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最後の来客

作者: 長谷川誠
掲載日:2026/04/12

 最近、訪ねてくる人が減った。

 もともと多くはなかったが、それでも月に一度は顔を出す者がいた。配達の人間も、名を呼んでくれた。

 それが、いつの頃からか途絶えている。

 最後に誰かと話したのが、いつだったか思い出せない。

 茶の間に座り、湯呑みを手に取る。

 軽い。

 こんなに軽かっただろうか。

 棚を見ると、湯呑みは一つしかなかった。

 もう一つあったはずだ。来客用にと、昔揃えたものだ。

 だが、もう一つの形が思い出せない。

 最初から一つだったのかもしれない。

 そう考えると、不思議と落ち着いた。

 壁を見上げる。

 時計がない。

 止まったのではない。

 そこにあったはずのものが、きれいに消えている。

 時間のことを、いつから考えなくなったのか。

 仏壇の横にあった写真も見当たらない。

 家族で写ったものだったはずだ。

 だが、誰が写っていたのか思い出せない。

 隣にいたのは――

 考えようとすると、胸の奥がひどく疲れる。

 やめた。

 家の中は静かだった。

 音がないのではない。

 音を待つ気持ちの方が、先に消えてしまったような静けさだった。

 玄関の方で気配がした。

 誰かが来たのかもしれない。

 立ち上がるのに、少し時間がかかる。

 膝が軋む。

 昔からこんな音がしていただろうか。

 それでも、ゆっくりと玄関へ向かう。

 戸を開けると、男が一人立っていた。

 見覚えはない。

 だが、初めて会うような気もしない。

 声を出そうとして、少し遅れる。

「……どちら様で」

 自分の声が、遠くから聞こえた。

 男は答えない。

 ただ、こちらを見ている。

 やがて、靴を履いたまま一歩中へ入った。

 止めようとは思わなかった。

 止め方を、忘れている。

 背後で光が揺れていた。

 雨が降っている。

 音はない。

 景色だけが濡れている。

 男の視線が、部屋の奥へ向く。

 つられて振り返る。

 何もなかった。

 机も棚も、何もかもが消えている。

 空間だけが残っている。

 ここで暮らしていたはずの痕跡が、どこにもない。

 足元を見る。

 自分の足が、あるのかどうか分からない。

 感覚が、遅れてくる。

 男が近づく。

 何か言おうとしているようだった。

 だが、言葉にならない。

 “誰に”言うのかが、分からないのだろう。

 自分の名前を思い出そうとする。

 何度も呼ばれてきたはずの音が、浮かばない。

 男だけが、はっきりしている。

 それ以外は、すべて曖昧だった。

 雨は降り続いている。

 音はない。

 ただ、世界の輪郭が少しずつ溶けていく。

 私は、ここにいたのだろうか。

 それとも、ずっと前から――

 いなかったのだろうか。(終)




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