第9話 止められない暴走
次の瞬間、胸の真ん中で、何かがはじけた。
何かが解き放たれるかのように。
──あの時。
車の中でドリンクを飲んだときの焼けるような熱さが、一気に数倍になって噴き出す。
呼吸のたびに、胸の中で鎖がこすれ合うみたいな音がした。
視界の端で、何かが立ち上がる。
床に落ちていた影が、厚みを持って起き上がる。
黒い塊とは別の、もっと無骨な形。
壊れた鎧や、スクラップみたいな鉄の板を無理やり繋ぎ合わせた人型。
天井につくほどではないけれど、大人の男が三人分くらい縦に並んだ背丈がある。
肩から腰にかけて、重そうな鎖が何重にも巻きついている。
顔はフードと仮面で隠されていて、その奥で赤い光がちらりと瞬いた。
──あれ。
昨日、交差点のど真ん中に立ち上がった影。 と、どこか似ている。
「や、やめ……」
止めようとした言葉は、喉の奥で千切れた。
鎖の巨人は、僕の意思なんて関係ないみたいに前へ出た。
巻きついていた鎖が、きしみながらほどけていく。
長い脚で床を蹴ると、意外なくらい軽い音がした。
一歩踏み出すたびに床が低くうなるのに、その動き自体は速い。
ダークメンシェの方も、それに気づいたのか、うねり方を変えた。
黒い腕のいくつかが巨人の方へ向かって伸びる。
巨人は、その腕を正面から受け止めずに、ぎりぎりのところで身をひねってかわした。
鎖が尾のように後ろへしなり、残像みたいに遅れて空気を切る。
すれ違いざまに、鉄板だらけの拳が横から叩き込まれた。
黒い表面がめくれ上がって、中からさらに濃いもやが噴き出す。
殴られた部分がへこみ、家具ごと奥の壁に叩きつけられて、壁紙と下地がまとめて剥がれ落ちた。
ぶつかった瞬間、世界がひとつ、音を立てて割れた。
耳の中で、何かが破裂する。
音が全部、一度に消えた。
次の瞬間、遅れて戻ってくる。
きしむ鎖の音。
砕ける何かの音。
誰かの叫び声。
「やめて!勇気くん!下がりなさい!」
奈津紀さんの声が、どこかでそう叫んでいる。
でも、遠い。
テレビのボリュームを一段階だけ下げたみたいに、現実感が薄い。
巨人の腕が、ダークメンシェをつかむ。
ごつごつした指が、もやと家具と影をごちゃ混ぜにして、握りつぶす。
握るたびに、仮面にひびが入る音がした。
そのひびの隙間から、赤い光がじわりと滲み出す。
怒りとも、悲しみともつかない何かが、熱として伝わってくる。
「守らなきゃ」
自分の声なのかどうかも分からない声が、頭の中で繰り返された。
「守らなきゃ」「壊される前に」「また、誰かが」
殴る。
掴む。
叩きつける。
巨人の腕が振り下ろされるたびに、黒い破片が四方八方に飛び散る。
崩れかけていた本棚ごとダークメンシェを壁に押しつけて、そのまま横に滑らせる。
壁紙がべりべりとはがれ、床板が割れ、天井の照明が粉々になる。
痛いのは、僕の方だった。
殴るたびに、腕や肩や背中に、誰かにぶつけられたみたいな鈍い痛みが走る。
胸の奥では、さっきから何かが悲鳴を上げている。
「やめろ……やめろって、言ってるだろ!」
誰に向かって叫んでいるのか分からない。
ダークメンシェにか。
それとも、暴れ続けているこの巨人にか。
声は空気の中でちぎれて、意味をなくしていく。
世界は、殴る対象と、自分の鼓動だけになった。
他のものは、全部、薄い膜の向こう側に追いやられていく。
どれくらい殴ったのか分からない。
時間の感覚が、途中から抜け落ちていた。
「……っは、は……」
自分の呼吸の音だけが、やけに大きく聞こえる。
肺がうまく動いていないみたいに、空気が入ってこない。
次の瞬間、さっきまで背後に現れた巨人が、姿を消した。
そこで、急に力が抜けた。
足から力が抜けて、床が近づいてくる。
誰かの手が肩をつかもうとした気配がしたけれど、その前に視界の端が暗くなった。
視界がぼやけていく。
でも、その前に、手を見た。
自分の手。
血に濡れた手。
その手の先に、何かが倒れていた。
黒いもやが消えかかって、その下から見えてきたのは──
居たのは、
怪物ではなく血を流した人間だった。




