。
「いかがなさいましたか?」
「……………」
私の問いに、露季さんは答えない。
ただ何処か一点を、厳しい表情で見つめている。
露季さんが向けるその視線の方に、私も目を向けて見ると、その視線の先に、二羽の色違いの鴉が電線に止まり、此方を見ていた。
濃紺色と、漆黒色の鴉。寄り添いながら、露季さんの方を真っ直ぐと見ている。
…そうか。いらしたのですね。
「ああ、解ったよ」
露季さんは笑っていた。
嬉しげに、楽しげに、にんまりと赤い弧を唇に描き、笑っていた。
その妖艶な笑みに、私は思わずどきりと胸が高鳴った。
「待子。客人の来店だ。茶の用意を頼む」
脇に置いていた赤い蝶の描かれた着物を羽織ると、露季さんは私の返事を聞くこと無く、店の中へと足早に入って行ってしまった。
「承知、致しました」
店の奥へと消えて行く露季さんの後姿を見つめながら、私はその背に礼をした。
「本日は、どのようなお客様がいらしたのでしょうね?」
一人ぽつりとそう呟くと、それに答えるかのように、桜の花片が一迅の風に吹き上げられ、ぶわりと舞い上がった。