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第7話 マンションに住み着くダークメンシェ(怪物)


ブレーキの感覚で、体が少しだけ前に揺れた。

車が止まると、エンジン音とタイヤの振動がすっと薄くなる。


窓の外には、見覚えのないマンションが立っていた。

十階建てくらいの、どこにでもありそうな白い外壁。

その手前には、黄色と黒の立ち入り禁止テープが何重にも張られている。


赤と青の点滅が、遠くでゆっくり回っていた。

パトカーと救急車が、少し離れた交差点のあたりにまとまって停まっている。

サイレンは鳴っていないのに、その無音さが余計に落ち着かない。


「着いたわよ」


奈津紀さんが、そう言ってエンジンを切った。

車内に、静けさと自分の鼓動の音だけが残る。


外に出ると、夜の空気が一気に押し寄せてきた。

昼間の熱はもうほとんど残っていなくて、ひんやりとした風が頬の絆創膏を撫でていく。


マンションの前には、スーツ姿の人たちや制服警官が何人か立っていた。

GSOの腕章をつけた人が、警察と小声でやり取りをしている。

その横で、ヘルメットをかぶった消防の人たちが、ホースや機材を片付けていた。


「表向きは、ガス漏れ事故ってことになってる」


奈津紀さんが、何気ない口調で言う。

そのわりに、マンションの周りはやけに静かだった。

避難した住人らしき人影も、取材のカメラも見えない。


「……ここに、昨日みたいな怪物がいるんですか」


自分でも、「怪物」という単語を口にした瞬間、喉の奥が少し乾いた。


「うん。一体だけだけどね」


奈津紀さんは、バッグからタブレット端末を取り出して、画面を指でなぞる。

そこには、マンションの簡単な見取り図と、いくつかの数値が表示されていた。



「すでに何人も襲われているようね。搬送履歴にはそうあるわ」


その数字の一つひとつに、顔も名前も知らない誰かの姿が、勝手にくっついていく。

廊下で倒れている人。階段の踊り場に座り込んで動けなくなっている人。

さっきまで普通にテレビを見ていたはずの部屋の床に、血の跡みたいなものが残っている光景。

そんな映像ばかりが頭の中で増えていって、恐怖が募っていく。


見上げると、上階のいくつかの窓が真っ暗になっているのが分かる。

それ以外の部屋は、カーテン越しに薄い明かりが漏れているところもあった。


「結界って、その……さっき車の中で言ってた、あれですか」


「そう。外に漏れないように、ここから上を別の箱みたいにしてる」


別の箱。

そう言われてみると、マンションの上の方だけ、空気の密度が違うようにも見える。

夜空との境目が、少しだけぼやけている気がした。


「さっき誰かが言ってましたけど……結局、何なんですか」


自分で口にしてから、あの大通りで聞いた声を思い出す。

あのときはただの専門用語くらいにしか聞こえなかった単語が、今は目の前の建物と結びついていた。


「簡単に言うと、外の人たちが巻き込まれないようにするための、見えないシールドみたいなものね」


奈津紀さんが、マンションの上の方を顎で示す。

目を凝らすと、暗い空との境目に、薄い膜みたいなものがほんの一瞬だけきらっと光った気がした。


「一般の人たちは?」


自分でも意外な質問が口をついて出た。

さっきまでそこにいたはずの住人たちのことが、急に気になった。


「避難済み。少なくとも、ここから先には入ってこない」


奈津紀さんは、マンションの入り口に張られたテープを顎でさす。

その向こう側には、GSOのバッジをつけた人が立っていて、僕たちを一瞬見てから会釈した。


「…みっともないわね」


隣で、関野美桜がぽつりと呟いた。

その声は小さいのに、やけに刺さる。


それが、このマンションのどこかにいる怪物に向けられた言葉なのか。

