第6話 初任務へ
車が走り出すと、外の世界がゆっくりと後ろに流れていった。
校門。通い慣れたコンビニの看板。見慣れた交差点。
全部、窓ガラス一枚越しの、少し他人事みたいな景色に変わっていく。
シートベルトが、胸のあたりをゆるく押さえていた。
そこから少し下の、胸の真ん中あたりには、相変わらず硬い何かが埋まっているみたいな違和感が残っている。
「緊張してる?」
運転席の奈津紀さんが、バックミラー越しにこちらを見た。
信号の赤と、外の夕焼けが混ざって、車内の色が少しオレンジに染まる。
「……まあ、その、ちょっと」
嘘ではない。
でも、「ちょっと」で済むほど軽くもない。
助手席の関野さん──彼女は、窓の外を見たまま何も言わない。
頬杖をついて、じっと遠くを見ている横顔は、学校で見るときとほとんど同じなのに、何かが違って見えた。
「さっきは、あんまりちゃんと話せなかったからね」
奈津紀さんの声が、エンジン音に紛れないように、少しだけ大きくなる。
「勇気くん。昨日、街で見たあれ、覚えてる?」
「……忘れられるわけ、ないですよ」
車が宙を舞って、ビルがねじれて、黒い怪物が街を踏みつぶしていた光景。
思い出すだけで、胸の奥がじん、と焼ける。
「昨日、街で暴れてたああいうのを、私たちはダークメンシェって呼んでる」
ダークメンシェ。
昨日、花江さんの口から聞いた名前。
改めて口に出されると、昨日の光景が頭の中で生々しく蘇るだけで、結局「何者か」は分からないままだった。
そこを突っ込んで聞く勇気も、今はなかった。
「……怪物、ですよね」
「そう。ニュースでは原因不明の現象とか“事故”とか、いろいろごまかしてるけどね」
奈津紀さんは、あっさりと言う。
「で、そのダークメンシェと戦って押さえ込むのが祈戦士。美桜ちゃんも、その一人」
助手席の彼女は、少しだけ肩をすくめた。
「別に、そんな大層なもんじゃない」
「大層だよ。普通の人は、あんなの見ただけで逃げ出すからね」
普通の人。
言われてみれば、僕は昨日、逃げることさえできなかった。
「さっきも言いましたけど、その……僕、祈戦士とか、よく知らないし。なるつもりもないです」
「うん。分かっている。そういう顔している」
奈津紀さんは、バックミラー越しに小さく笑った。
「さっきも言ったけど、今日いきなり『祈戦士になりなさい』なんて誰も言わないわよ」
「……じゃあ、なんで僕なんですか」
また聞いてしまった。
さっき校門の前でも聞いて、ちゃんと答えを教えてもらえなかったのに。
「理由はいくつかあるけどね」
奈津紀さんは、言葉を選ぶみたいに少しだけ間を空ける。
「昨日、あのど真ん中に立ってたこと。マザー級かその親戚かもしれないダークメンシェの、すぐそばにいて、生きて帰ってきたこと。胸の検査結果。……それと、千穂さんの息子であること」
「胸の検査結果って……何か、おかしかったんですか」
聞き返さずにはいられなかった。
昨日も何か機械に繋がれていた気はするけれど、具体的に何を調べられたのかは聞いていない。
「異常がないか確認しただけ。詳しい数値の話をしても、面白くないでしょ?」
奈津紀さんは、そう言ってそれ以上続けようとはしなかった。
余計に気になったけれど、ここでしつこく食い下がる勇気もなかった。
ひとつひとつが、胸の奥に重りみたいに積み上がっていく。
「でも、それを全部だから祈戦士になれって話にくっつけるつもりはないわ」
少しだけ、息が抜ける。
「今日のところは、現場を見てもらうのが目的。見て、聞いて、それでも無理ですって言うなら、それはそれで一つの答えだと思ってる」
「……見学、ってことですか」
「そう。見学。どういうものか知らないのに判断できないでしょ?あと、ちょっとしたお手伝い」
ちょっとした。
その曖昧さが、一番怖い。
「で、その前に」
奈津紀さんは、運転席と助手席のあいだにある小さなクーラーボックスを片手で開けた。
中から細いペットボトルを二本取り出し、そのうち一本を後部座席の僕に放る。
「これ。現場に入る前は、みんな一応飲む決まりなの。感覚を少しだけ開くお薬」
「お薬……ですか」
キャップに指をかけて、ねじりながら訊ねる。
中身は透明だけど、光の当たり方でほんの少しだけ灰色がかった膜のようなものが見えた気がした。
「ビタミン剤みたいなものよ。味は保証しないけどね」
軽く言うその口調の裏で、奈津紀さんの視線だけは、僕の手元をじっと追っている。
助手席の方を見ると、関野美桜は、なぜかほんの少しだけ眉を寄せていた。
「飲まなくていい」とも「やめときな」とも言わない。ただ、窓の外と僕の方を、行ったり来たり見るだけ。
ここで断ったら、逃げたことになる。
頭のどこかで、そういう言葉が勝手に浮かぶ。
「粉薬じゃないんですか?」
自分でも、変な質問だと思った。
奈津紀さんは、少しだけ肩をすくめる。
「薬を溶かしてある水だから同じよ。大丈夫、致死量なんて入れてないから」
致死量、という単語が、変に生々しく耳に残った。
キャップを開けると、鼻先に微かな苦い匂いが立ち上がる。
薬草みたいな、金属みたいな、どちらともつかない匂い。
「……いただきます」
誰に言っているのか分からない挨拶を口にして、ペットボトルを口に運ぶ。
冷たい液体が舌の上を転がって、すぐに強い苦味に変わった。
「っ……」
喉を通る瞬間、内側から焼かれるみたいな熱さが走る。
一瞬だけ咳き込みそうになって、それを必死に飲み込んだ。
「どう? まずかったでしょ」
バックミラーの向こうで、奈津紀さんが苦笑する。
「……平気、です」
そう答えながら、自分でも嘘だなと思った。
平気どころか、胸の真ん中が、さっきまでよりはっきりと痛み始めている。
あの日、黒い破片が胸に突き刺さった瞬間の感覚が、フラッシュバックみたいによみがえった。
運転席の横顔。助手席の後ろ姿。
そのどちらとも違う場所から、何かがゆっくりと目を覚ましつつあるような気がする。
窓の外の街灯の光が、さっきまでよりも濃く見えた。
光のまわりに、黒いもやのようなものがうっすらとまとわりついている。
「……なんだ、これ」
思わず、小さく呟いていた。
目をこすっても、光の輪郭のぎざぎざした感じは消えない。
胸の奥のどこかで、丸くうずくまっていた何かが、さっきより大きく身じろぎした気がした。
誰かの歌う子守歌の、途切れ途切れのフレーズが、風に乗って聞こえてくる。
「顔色、悪くなってない?」
奈津紀さんが、バックミラー越しにもう一度こちらを覗き込む。
その声色は軽いのに、目は冗談じゃない真剣さで僕の反応を測っていた。
「……大丈夫、だと、思います」
本当は、大丈夫じゃないかもしれない。
でも、「大丈夫じゃない」と言ったところで、どこにも戻る場所はない気がした。
助手席の彼女が、ほんの少しだけこちらに視線を向ける。
その目の奥に、「やめときなよ」と「もう遅い」の両方が入り混じっているように見えたのは、気のせいかもしれない。
車は、市街地を抜けて、少しずつビルの数が減っていく方へと進んでいく。
日が落ちきる前の、青とも灰色ともつかない空の色が、フロントガラスの向こうに広がっていた。




