第22話 実践研修②
「行くぞ」
タクトが、前方を指した。
同時に、ガラスの向こうの黒い塊がぴくりと動いた。
まるで、呼びかけられたみたいに。
──動いた。
背中の僕の精霊、チェインブレイカーが、それに反応してわずかに前傾する。
鎖が、いつもよりも大きく鳴った。
関野さんが、一歩前に踏み出す。
天使の弦を強く弾いた瞬間、細い光の糸が何本もダークメンシェに向かって走った。
くるぶしや膝、胴のあたりに巻きついた糸が、そのまま床や空中の見えない杭に縫いとめるみたいにピンと張る。
黒い塊がもがいても、足だけがぎし、と引っ張られて、思った通りの方向に体がついていかない。
百合のリブラリウムからは、本棚の影がじわじわとにじみ出て、黒い塊の足元に小さな迷路を作った。
床から生えた黒い棚が、踏み出した足の前に次々と滑り込んで、ダークメンシェの進む向きを無理やり曲げていく。
ページがぱらぱらとめくられるたびに、棚に映った人影のコマがぐしゃぐしゃに歪み、そのたびにダークメンシェの輪郭がぐらりと揺れた。
神崎さんのマエストロ・トリックスターは、頭上の舞台セットを指揮するみたいにタクトを振っていた。
タクトの合図に合わせてライトの色が次々に切り替わり、そのたびに光の糸がきゅっと締まり、本棚の影が一段濃くなる。
まるで、舞台の明かりだけで相手の足と視界をまとめて縛っているみたいだった。
僕は、少し後ろの位置で、ただその光景を見ていた。
でも、「見ているだけ」の自分が、前よりは少しだけ違っている。
──防ぐんだよね、僕は。
自分に言い聞かせる。
チェインブレイカーの腕を、盾みたいに前に出すイメージを送る。
鎖に締め付けられた巨大な腕が、ゆっくりとガラスとのあいだに割り込んでいくところを想像する。
鎖がきしみ、巨人の腕がゆっくりと前に出た。
ガラスと僕らのあいだに、盾が一枚増える。
その瞬間、ガラスの内側のダークメンシェが、急に跳ねた。
「っ……!」
黒い塊が、鎖に引かれた犬みたいに、ガラスの正面に飛びかかる。
厚いガラスを、鈍い音とともに叩いた。
ガラスは割れない。
分かっていても、体がびくっと反応する。
ガラスの向こうで、一瞬だけ人間の顔のようなものが浮かんだ気がした。
目と口の形だけが、悪い夢みたいに歪んでいる。
──まただ。
胸の奥がザラザラと逆立つ。
前に見た「ぐちゃぐちゃになった人間の身体」の記憶が、一瞬で蘇る。
その感覚に合わせるように、《チェインブレイカー》が前へ出た。
さっきまで盾みたいに出していた腕が、殴りに行くための構えになる。
鎖が、さっきよりも大きな音で鳴った。
ガラスの向こうのダークメンシェに向かって、巨人の拳が振りかぶられかける。
「勇気くん!」
神崎さんの声が飛んだ。
「深呼吸!戻れって思ったら、ちゃんと戻ってくるから!」
深呼吸。
そんな余裕、どこにあるんだろう。
でも、あのとき何もできなかった自分の映像と、
さっき道場で「止まれ」と言ったときに戻ってきた感覚が、頭の中でぶつかる。
──止まれ。
心の中で、小さく言う。
声になっていない。
足が、無意識に前へ出ようとしていた。
手すりの一歩手前で、なんとか踏みとどまる。
──もう、いい。
今度は、ちゃんと声に出した。
「……もう、いい。戻ってくれ!」
喉が擦り切れそうな声だった。
それでも、自分でも驚くくらい、はっきりと言えた。
背中の鎖が、ぎし、と一度大きく鳴る。
そのあとで、ゆっくりと緩んだ。
振りかぶっていた《チェインブレイカー》の拳が、途中で止まる。
鎖に縛られた拳が、空中で固まる。
