第20話 正反対の妹
基礎訓練がひと通り終わったあと、僕たちはいったん解散になった。
道場を出るとき、足の裏がまだ畳の柔らかさを覚えている。
でも、それよりも先に、胸の奥のざわざわの方が目立っていた。
──出して、戻せた。
さっきまで何度も繰り返していた言葉を、もう一度だけ思い出す。
出して、戻せた。それだけ。
何も殴ってないし、誰も救っていない。
それなのに、体の中身をごそっと持っていかれたみたいに、どっと疲れていた。
研修官に軽く礼をしてから、神崎さんはどこかへ電話をしに行き、百合は書類を持った職員に呼ばれていった。 関野美桜は「着替えてくる」と短く言って、ロッカーの方へ消えた。
「休憩スペース、あっちだからね」
すれ違いざまに、研修官がそれだけ教えてくれた。
指さされた方に、なんとなく歩いていく。
さっきと同じような白い廊下。
でも、今度はところどころに観葉植物やポスターが貼ってあって、少しだけ病院っぽい。
廊下の突き当たりに、「ラウンジ」と書かれたプレートがぶら下がっていた。
自動ドアが静かに開く。
中は、学校の図書室とファミレスを足して二で割ったみたいな空間だった。
低めのソファとローテーブルが並び、壁際には自販機が数台。
奥には、簡単なキッチンカウンターと、マグカップが並んだ棚。
窓の外は、もう夕方の色だった。
オレンジ色が少し灰色に混ざったみたいな空。
何階なのか分からないけれど、街のビルの屋上が少しだけ見えた。
自販機で適当に水のボタンを押す。
出てきたペットボトルを持って、端っこのソファに腰を下ろした。
キャップを開けて、一口飲む。
冷たさが喉を通っていくのに、頭の中はまだ熱っぽい。
──本当に、僕でよかったのか。
さっきの鎖の巨人の気配が、まだ背中に張りついているみたいだった。
あいつは、僕の「止まれ」に従った。
でも、それが偶然なのか、本当に僕の言葉だからなのか、よく分からない。
「おつかれさまです」
不意に、柔らかい声がした。
顔を上げると、トレイを抱えた女の子が立っていた。
淡い色のカーディガンに、シンプルなワンピース。
肩あたりまでの黒髪ストレートで、前髪を軽く流していて、微笑んだときに頬に小さなくぼみができる。
優しく愛嬌がある雰囲気を感じる。
声は、高めで、萌え声っぽさがある。
でも、不思議と耳に残る感じじゃなくて、布みたいに柔らかく落ちてくる。
「今日、初めての研修だったんですよね?おつかれさまです」
「え……」
反射的に立ち上がりかけて、途中でやめる。
中途半端に腰が浮いたみたいな姿勢になって、余計に格好悪い。
「あ、そのままで大丈夫ですよ」
女の子は、くすっと笑った。
トレイの上には、紙コップに入った何かと、小さな包みがいくつか並んでいる。
「えっと……」
誰ですか、と言えずに、僕はどう返せばいいか分からなくて、言葉が宙ぶらりんになる。
「私は、優っていいます。ここで受付とか、ちょっとした怪我の手当てとかしてるんです」
「ゆ、優さん……」
名前を繰り返すと、女の子はこくりと頷いた。
「関野優です。……あ、美桜の妹なんです、いちおう」
「えっ」
間抜けな声が出た。
「妹……?あの関野さんの……?」
頭の中で、美桜の顔と目の前の女の子の輪郭を、慌てて重ねてみる。
たしかに、目元とか、鼻の形とか、よく見ると似ている気がする。
でも、雰囲気があまりにも違いすぎて、最初は全然繋がらなかった。
片方は氷みたいに冷たくて、もう片方は湯たんぽみたいにあったかい。
もちろん冷たい方が姉の関野美桜の方だ。
──あの関野美桜の妹、って言われても、全然イメージが繋がらない。
「お姉ちゃんがお世話になってます」
優さんは、ぺこりと頭を下げた。
「い、いえ……僕の方こそ、その……」
何を言えばいいのか分からないまま、声だけがしぼみそうになる。
「これ、どうぞ」
優さんは、トレイの上から紙コップをひとつ取り、テーブルにそっと置いた。
中身は、ハーブティーみたいな薄い色の飲み物だ。
「カモミールなんです。眠くなっちゃうかもしれませんけど、落ち着くので」
「あ、ありがとうございます」
ペットボトルの水を持ったまま、もう一方の手で紙コップをそっと持ち上げる。
ふわっと甘い匂いがした。
「それと、これ」
今度は、小さな包みをひとつ差し出してきた。
掌にちょうど乗るくらいの布袋で、端っこがぎゅっと結ばれている。
表には、下手くそな刺繍のハートマーク。
「お守りです。みんなに配ってるんですけど……よかったら、勇気さんにも」
「ゆ、勇気……」
自分の名前を呼ばれると、胸の奥が一瞬だけむずがゆくなる。
ここでは、苗字で呼ばれることが多かったからかもしれない。
「あ、すみません。名札、見ちゃいました」
優さんが、胸元を指さす。
気づけば、さっき道場でつけられた名札が、そのままぶら下がっていた。
「私のことは、優ちゃんって呼んでください。年下ですし」
ちゃん付けは素直に呼びづらい。
「はい……」
受け取ったお守りを見る。
布越しに、硬いものがいくつか当たる感触がした。
「中には、安物のビーズと、小さい紙切れが入ってるだけなんですけど」
優さんは、少し照れくさそうに笑う。
「“無事に帰ってきてください”って、手書きで。 それだけなんですけど……」
