第4話 運命の歯車
もし、昨日見たものをそのまま口にしたら、僕はどうなるんだろう。
くだらない想像だと分かっているのに、教室のドアノブに触れた指先が、ほんの少しだけ固くなる。
朝の教室は、いつもより少しだけ騒がしかった。
窓際の列では、何人かが腕時計型の端末を見せ合いながら、画面に映るニュース映像を食い入るように覗き込んでいる。
「なあ聞いた? 昨日さ、この辺で車が何台も吹っ飛んだってニュース」
「また“怪物”だってよ。動画サイトにも変なの上がってたし」
「テロだって言ってるけどさ、絶対なんか隠してるよな、国」
断片的な声が、ドアの向こうから漏れ聞こえてくる。
僕は一度、深呼吸をしてから教室に入った。
途端に、いくつもの視線がこちらを向く。
そのいくつかが、僕の顔じゃなくて、頬の絆創膏や腕の包帯に吸い寄せられているのが分かった。
視線を逃がすみたいに教室の奥に目をやると、窓際の列に、関野美桜の姿があった。
彼女は、何食わぬ顔で自分の席に座って、腕時計の画面をぼんやりと眺めている。
──いつも通り、誰とも馴れ合うことなく、群れることなく、退屈そうにしていた。
昨日の音楽室も、交差点のあの光景も、全部無かったみたいな横顔。
声をかけるべきか、一瞬だけ迷う。
「助けてくれたんですよね」とか、「昨日のあれって」とか、喉の奥までせり上がってきた言葉を、慌てて飲み込んだ。
昨日のことがばれてはいけないし、何より、どんな顔をして話しかければいいのか分からなかった。
「うわ、東郷。どうしたそれ」
一番最初に声を上げたのは、前の列の男たちだった。
正直、全員のフルネームまでを言えるほど親しくはない。
「……ちょっと、転んだけ」
反射的にそう答えてからその言葉の薄さに気づく。
ちょっとで済むような見た目じゃないことくらい、分かっている。
「転んだって、お前。顔から行ったのかよ」
「ニュース見た? ここら辺って言ってたじゃん。昨日」
「お前さ、あの辺通ってたって言ってなかったっけ。腕時計の位置情報、タイムラインに残ってんだろ」
からかい半分、興味本位半分の声が、机の周りに集まってくる。
僕は鞄を自分の席の横に置きながら、出来るだけ何でもないふりをして椅子に座った。
頭のどこかで、「さっきから同じこと聞かれてるだけだな」と冷めた自分が呟く。でも、その冷めた自分も、本当の答えを口にすることはできない。
「ニュースは、見たけど。特に知らないよ」
昨日の夜、祈戦士たちの本拠地で目を覚ましたときの記憶が、胸の痛みと一緒によみがえる。
──ただ一つだけ。
「今日見たことは、他の人には言わないでね」
奈津紀さんの声が、耳の奥で繰り返される。
あのときはただ「はい」としか言えなかったけれど、その約束が、今になって急に重くのしかかってくる。
頭のどこかで、「約束を守るために嘘をつくって、何が正しいんだろう」とまた勝手に要らぬ思考を始める。
「マジでさ、動画サイトのコメント欄とかやばいんだって。ガス爆発の威力じゃねぇ。また怪物だとかさ」
「でも公式発表は原因不明の爆発。どうせまたガスのせいってことにされるんだろ」
クラスのあちこちから飛び交う言葉が、昨日の光景とひどく噛み合ってしまう。
「なぁ、本当に何も見てないの?」
すぐ近くで、さっきより少しだけ低い声がした。
振り向くと、同じ列の男子が机に肘をつきながら、じっとこちらを見ている。
「あの通り、昨日通ってただろ。腕時計の移動ログ、見りゃ分かるって。
ニュースの時間と、けっこうかぶってんじゃね?」
腕時計型の端末が、彼の手首の上で小さく光る。
スコアアプリだって、通知の履歴だって、全部そこに詰まっている。
世界がどこで何点燃えて、どこが沈んでいるか、指先ひとつで確認できる便利な道具。
けれど。
そこに、昨日のあの黒い怪物は映っていない。
「そのへん歩いてただけだから。知らない。これは転んだだけだよ」
口が勝手に動いた。
「なんだよ、それ。つまんね」
男子は肩をすくめて、すぐに自分の端末の画面へと視線を戻した。
興味を失ったみたいに、ニュースアプリのコメント欄を親指でスクロールしていく。
「ほら見ろ、映像はフェイクですだってさ。加工すれば何でも作れる時代だからなー」
「でもさ、ほんとに怪物いたらやばくね? 怪物に襲われてテスト落ちました〜なんて言い訳、絶対スコアセンター信じねーし」
「それな。スコア下がったら進学ルート終わり。怪物より内申の方がこえーわ」
笑い混じりの悲鳴みたいな会話に、周りの何人かが愛想笑いを返す。
笑えるうちは、まだ他人事だ。
