第8話 初めて見る祈戦士の戦闘
エレベーターのドアが開いた瞬間、空気の重さが一段階変わった気がした。
湿気でも、気温でもない。何か見えないものが、喉の奥にまとわりついてくる。
「ここから先は、人の家に入るみたいに、十分気をつけること」
奈津紀さんが、何でもない雑談みたいな声で言う。
でも、その目つきは笑っていなかった。
廊下は、ぱっと見は普通のマンションと変わらない造りだった。
白い壁紙。ところどころに貼られた防火ポスター。
でも近づいてみると、壁の一部が拳で殴られたみたいにへこんでいて、そこから先のクロスには茶色く乾いたしみがまだらについていた。
足元にも、何かを引きずったような擦り傷がいくつも走っている。
──本当なら、誰かが洗濯物を干していたり、玄関マットを出していたりする時間帯だ。
そう思った瞬間、逆に足音がやけに大きく響いた。
他の住人の気配は、どこにもなかった。
「勇気くん、いい?」
奈津紀さんが、歩きながら振り返る。
蛍光灯の白い光が、髪の先で細く反射した。
「これから見るものは普通じゃない。でも、絶対に許可なしに動いたり、逃げたりしないこと」
「……はい」
返事をしながら、自分の声が少し上ずっているのが分かった。
けれど、「はい」以外の言葉が出てこない。
頭のどこかで、「だったら連れてこないでほしい」と冷めた自分が呟く。
本当なら、エレベーターに乗る前にでも逃げ出せたはずだ。
でも、少なくともここまで来たからには「見てみたい」と思っている自分もいる。
そのどっちが本音なのか、自分でもよく分からないまま、足だけが前に進んでいた。
廊下の突き当たり近くの部屋の前で、奈津紀さんが立ち止まった。
ドアの表札には、消えかけた苗字のプレートがねじれてぶら下がっている。
それを見た瞬間、胸の真ん中が、さっきより強く痛む。
「ここ」
ノックはしない。
奈津紀さんは、カードキーをかざすみたいな仕草をしてから、そっとドアノブに手をかけた。
扉が、音もなく開く。
中から、冷たい風みたいなものが吹き出してきた。
エアコンの風とは違う。
温度はほとんど変わっていないはずなのに、皮膚の内側だけがぞわりと粟立つ。
「……っ」
一歩、足を踏み入れた瞬間、世界が少しだけ傾いた気がした。
床の感触はちゃんとあるのに、重力の向きが分からなくなる。
部屋の中は、一目で「やばい」と分かる光景だった。
テレビ台ごと倒れたテレビ。
ひしゃげたテーブル。
ソファは壁に半分めり込み、クッションだけが天井の近くでふわふわと浮かんでいる。
浮かぶ、という言葉が自然に浮かんでしまうくらい、当たり前みたいに宙に漂っていた。
紙きれや雑誌や、レシートみたいなものも、空中で止まっている。
時間だけが、部屋の中で別の速度で進んでいるみたいだった。
足元には、割れたマグカップの破片や、散らばったリモコンの電池が転がっている。
壁には、何かのフレームの跡だけが四角く残っていて、その真下に、割れたガラスと紙の切れ端が落ちていた。
横の壁には、指で擦ったみたいな血の跡が薄く伸びている。
「……」
ここに、ついさっきまで誰かが暮らしていた。
ニュースで見る「爆発事故の現場」と同じ、でも違う。
テレビ越しじゃ絶対に伝わってこない、生活の匂いみたいなものが、まだ残っている。
それよりも、
目を向けざるをえないものは、別にあった。
部屋の奥。
窓の近く。
ひしゃげたテーブルや、ねじれたソファや、空中の紙くずが、ひとところに吸い寄せられている。
その中心に、黒い塊があった。
もやの層が何重にも重なって、ところどころから家具の脚やテーブルの天板が突き出している。