殴る一歩手前で、空中に凍りついたみたいに。
巨人の足が、半歩だけ後ろに下がる。
さっきまで前のめりだった重心が、僕の方へ戻ってくる。
ガラスの向こうのダークメンシェは、ガラスを叩いた反動でその場に崩れ落ちていた。
黒いもやが、床の上でだらりと伸びている。
「よし、そこまで」
田村さんの声が、制御室の方から響いた。
ガラスの内側の光の膜が、再び強く光る。
ダークメンシェの動きが、完全に止まった。
「リンクを薄くして、戻してくれ」
言われるまでもなく、もうそうしようとしていた。
胸の奥から背中に伸びている鎖を、ゆっくりとほどいていくイメージを浮かべる。
息を吐くたびに、鎖が細くなっていく。
《チェインブレイカー》の気配も、少しずつ遠のいていく。
さっきまで背中を押していた重さが、遠くへ運ばれていくみたいだった。
──戻ってくれ。
最後に、もう一度だけ願う。
命令とお願いの中間みたいな声で。
最後の一本の鎖が、ぱちんと弾けるように消えた気がした。
背中の重さがなくなる。
「……はぁ」
大きく息を吐いた瞬間、足が少しだけ震えた。
手すりを握っていなかったら、その場に座り込んでいたかもしれない。
「一体目は、ここまでだ」
田村さんが、こちらに歩いてきた。
さっきまでよりも、ほんの少しだけ柔らかい表情をしている。
「危なかったけどな。あそこで止められたのは大きい」
と、小さく付け足す。
「す、すみません……」
反射的に謝ってしまう。
でも、責めるような雰囲気はなかった。
「謝るより、今の感覚を覚えておいてくれ。
“出し過ぎた”ときに、自分で引き戻せたってことだ」
「……はい」
出し過ぎた。
確かに、あのまま殴っていたら、また何かを壊していたかもしれない。
「最初から完璧に制御できるやつなんて、ほとんどいない。 怖いのに、ここに立ってるだけでも、たいしたもんだ」
優ちゃんと、似たようなことを言う。
でも、こっちは現場側の人間の口から出ているから、少しだけ違う重さがある。
「あとは、場数とメンテナンスだな」
田村さんは、そう言って肩をすくめた。
メンテナンス、という言葉が、前に屋上で聞いた説明と繋がる。
──場数。
その言葉通り、そこからが本当の「実戦訓練」だった。
結界の中には、危険度の低い訓練用の個体が、一体倒れるたびに新しい黒い塊として運び込まれてきた。
二体目では、さっきと同じように光の糸と本棚の影で動きを縫いとめたあと、関野美桜の翼がほどけて銃の形に組み替わった。
白い羽根が一本ずつ細い銃身に変わり、そこから撃ち出された光の弾が、ガラス越しでも分かるくらい派手な火花を散らしてダークメンシェの殻にひびを走らせる。
百合の本から抜けたページが刃みたいになって飛び、ひび割れの隙間に突き刺さるたびに、黒いもやの塊がびくんと震えた。
神崎さんの《マエストロ・トリックスター》は、頭上の舞台セットから落ちてきたスポットライトの柱で殻の一部を押さえつけ、その一瞬の「間」に弾とページがまとめて叩き込まれるようにテンポを合わせていた。
三体目では、僕の番が少しだけ増えた。
関野美桜の光の糸、神崎さんのデバフ効果のライトでほとんど動けなくなったダークメンシェの殻に向かって、「外殻だけだ。中身はもう別の場所にいる」と念を押されたうえで、田村さんに「東郷くん、一発だけ、外から殴ってみろ」と言われる。
喉がからからになりながらも、《チェインブレイカー》の拳をゆっくりと引き、ガラスの向こう側の黒い塊に向かって思いきり振り下ろすイメージを送った。
──殴れ!