ニュースの画面の中で、爆発の炎がスローモーションで揺れているのを、誰かが繰り返し再生している。
僕は、その画面を見ないように目を逸らした。
頭のどこかで、「怪物なんて、噂で笑ってるうちはいいよな」と冷めた自分が呟く。でも、実際に目の前で暴れられたら、笑えない。
その違いを、今、僕だけが知っている。知っているのに、口にできない。
僕は、自分の腕時計の画面を伏せたまま、机の上で指先を組んだ。
昨日、あの場所で見たもの。
車が宙を舞って、道路が折れ曲がって、怪物が街を踏み潰していく光景。
そのど真ん中で、祈戦士たちが立っていたこと。
思い出すだけで、胸の奥がじんと焼ける。
傷の痛みか、あのとき怪物から飛び散った破片が胸に刺さったせいなのか、自分でもよく分からない。
花江さんの声が、ふいに頭の中で蘇る。
「マザー」という言葉も浮かんでくる。ニュースのどこにも出てこない、その名前。
──それでも、僕はこっち側にいたい。
本当のことを言えば、自分も向こう側に引きずり込まれる嫌な予感だけが背筋を凍らせる。
「……」
僕は小さく首を振って、ノートを机の上に出した。
ホームルームの時間が近づいてきている。先生が教室に入ってくれば、きっとこの話題も自然と終わる。
「はい、席についてー。昨日のニュースのこと、あんまり騒ぎすぎないようにね。
学校としては、公式発表に従うってことで。もし何か聞かれてもあんまり無駄なことは口にしないように」
ホームルームの時間になり、担任が入ってきて、軽くそう言った。
誰かが「ガス爆発なんですよねー?」と冗談みたいに聞き返して、教室に小さな笑いが起こる。
「そういうこと。詳しいことは、大人の仕事だから。
君たちはまず、自分のスコアを心配しなさい」
腕時計の画面に、一斉に視線が落ちる気配がした。
今日の小テストのスケジュール。来週の模試。通知の一覧。
世界は、数字と予定でびっしり埋まっている。
僕もつられて、自分の端末の画面をタップする。
昨日の位置情報ログの横に、小さな赤いマークがひとつついていて、「一時的な心拍数の上昇を検知しました」とだけ書かれた通知が表示される。
そんな一文でどうにかなるなら、誰も苦労しない。
僕は通知もニュースアプリの数字もまとめて無視して、画面を消した。
クラスメイトたちの笑い声と、腕時計の小さな振動音。
怪物の残像と、祈戦士たちの背中。
そのあいだで、僕だけがぐらぐらと揺れている気がした。
「……転んだだけ、か」
自分でさっきついたばかりの嘘を、もう一度心の中で繰り返す。
それが誰を守るための嘘なのか、自分でもよく分からないまま。
先生の声が前の方から流れてくる。出席番号やら配布物やら、いつも通りの連絡事項。
僕は頬の絆創膏にそっと触れてから、視線を黒板へ向けた。
何も変わっていないふりをするのは、案外簡単だった。
昨日の出来事が、本当にあったのかどうかさえ、少しずつ分からなくなっていく。
***
気づけば、いつもの授業が、いつもの順番で進んでいた。
ページ番号を言う声。ノートを開く音。誰かが小さくあくびを噛み殺す気配。
ただの「いつもの午後」が、そのまま何事もなく終わっていくはずだった。
「昨日のことなんて、もうニュースの中の出来事に戻ったんだ」と、どこかで思おうとしていた。
頬の絆創膏さえ、だんだんちょっと転んだだけの証拠みたいに感じられてくる。
そうやって全部、日常の中に埋め戻してしまえばいい、と自分に言い聞かせる。
五時間目のチャイムが鳴って、担任が「じゃあ、このページ開いて」といつも通りに言いかけた、そのときだった。
教室のドアが、ノックもなく開いた。
「失礼しまーす」
別の先生かと思って振り向くと、廊下から顔を出したのは教頭先生だった。いつもより少し硬い表情で担任に何か耳打ちする。
担任が小さくうなずいてから、こちらを見た。
「東郷くんと……関野さん。ちょっと職員室まで来なさい」
一瞬、教室の空気が固まる。すぐに、ざわ、と小さな波が立った。
後ろの方から、「また喧嘩か?」「マジで?」みたいな声が、半分ひそひそ話みたいに飛んでくる。
その突然の呼び出しに関野美桜、彼女はすぐに椅子を引いた。
彼女は何も言わずに立ち上がり、机の中から最低限の荷物だけをゆっくりと鞄に詰めていく。
その動きに、迷いはほとんど見えなかった。
まるで、こうなることが分かっていたみたいに。
「えっと……僕、何か……」
思わず担任に尋ねかける。
自分の声が、教室のざわめきの中で少し浮いて聞こえた。
なぜ自分が呼び出されたのか?
