第21話 実践研修①
休憩スペースに来ても、あまりゆっくりする時間はなかった。
紙コップのカモミールを飲み終わる前に、腕時計型端末が小さく震える。
画面には、簡単な文字だけが表示されていた。
《実戦訓練 集合:地下フロアB》
──実戦。
その二文字を見ただけで、さっき優さんからもらったお守りの存在を一瞬忘れそうになる。
胸ポケットの中で、ビーズがかすかに当たる音がした。
「……行かないと」
小さく呟いて立ち上がる。
ラウンジを出ると、廊下の空気が少しひんやりして感じられた。
地下フロアへの案内表示に従って歩いていくと、エレベーターが一基だけぽつんと待っていた。
銀色の扉。上には「B1〜B3」とだけ表示がある。
ボタンを押すと、すぐに扉が開いた。
中には、もう何人か乗っていた。
「あ、東郷くん」
神崎さんが声をかけてきた。
関野さんと百合が壁にもたれるようにして立っていた。
三人とも、さっき道場で見たときと同じ訓練用の服装だ。
「……どうも」
気の利いたことは何も言えなくて、結局それだけ出てきた。
頭のどこかで、「エレベーターで会話が弾むタイプの人間じゃないだろ」と冷めた自分が呟く。
扉が閉まると、ゆっくりと下に動き始めた。
床がほんの少しだけ沈む感覚。
「地下の訓練場、初めてだよね?」
神崎さんが、いつもの飄々とした笑顔でこっちを見る。
「は、はい」
「まあ、心配しなくていいよ。今日使う子は、危険度も低いし、ちゃんと鎖と結界で押さえてあるから」
「子……」
あんな怪物みたいなダークメンシェのことを、そう呼ぶのか。
違和感と、変な優しさが入り混じった呼び方だった。
「訓練用に、かなり削ってある個体だからね」
神崎さんが補足する。
削ってある、という言い方が、あまりにも物理的で、少し背筋が冷えた。
エレベーターは、B2で止まった。
扉が開くと、ひんやりした空気が流れ込んでくる。
「着いたよ」
神崎さんに続いて外に出る。
そこは、コンクリート打ちっぱなしの広い廊下だった。
壁には配管のようなものが走っていて、ところどころに「結界制御室」「監視室」と書かれたプレートがかかっている。
研修官――田村さんが、廊下の少し先で待っていた。
スーツの上着は脱いでいて、シャツの袖をまくっている。
「全員来たな」
落ち着いた声でそう言ってから、こちらに歩み寄ってくる。
「これから、実戦訓練エリアに案内する。と言っても、今日はあくまで“動きと連携”の確認だ」
田村さんは、そう前置きした。
「見ての通り、こいつはすでにだいぶ削れている。意識もほとんど残っていない」
そう言いながら、廊下の突き当たりにある分厚い扉を開ける。
重たい金属音がして、その向こうの空間が現れた。
中は、地下倉庫を横に切り落としたみたいな構造だった。
こちら側は通路になっていて、腰の高さくらいの手すりがある。
その向こうに、厚いガラスと、さらにその内側に薄い光の膜が見えた。
ガラスと結界で囲われた四角い空間の中に、黒い塊がうずくまっている。
──ダークメンシェ。
すぐに、分かった。
前に見たやつよりもずっと小さいし、動きもしない。
でも、黒いもやの奥から、ときどき人間の輪郭みたいなものが浮かんでは消えていた。
「あれは……」
思わず声が漏れる。
「訓練用の個体だよ」
神崎さんが、手すりに寄りかかりながら答えた。
「本番とは違って、外には出てこない。出てこられないようにしてある、かな」
「……」
出てこられないように。
つまり、あそこから出たいと思っても、出られない。
胸の奥が、少しだけざわついた。
「今日は倒すことより、動きと連携を覚えることが目的だ」
田村さんの声が、ガラスに反射して戻ってくる。
「ルールを説明する。 この中には、外からの攻撃だけが届くようになっている。
中から外へは、一切干渉できない。声も届かない」
声も届かない、という言葉に、心のどこかが引っかかった。
前に、電車の中で聞いた、「助けて」という声を思い出す。
「勇気くんは後方から防御補助。前には出ないこと」
「……はい」
釘を刺されるみたいな言い方だった。
たぶん、前回の暴走があるからだ。
「神崎が全体のテンポを取る。 小池は動きを鈍らせる役。 関野は前衛として様子を見ながら、外殻への攻撃を担当する」
田村さんが、それぞれを指さして役割を告げていく。
「一応言っておくが、これは“模擬戦”だ。 こいつの中にいる本来の持ち主は、すでに救出済みだ」
「救出済み……」
ガラスの向こうの黒い塊を見る。
じゃあ、あれはもう、人じゃないのか。
それとも、殻だけなのか。
どちらにしても、殴れば砕ける。
そういう前提で、ここに置かれている。
「怖くなったら、すぐに言え。
東郷くんは、まだ候補生だ」
田村さんが、少しだけ声を落として言った。
「……はい」
怖くなったら。
たぶん、今の時点でもう十分怖い。
「じゃ、位置につこうか」
神崎さんが、ぱん、と軽く手を叩いた。
体に力が入る。
分からずとも本能で戦闘態勢をとった。
「俺がカウントする。三、二、一――行くぞ。《マエストロ・トリックスター》、ステージセット」
神崎さんが手すりから離れて、ガラスのすぐ手前に立つ。
右手を胸の高さまで上げると、足元に小さなライトがぽんぽんと灯った。
神崎さんの精霊、マエストロ・トリックスターが背後に現れる。
仮面をつけた長身のシルエット。
タクトを振ると、頭上にミニチュアの舞台セットがふわりと展開した。
百合の足元の影からも、精霊がじわっと立ち上がる。
フードを被った小さな影の少女みたいな姿だ。
胸の空洞を、本やページの束がぐるぐると回っている。
百合が、小さく「……リブラリウム」と呟いたのが聞こえた。
関野さんの背中からは、光の糸で編まれた翼が広がった。
細身の天使が、背中から抜け出したみたいに見える。
「ストリング・セラフィム」と、関野さんが短く呼ぶ。
道場で見たときよりも、その姿が少しだけ凛々しく見えた。
「勇気くんも、軽くでいいから」
田村さんに促されて、僕も一歩前に出る。
さっき道場でやったのと同じように、深呼吸をする。
──来い。
心の中で、小さく呼びかける。
胸の奥の何かが、ゆっくりと伸びをする。
その直後、胸の奥で、自分とは違う声が重なった気がした。
──チェインブレイカー。
聞いたことのない単語なのに、最初から「それ」が自分のものの名前だと分かった。
この精霊の名前だ。
そう直感で理解した。
足元の影が揺れ、背中の方で鎖がきしむ音がした。
壊れた鎧を継ぎはぎにした、鎖だらけの巨人が、僕の背後に立ち上がる。
「──チェインブレイカー」
心の中で呟いたつもりが、そのまま声にでていた。
「よし」
田村さんが、結界の制御パネルに手を伸ばした。
ガラスの内側の光の膜が、わずかに揺らぐ。
「開戦レベルまで、こちらで管理する。
あくまで訓練だ。無茶はしないように」
その言葉を合図みたいにして、神崎さんがタクトを振った。
「三」
タクトの先端が、空中で光を描く。
「二」
足元のスポットライトが、みんなの足をそれぞれ照らした。
「一」
短い間。
喉の奥で、自分の心臓の音だけがうるさく響く。
「行くぞ」
タクトが、前方を指した。




