第2話 マザー襲撃
「……痛って」
頬のあたりが、じんじんと痛い。
誰に聞かせるわけでもなく、小さくこぼす。
言ったところで痛みが引くわけでもないのに、口だけが勝手に動いた。
放課後の校門を抜けて、いつもの帰り道を歩く。
住宅街の道は、夕方のオレンジ色に染まっていた。人も車も、いつも通りに流れている。
誰も、僕の頬の赤みなんて気にしていない。
──悪いのは、彼女の方なんだろうか。
関野美桜。
音楽室でピアノを弾いていた、あの無表情な横顔。
「あんたに何がわかるっていうの!」
あの一言を思い出した瞬間、胸がちくりとした。
外側から「すごい」と言っておいて、何も背負う気がない僕の方がよっぽど薄っぺらい。
ため息をひとつ吐いて、前を向く。
住宅街を抜けると、幹線道路に出た。
片側二車線の大きな道路。中央分離帯の向こうを、車の列が途切れなく流れていく。
信号が青になるのを待ちながら、交差点の角の大型スクリーンを見上げる。
「本日のスコア更新情報をお知らせします──」
画面の中のアナウンサーが、明るい声で誰かの名前と数字を読み上げている。
学力スコア、協調性スコア、社会貢献スコア。きれいなグラフが次々と表示される。
僕の腕時計の端末にも、今日のスコアは何度か通知が来ていた。
どうせ平均かそれ以下だ。見たところで、僕の世界が変わるわけでもない。
優しさなんて評価されない。
だったら、無理をしてまで誰かを助ける必要なんてない──それが、僕なりの処世術のつもりだった。
信号が青に変わる。
電子音が鳴り始め、人の流れが横断歩道に溢れ出す。僕もその列に混ざって歩き出した。
──その時だった。
空気が、急に重くなった。
夕方で気温が下がっただけだと思った。
けれど一歩踏み出した瞬間、足首にまとわりつくような粘り気に、背筋がぞわりとする。
「……え?」
世界の色が、すっと薄くなった。
さっきまでオレンジ色だった夕焼けが、灰色がかったフィルターをかけられたみたいに色あせていく。
車のエンジン音や人の話し声が遠のき、代わりに低い耳鳴りのような音が頭の奥で鳴り始めた。
キーンでもザーッでもない。
言葉にできない、嫌な音。
「なんだ、これ……」
思わず立ち止まる。
その瞬間。
道路脇に停まっていた一台の車が、音もなく浮き上がった。
「……は?」
言葉が喉の途中で固まる。
車体がゆっくり持ち上がり、ねじられたみたいに歪む。
次の瞬間、見えない何かに殴り飛ばされたみたいに、車が空中をこちらへ吹き飛んできた。
逃げろ、と思った。
でも、足が動かない。
遅れて、耳をつんざくような轟音が襲ってきた。
ガラスが割れる音と、金属が砕ける音と、誰かの悲鳴が一度に押し寄せる。
衝撃波が正面からぶつかり、胸を強く押し出されて体が横に弾き飛ばされた。
視界がぐるりと回り、背中からアスファルトに叩きつけられる。
肺の中の空気が一瞬で押し出されて、「っ……」と変な音しか出なかった。
「危ない、下がれ!」
誰かの叫び声だけがやけに近く聞こえる。
腕と肘でなんとか上体を起こすのが精一杯で、足はまだ地面に縫いつけられたみたいに重かった。
歩道橋の鉄骨がゆっくりと曲がっていく。
信号機のポールにひびが走り、アスファルトには黒い染みのようなものがじわりと広がっていく。
──ここにいたら、巻き込まれる。
そう分かっているのに、視線を動かせなかった。
幹線道路の向こう側。
──そこには、巨大な怪物と呼ぶべき何かが立っていた。
黒いもやと、歪んだ人影が絡み合ったようなものが、ゆっくりと立ち上がっていく。
最初は、ビルの陰に見える影か何かだと思った。
でも、それはビルよりも高く、空に届くほど高く、そこに立っていた。
ねじれた腕。
顔らしき部分には、いくつもの口や目が、溶けてくっついたみたいに並んでいる。
その輪郭ははっきりしないで、見ているそばから黒い煙のように崩れては、また形を取り戻していた。
それは、巨大な怪物としか言いようがなかった。
ニュースで、似たようなものを見たことがある。
誰かが撮った、ピンぼけの映像。
「謎の怪奇現象」「怪物」だとか、いろんなテロップがついていた。
でも、画面越しに見ていたそれと、目の前で街を押しつぶしているこいつは、まるで別物だった。
大きさも、重さも、迫力も。
空気が歪むような圧力が、ここまで届いていた。
風に乗って、何かが聞こえてきた。
歌。
子守歌みたいな、優しいメロディー。
こんな状況で、誰が歌っているんだ。
そう思うのに、その旋律は妙に懐かしくて、胸の奥がざわついた。
でも、その旋律は妙に懐かしさを感じさせた。
どこかで、聞いたことがある。
いつだったか、思い出せない。
思い出す余裕などなかった。
その瞬間、
怪物が飛ばした黒い破片がこちらに向かって飛んでくるのが見えた。
空中に舞い上がった、黒い破片。
怪物の体から飛び散った黒い破片が、黒いもやに染まりながら砕け散っている。
「……っ」
走らなきゃ、と思う。
でも、足は地面に縫いとめられたままだ。
そのとき、視界の端を別の光が横切った。
光。
糸のような、細い光が、空中を走っていた。
さっき吹き飛んだ車の残骸が、その光に絡め取られて、進路をそらされる。
ビルの壁に激突するはずだった金属の塊が、ギリギリで別の方向へ押しやられていく。
「結界が間に合ってない、押し返す!」
遠くから、誰かの声がした。
誰の声かは分からない。
「早く逃げて!」
逃げようと必死に体を起こそうとした。
しかし、その瞬間、
何かが胸に突き刺さった。
「……っ……!」
息が、うまく吸えない。
胸の真ん中あたりに、焼けつくような熱さが走る。心臓を直接掴まれたみたいな痛みが、内側から広がっていく。
胸にはさっき怪物から飛ばされた黒い破片が突き刺さっていた。
声を出そうとしても喉が動かない。
視界がぼやけ、周りの音が遠くなっていく。
耳鳴りだけがどんどん大きくなり、他の音を全部食べていった。
「な、んだよ……これ……」
自分の声かどうかも分からないほど小さな呟きが、口の中で崩れた。
目の前の光景が、本当にここで起きていることなのか、夢なのか、それともテレビの中の映像なのか。
何が現実で何が夢なのか、分からなくなっていく。
世界が、暗くなる。
景色から色が消え、視界が狭まっていく。
最後に残ったのは、胸の奥で丸くうずくまっている何かの感覚だった。
黒い破片が刺さった場所に、小さな塊がぎゅっと縮こまっているみたいな、変な感触。
「痛い」と「怖い」と「どうでもいい」が、ぐちゃぐちゃに混ざった感情だけが、ぼんやりと残る。
──優しさなんて、持たなくていい。
そう言い聞かせてきたはずの心のどこかで、
誰かの歌う子守歌の続きを、聞きたがっている自分がいることだけを、かすかに自覚しながら。
僕の意識は、闇の中に落ちていった。
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