最後の来客
最近、訪ねてくる人が減った。
もともと多くはなかったが、それでも月に一度は顔を出す者がいた。配達の人間も、名を呼んでくれた。
それが、いつの頃からか途絶えている。
最後に誰かと話したのが、いつだったか思い出せない。
茶の間に座り、湯呑みを手に取る。
軽い。
こんなに軽かっただろうか。
棚を見ると、湯呑みは一つしかなかった。
もう一つあったはずだ。来客用にと、昔揃えたものだ。
だが、もう一つの形が思い出せない。
最初から一つだったのかもしれない。
そう考えると、不思議と落ち着いた。
壁を見上げる。
時計がない。
止まったのではない。
そこにあったはずのものが、きれいに消えている。
時間のことを、いつから考えなくなったのか。
仏壇の横にあった写真も見当たらない。
家族で写ったものだったはずだ。
だが、誰が写っていたのか思い出せない。
隣にいたのは――
考えようとすると、胸の奥がひどく疲れる。
やめた。
家の中は静かだった。
音がないのではない。
音を待つ気持ちの方が、先に消えてしまったような静けさだった。
玄関の方で気配がした。
誰かが来たのかもしれない。
立ち上がるのに、少し時間がかかる。
膝が軋む。
昔からこんな音がしていただろうか。
それでも、ゆっくりと玄関へ向かう。
戸を開けると、男が一人立っていた。
見覚えはない。
だが、初めて会うような気もしない。
声を出そうとして、少し遅れる。
「……どちら様で」
自分の声が、遠くから聞こえた。
男は答えない。
ただ、こちらを見ている。
やがて、靴を履いたまま一歩中へ入った。
止めようとは思わなかった。
止め方を、忘れている。
背後で光が揺れていた。
雨が降っている。
音はない。
景色だけが濡れている。
男の視線が、部屋の奥へ向く。
つられて振り返る。
何もなかった。
机も棚も、何もかもが消えている。
空間だけが残っている。
ここで暮らしていたはずの痕跡が、どこにもない。
足元を見る。
自分の足が、あるのかどうか分からない。
感覚が、遅れてくる。
男が近づく。
何か言おうとしているようだった。
だが、言葉にならない。
“誰に”言うのかが、分からないのだろう。
自分の名前を思い出そうとする。
何度も呼ばれてきたはずの音が、浮かばない。
男だけが、はっきりしている。
それ以外は、すべて曖昧だった。
雨は降り続いている。
音はない。
ただ、世界の輪郭が少しずつ溶けていく。
私は、ここにいたのだろうか。
それとも、ずっと前から――
いなかったのだろうか。(終)