「そんな……だけ、なんて」
思わず口から出ていた。
安物でも何でも、誰かがわざわざ縫ってくれた時間が、そこには入っている。
「で、でも、僕なんて……」
自分で言いながら、嫌な言い回しだなと思う。
それでも、止まらない。
「さっきの訓練だって、全然うまくできなかったし。 出して、戻しただけで、もうヘトヘトで……」
声が勝手に弱音の方へ傾いていく。
誰かに訴えたいわけじゃないのに、口だけが勝手に動く。
「まだ祈戦士でもないし、候補生って言われても、何もできないし……」
「ふふ」
優さんが小さく笑った。
馬鹿にした感じじゃなくて、なんというか、くすぐったそうな笑い方だ。
「怖かったですよね、今日」
「……はい」
即答してから、「あ」となる。
そんなこと、かっこ悪くて言いたくなかったはずなのに、もう遅い。
「正直、ずっと帰りたいって思ってました。 道場に入る前から、ずっと」
「ですよね」
優さんは、こくりと頷いた。
「怖くない人なんて、たぶんいないですよ。 ここにいる祈戦士のみなさんも、ほんとはみんな怖いと思います」
「……そう、なんですか」
僕の知っている祈戦士は、関野美桜と神崎さんと百合だけだ。
三人とも、少なくとも表向きは、全然怖がっているようには見えなかった。
「でも、怖いのにここに来てるの、私はすごいと思います」
優さんは、トレイを胸の前で軽く抱え直した。
「怖くないふりをして、何も見ないようにしてる人より。 怖いままで、それでもここにいる人の方が、ずっと」
──怖いままで、ここにいる。
その言葉が、喉の奥あたりで引っかかった。
「ここで働いてるので。みなさんが出ていくところも、帰ってくるところも、だいたい見てるんです」
優さんの視線が、一瞬だけ自販機の向こうの廊下の方へ向く。
「ボロボロになって帰ってきても、ちゃんと笑おうとする人が多くて。
ふらふらなのに、『ただいま』って。 それが、すごくかっこいいなって、ずっと思ってて」
柔らかい声で言うけれど、その目の奥にはちゃんと重さがあった。
「だから、私の仕事は“おかえりなさい”って言うこと。 それだけでも、ちょっと誇らしいんです」
──戦う人じゃないのに。
それでも、自分の居場所をちゃんと「ここ」と言えるのが、少し羨ましい。
「勇気さんも、きっとまたすぐに“行ってきます”って言わされちゃいますから」
「......そうかな」
思わず苦笑いが漏れる。
でも、その「また」が、さっきまでより少しだけ現実味を帯びて聞こえた。
「そのときは、ちゃんと“おかえりなさい”って言いますね」
優さんが、にこっと笑う。
その笑顔は、関野美桜の笑った顔がどうなるのか、想像できない僕にとって、妙な気持ちになった。
──怖いままでいてもいい
怖くないふりをして強くなれ、じゃなくて。
怖いままでも、ここにいていい。
それでも、出ていく人たちを見送る場所がここにある、って。
胸の奥のざわざわは、まだ完全には消えない。
でも、それまでよりは、少しだけ形が変わった気がした。
「ねぇ、優」
突然、少し低い声がラウンジに飛び込んできた。
振り向くと、入り口のところに関野美桜が立っていた。
さっきまでの訓練着から、ラフな私服に着替えている途中みたいな格好だ。
上はパーカー、下はまだジャージ。
「私の服知らない? さっきまでロッカーに——」
「またどこかに置いてきたんでしょ、お姉ちゃん」
優さんが、はぁ、と小さくため息をつく。
でも、その口元は少しだけ緩んでいた。
「もう〜。この前もタオルなくしたばっかりなのに」
「うるさい。あれは洗濯機の中に勝手に沈んでただけ」
「それをなくしたって言うんだよ」
ふたりのやり取りは、完全に姉妹の会話だった。
戦場とか祈戦士とか関係なくて、ただの家の中の会話みたいだ。
「ごめんなさい、勇気さん。ちょっと行ってきますね」
優さんが、こちらに向き直って小さく会釈する。
「優」
美桜が、優さんの腕を軽くつかんだ。
そのまま引っ張るみたいにして、ラウンジの外へ連れて行こうとする。
「ほら、一緒に探して」
「はいはい。……それじゃ、また研修のあとで」
優さんは、もう一度だけ僕の方を振り返って、柔らかく笑った。
その笑顔を置いていくみたいにして、ドアの向こうへ消える。
去り際に、姉である関野美桜がこっちをちらっと見た。
ほんの一瞬だけ目が合って、
「……べー」
小さく舌を出してから、ぷいっと顔を背けた。
また悪態をつかれた。
なぜ姉である彼女は、優さんみたいに優しくないのか。どうしてこう、すぐ棘を立てるんだろう。
でも、さっきまで優さんと話していたせいか、その「べー」も少しだけ冗談みたいに聞こえた。
ソファにひとり残されて、改めて紙コップの中を見る。
カモミールティーは、さっきよりも少し冷めていた。
お守りを指先でつまんでみる。
中身のビーズが、かすかに転がる音を立てた。
──怖いままで、ここにいていい。
関野優、いや「優ちゃん」というべき優しい存在の言葉が、ハーブの匂いと一緒に、胸の奥に沈んでいく。
まだ、何もできていない。
祈戦士って呼ばれるには程遠い。
それでも、さっき道場で出してしまった鎖の巨人と、
この小さな布袋と、
「おかえりなさい」を言う誰かがいる場所が、少しだけ繋がったような気がした。