歪んだ人影みたいなものがその中に何体も押し込められていて、腕のようなものや、顔らしき輪郭が、溶けかけたロウみたいにずるずると流れていた。
目のような穴がいくつも開いたかと思えば、すぐに別の場所で口みたいな裂け目が生まれる。
そのたびに、塊の表面がゆっくりと脈打って、内側から何かが押し上げられているのが分かった。
そこから、声がした。
「…なんでだよ」
最初は、気のせいかと思った。
風の音か、エアコンの音か、そういう何かだと自分に言い聞かせる。
「なんで俺だけ、こんな目に……!!」
聞き間違えようのない、日本語だった。
テレビのスピーカーからじゃなくて、目の前の黒い塊の、どこか奥の方から聞こえてくる。
得体の知れない怪物のような存在が、人間みたいな言葉をしゃべっている。
その事実が、目の前の光景よりも強い違和感を与える。
「もうどうだっていい。全部、壊れてしまえばいいんだよ……!」
裂け目みたいなものが、黒い塊の表面にいくつも走る。
それが、口なのか、傷なのか、最初は分からなかった。
開いたり閉じたりするたびに、周りの家具や壁紙が一緒に引きずられて、形を変える。
これが怪物。
「……関野さん」
自分でも驚くくらい小さな声で、彼女の名前を呼んでいた。
彼女は、もう一歩前に出ていた。
昨日、音楽室で見たときと同じ背中。
でも今は、その背中の周りの空気だけが、別の温度を持っているみたいだ。
「ここから先は、美桜ちゃんに任せておくこと。勇気くんは、後ろで見ていて」
奈津紀さんがささやく。
声は落ち着いているけれど、手に持ったタブレットの端を握る指先には、うっすらと力がこもっていた。
彼女は、ゆっくりと両手を胸の前で組んだ。
祈る人の、定番みたいなポーズ。
でも、その姿勢はどこか慣れていて、雑音みたいな恐怖を押しのけるための形にも見えた。
「……」
彼女が、短く息を吸う。
その瞬間、部屋の照明の光が、ひときわ強く瞬いた気がした。
次の瞬間には、別の光が生まれていた。
細い糸のような光が、彼女の背中のあたりからいくつも伸びていく。
最初は一本ずつだったのが、すぐに何十本にも分かれて、空中で複雑な模様を描き始める。
光の糸は、どこかで見た楽器の弦みたいだった。
張られた先には、透き通った羽根のようなものが重なっている。
折り重なった羽根の間から、白くて細い腕と、弦楽器のシルエットが覗いた。
天使、みたいな。
でも、教科書に載っている絵より戦うための道具みたいでもある。
光の羽根のあいだから、小さな弦楽器の音が鳴った。
誰も弾いていないのに、弦がふるえている。
高くて、澄んでいて、それでいて少しだけ痛い音。
「……来て。《ストリング・セラフィム》」
彼女が、誰にともなく、でも確かにそう呼びかけた。
その瞬間、光の輪郭が一段階はっきりして、弦と翼を持った影の姿が、部屋の中に定着する。
ダークメンシェが、低くうめいた。
黒い塊の表面から、腕とも足ともつかないものがいくつも伸びてきて、関野さんの方へとじわじわ近づいてくる。
「……下がってて」
彼女の声は、小さいのに、はっきり聞こえた。
さっきよりも少しだけ低い、覚悟を決めた冷めた声。
彼女の後にいる天使から、光の糸が弾ける。
弦を弾いたみたいな音と一緒に、何本もの光がまっすぐダークメンシェへ飛んでいった。
一本が、ダークメンシェの伸びてきた黒い腕を真横から貫く。
「うぉぉぉぇ!!」
貫かれたダークメンシェが声を上げる。
刺さった部分が白く焼けて、もやが肉片みたいにちぎれて床に叩きつけられた。
ちぎれた先端は、しばらくのたうってから、また本体に吸い寄せられていく。
別の糸は、空中で鋭く折れ曲がってから、天井と床に突き刺さった。
光の杭みたいなそれが、黒い塊の動きを前後から押さえ込む。