それとも、昨日まで何も知らなかったくせに、こうしてついてきている僕みたいな部外者に向けられたものなのか、分からなかった。


ニュースでしか見たことのなかったガス事故現場みたいな光景が、急に目の前にある。

スクリーン越しのどこか遠い場所だと思っていたもののすぐ横に、自分が立っている。

そう考えた瞬間、背筋がぞわっとした。


「勇気くん」


名前を呼ばれて、はっとする。


「ここから先は、昨日よりも“近く”で見ることになる。無理だと思ったら、すぐ言いなさい」


「……はい」


そう答えながら、本当に“無理だ”と言えるタイミングがあるのか分からなかった。


「とりあえず、勇気くんは、美桜ちゃんの後にいること」


「で、でも、僕……」


何か言い訳を探そうとして、うまい言葉が見つからない。

昨日の交差点で、結局何もできなかった自分の姿だけが、頭の中でぐるぐる回る。


「ただの見学と、ちょっとしたお手伝いってさっき言ったでしょ」


奈津紀さんが、軽く笑う。

そのちょっとしたが、どこまでを指しているのかは教えてくれないまま。


マンションのエントランスに近づくと、空気の温度が少し変わった。

夏の夜にコンビニの自動ドアから冷気が漏れてくる感じに、どこか似ている。

でも、ここから流れてきているのは冷たさじゃなくて、重さだった。


「ここから上が、結界の境目」


奈津紀さんが、エントランスの少し手前で足を止めた。

何もない空間に手を伸ばして、指先でそっと撫でるような仕草をする。


その瞬間、見えない水面みたいなものが、ほんの一瞬だけ波打った気がした。

空気の中に、細かいひび割れの筋のようなものが走って、すぐに消える。


「……見える?」


「い、いま、なんか……」


はっきりした形は分からない。

でも、そこだけ空気が厚くなっている感じがした。


「勇気くんには、まだ“もや”くらいにしか見えないはず。十分だよ」


奈津紀さんは、そう言って一歩下がった。


「さあ、美桜ちゃん。出番よ」


「分かってる」


美桜ちゃんは、短くそう返して、エントランスの前に立った。

その背中を見ているだけで、昨日音楽室で見たときとは違う何かが、空気の中に満ちていくのが分かる。


──この先に、昨日みたいな怪物がいる。


そう思っただけで、足の裏から血の気が引いていくような感覚がした。

胸の真ん中の硬い違和感が、ゆっくりと熱を帯び始める。



そう思っただけで、足の裏から血の気が引いていくような感覚がした。

胸の真ん中の硬い違和感が、ゆっくりと熱を帯び始める。


逃げたい。

今すぐここから引き返して、明日の時間割の心配だけしていればいい普通の高校生に戻りたい。

でも、逃げたところで何が変わるんだろう、と別の声が言う。

昨日見たものを何もなかったことにして、また教室で「転んだだけ」って笑っている自分に、戻るだけなんじゃないか。


頭のどこかで、「どうせ僕なんか、いてもいなくても変わらない」と冷めた自分が囁く。

それでも、もう一人の自分が、「せめて、見るくらいは」と小さな声で返していた。



「あの……祈戦士って、結局どうやって戦うんですか」


気づけば、その疑問がそのまま口からこぼれていた。

銃を使うんだろうか。それとも、もっとすごい重装備みたいなものがあるのか。

でも、目の前の二人のどこにも、そんなものは見当たらない。

昨日、あの大通りで見た光の糸と、鎖の巨人の影だけが、頭の中でぐるぐる回っていた。

昨日も今日も、ただ“すごい”とか危ないとかいう断片だけを聞かされてきて、肝心なところが分かっていない。


「そうね」


奈津紀さんは、エントランスの奥を一度だけ見やってから、こちらを振り返る。


「すぐそこで、嫌でも分かるわよ」


その言い方が、余計に喉を渇かせた。


僕は、ぎゅっと指先に力を入れて、彼女の少し後ろに立った。


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