心当たりを探す。
昨日の出来事の事情徴収、と連想をする。
それならありえるかもしれない。
ただ、もしそうならなぜ、朝ではなく、今になって呼び出されたのか。
「詳しいことは、迎えの人から説明があるそうだ」
迎えの人。
一瞬だけ、「そんな都合よく迎えに来る親なんて、僕にはいない」と言いかけて、やめた。
その言葉を口にした瞬間、また母親のこと、そして昨日の出来事が紐づいて思い出してしまう気がして、喉の奥で飲み込む。
「あの……本当に、僕で合ってますか?」
自分でも驚くくらい小さな声が、勝手に漏れた。
もし、昨日の聞き取りなら、他にもっと適任がいるはずだ。僕なんかより、ちゃんと逃げられた誰かとか。
担任は、それ以上は踏み込まない口調で言う。
「今日は二人とも早退扱いで大丈夫だから。荷物まとめて、職員室にいきなさい」
「いいなー、早退」「ズルい」みたいな声が、あちこちから上がる。
さっきまで昨日のニュースで盛り上がっていたクラスメイトたちが、今度は別の意味でこちらを見ていた。
それ以上、何を聞いても仕方がない、という空気があった。
諦めて、僕はノートと教科書を適当に鞄に突っ込んで、立ち上がった。
頬の絆創膏に一瞬だけ指を触れてから、教室のドアへ向かう。
廊下に出ると、さっきまでのざわざわした空気が一気に遠ざかっていった。
足音と、窓の外から入ってくる風の音だけが聞こえる。
少し前を、彼女の後ろ姿が歩いていた。
肩までの黒髪が、歩くたびほんの少し揺れる。
声をかけようか迷って、やめる。
そもそも何を聞けばいいのか、自分でも分からなかった。
職員室の前で立ち止まると、教頭先生がこちらを振り返った。
「ここから先のことは、外で待っている人たちに聞いてくれ、とのことだ」
「外……ですか」
自分で聞き返しておきながら、その言葉の意味をうまく飲み込めない。
昨日のことと関係があるのか、単に事故の聞き取りなのか、それとも全然別の用事なのか。
どれもありそうで、どれでもなさそうだった。
教頭先生は曖昧にうなずいて、「学校にはちゃんと話を通してあるから、心配しなくていい」とだけ付け足した。
心配しなくていい、という言葉ほど、心配になるものはない。
昇降口までの廊下を歩くあいだ、僕は何度か窓の外を見た。
校庭では、授業の準備をしている生徒たちがボールを運んでいる。
その向こう、校門の外の通りに、見慣れない黒い車が一台だけ停まっているのが見えた。
校章も、学校の送迎バスのロゴもついていない。
窓ガラスは濃い色で、車内の様子はほとんど見えなかった。
昨日のことを思い出させるには、それだけで十分だった。
同じものとは思えないのに、胸の奥に広がる嫌な予感だけは、あのときと同じだった。
「行くよ」
彼女が、小さくそう言って先に靴を履き替えた。
「関野さん、なんで僕らは呼び出されたの?知っているの?」
僕の問いかけを無視して、彼女はそのままスタスタと校庭へ歩いていく。
こちらを見ないまま、まっすぐ校門の方へ歩き出す。
嫌な予感がした。
あのマザーというダークメンシェに襲われた時のように。
祈戦士の何か、なのか。
もし、そうなのならば、もっとはっきりと断ればよかったのかもしれない。
本当は、「僕は関係ないですよね」とか、「家には誰もいないのに」とか、もっと何か抵抗する言葉を探したかった。
でも、ここで足を止めたところで、流れは変わらない気がした。
これ以上抵抗しても仕方ない──そう思った瞬間、諦めにも似た感覚が足に重りをつけて、それでも前へ押し出した。
結局、足は勝手に動き出していた。
彼女の少し後ろをついて、黒い車が待つ校門の方へと歩いていく。