鎖がぎしりと鳴り、分厚い拳がダークメンシェにぶつかった瞬間、鈍い音がこちら側の床まで伝わってきて、黒い表面にクモの巣みたいなひびが一気に広がる。
そしてぐちゃぐちゃに外殻が壊れる。
もう一発いきたくなる衝動を、胸の奥で必死に押さえ込んで、「戻れ」と何度も心の中で繰り返す。
拳がそこで止まり、崩れた殻だけが、ガラスの内側にぱらぱらと落ちていった。
それから先は、一体一体を細かく覚えていられないくらい、同じような流れを何度も繰り返した。
僕は後ろから《チェインブレイカー》の腕を盾みたいに出したり引っ込めたりしながら、ときどき今みたいに「仕上げの一発」を任される。
ガラスの向こうで黒い塊が崩れ落ちるたびに、「よし」と田村さんの声がして、メーターの数字が少しずつ下がっていくのが見えた。
気づけば、さっきと同じようなダークメンシェの殻を、何体も倒していた。
「今日はここまで。
今日のところは、これで合格だ」
そう宣言すると、田村さんは制御室の方へ戻っていった。
「おつかれ」
神崎さんが、隣で軽く手を上げた。
「よく止められたじゃん。あそこで殴ってたら、ガラスの掃除がめんどくさかったからね」
冗談みたいな言い方だけど、その中にほんの少しだけ本気が混ざっているのが分かる。
「……すみません」
「だから、謝らなくていいって。 さっきも言ったけど、戻れって思ったら、ちゃんと戻ってきたでしょ?」
「……はい」
あの瞬間の感覚を思い出す。
前に出た足と、殴りかけた拳と、それを引き戻した鎖の手応え。
──戻った。
あのとき、確かにそう思った。
「それに、その後のあのパンチはすごかった。一瞬でダークメンシェが粉々になった。あれはすごい」
神崎さんが、饒舌に褒めてくれた。
「やっぱり奈津紀さんや、花江さんの言うとおり君はすごい。素質がある」
──素質。
初めて言われた言葉だった。
自分はこれまでの人生で何も取り柄のない、何も得ない人生だった。
そんな自分でも、もしかしたらそんなものを持ち合わせているのかもしれない、と少しそう思った。
「まぁ、もちろん力の調節はしないとね。あのままじゃ、中の本体まで潰れちゃうよ」
冗談みたいなトーンで神崎さんは、怖いことを言う。
「……べつに、あんたが暴走しても、私が止めるし」
後ろから、ぼそっと声がした。
振り向くと、関野さんが腕を組んで立っていた。
さっきまで前線で動いていたとは思えないくらい、平然とした顔をしている。
「えっ」
間抜けな声がまた出た。
「だから、勝手に全部自分のせいにして、勝手に落ち込んで、勝手に“むりです”とか言ってると……」
関野さんは、少しだけ眉をひそめた。
「こっちがめんどくさい」
「……すみません」
反射的に謝ると、彼女はふん、と鼻を鳴らした。
「謝るくらいなら、ちゃんと止めなさいよ。さっきみたいに」
それだけ言って、踵を返す。
でも、その背中は、前に見たときよりも少しだけ軽く見えた。
──ちゃんと止めなさいよ。
命令口調なのに、不思議と嫌な感じはしなかった。
むしろ、「期待」とか「前提」に近いものを感じて、戸惑う。
みんながそれぞれの方向へ歩き出すのを見ながら、僕はもう一度ガラスの内側を見た。
黒い塊は、さっきと同じ姿勢でうずくまっている。
もう、動かない。
──こいつも、どこかで誰かだった。
前にの内側に入ったときのことを思い出す。
あのときも、最初は「怪物」だと思っていた。
でも、中にいたのは、どこにでもいそうな一人の人だった。
ここにいるやつは、もう救出済みで、本体はどこか別の場所にいるらしい。
それでも、「殴るためだけに残された殻」みたいな存在なのだとしたら――
胸の奥のざわざわが、別の形に変わった気がした。
怖い。
でも、さっきちゃんと戻ってきた、そう僕も名づけた精霊、チェインブレイカーの鎖の巨人の重さも、同じ場所に残っている。
答えはまだ分からない。
でも、「何もできないまま」ではなく、「少しだけ何かをした自分」が、そこにいる。
その感覚だけを、握りしめるようにして、 僕は地下フロアをあとにした。