押し寄せてきた黒い腕の何本かは、その光の枠にぶつかった瞬間、じゅっと音を立てて縮んだ。
《ストリング・セラフィム》の小さな指が、目に見える弦をはっきりとかき鳴らす。
一本弾くたびに、光の線がぴんと張りつめて、黒い腕や足を絡め取り、壁や床に縫いとめていった。
その怪物、ダークメンシェも黙ってはいなかった。
塊の側面から別の腕が生え、光の線をまとめて叩き落とそうとする。
そのたびに天井の石膏ボードがはがれ落ち、配線ごと床に降ってきた。
「チッ……動きが早い」
関野さんが、舌打ち混じりに小さく言う。
彼女の背後で、ストリング・セラフィムが羽根を大きく広げた。
次の瞬間、関野さんの体がふわりと浮いた。
足が床から離れて、光の糸を足場みたいにしながら、黒い塊の横の壁際まで一気に駆け上がる。
壁の大きな窓ガラスに、先に光の矢が突き刺さった。
鈍い音とともにひびが走り、続けて彼女が飛び込むように踏み込むと、ガラスが外側へ弾け飛ぶ。
夜の空気が一気に流れ込んできて、カーテンが大きくはためいた。
冷たい風が頬を打つ。
下の道路のライトやパトカーの赤青が、ずっと小さく瞬いている。
関野さんは割れた窓枠の外側、ビルの外壁ぎりぎりの空中に、光の糸で作った足場を渡すように踏んで立っていた。
その真下は、数階分の空白だ。
外から室内のダークメンシェを見下ろす形になり、光の矢が斜め上から降り注いだ。
黒い塊の肩のあたり──何となく「肩」としか言えないふくらみの部分に何本も突き立ち、そのたびにもやが爆ぜて、内側から黒い染みが室内の壁一面に飛び散る。
「調子に乗るなぁあああああっ!」
さっきよりもはっきりした叫び声と一緒に、塊の上部がぶるっと震えた。
そこから、太い腕が一本、勢いよく窓の方へ突き出る。
それが関野さんめがけて振り上がった。
「……っく」
彼女はすれすれでかわした。けれど、かすめた風だけで、割れ残っていた窓枠が木っ端みじんに砕けた。
ガラス片とコンクリート片が雨みたいに外と中へ同時に降り注ぎ、室内の天井の角がごっそり崩れ落ちる。
「下手に受け止めたら、一発で潰されるわよ……」
関野さんは、息を詰めながら光の糸を足場にビルの外壁沿いをすべるように移動する。
ストリング・セラフィムの羽根が、彼女の体を包むように広がって、追いかけてきた黒い腕の追撃をかろうじて弾いた。
それでも、押し返しきれているわけじゃない。
黒い塊は、縫いとめられた腕をちぎっては新しい腕を生やし、室内の壁や天井を殴りながら暴れ続けていた。
壁に開いた穴からは、隣の部屋の蛍光灯がちらちらと見え隠れする。
「なんだこれ……」
思わず、僕はそう呟いた。
目の前で起きている激しい戦闘、そして非現実的な現象。
理解が追いつくはずがなかった。
ただ、恐怖や考えることを忘れ、僕は目の前で起きる戦闘から目を離せなかった。頭は目の前で起きている戦闘、それだけを視覚情報として処理し続けた。
ダークメンシェが、吠えた。
部屋の空気が、揺れる。
壁紙が波のようにうねり、床板がきしんだ。
さっき上へ向かっていた腕の一本が、今度は横薙ぎに振るわれる。
光の糸ごと、関野さんをまとめてはじき飛ばそうとする軌道だと、見た瞬間に分かった。
「……っ!」
ストリング・セラフィムの羽根が、咄嗟に彼女の前に回り込む。
それでも衝撃までは殺しきれず、関野さんの体は光ごとこちら側へ吹き飛ばされてきた。
部屋の壁に彼女は勢いよくぶつかり、うめき声をあげる。
「う……」
その隙に、ダークメンシェは倒れている彼女の方へ突進する。
勢いよく、倒れている彼女の方へ。
『危ない!!!!!』
気づいたら、叫んでいた。
次の瞬間、胸の真ん中で、何かがはじけた。
何かが解き放たれるかのように。




