第2話 マザー襲撃
頬のあたりが、じんじんと痛い。
指先でそっと触れると、さっきの音が頭の中でまた再生された。
──叩かれた。
「…痛って」
誰に聞かせるわけでもなく、小さくこぼれる。
言ったところで、痛みが引くわけでもないのは分かっている。分かっているのに、口だけが勝手に動いた。
放課後の校門を抜けて、いつもの帰り道を歩く。
住宅街の道は、夕方のオレンジ色に染まっていた。犬の散歩をしている人。自転車で塾に向かう小学生。腕時計型の端末を見ながら歩いているサラリーマン。
誰も、僕の頬の赤みなんて気にしていない。そもそも、よく見なければ分からないくらいのものだ。
「優しさは、誰かを救うためのものであって、殴るためのものじゃない」
さっきまで、そう思っていた。
いや、今も、表向きの意見としてはそう思っている。
でも、頬を押さえながら歩いている僕の足取りは、足が地に着いていない感じがした。
本当に悪いのは、彼女の方なんだろうか。
関野美桜。
音楽室でベートーヴェンを弾いていた彼女の横顔を思い出す。無表情で、どこか全部どうでもいいみたいな顔。
僕は、そんな彼女に向かって、「祈戦士なんだよね。すごいよね」なんて、薄っぺらいことを言った。
「……そりゃ、殴られても仕方ないか」
口に出してみて、胸の奥が少しだけちくりとした。
自分で自分に「仕方ない」って言い聞かせているくせに、本当は納得しきれていない。
優しさは殴るためのものじゃない、とか。優しい人は人を傷つけないはずだ、とか。
そういう綺麗事を、まだどこかで信じていた自分が、いちばんみっともない。
頭のどこかで、冷めた自分が呟く。
──外側から「すごいね」って言っておいて、何も背負う気がないやつに、殴られる資格があるのはどっちだろう。
「……やめろよ」
自分で自分に向かって言って、ため息が出た。
頬の痛みと、胸のあたりの重さが、妙にシンクロしている。
住宅街を抜けると、幹線道路に出る。
片側二車線の道路。中央分離帯には低い街路樹が並んでいて、その向こう側を車の列が途切れなく流れていた。
信号が青になるのを待ちながら、僕はなんとなく、交差点の角に立っている大型スクリーンを見上げる。
「本日のスコア更新情報をお知らせします──」
画面の中のアナウンサーが、明るい声で誰かの名前と数字を読み上げている。
学力スコア、協調性スコア、社会貢献スコア。いろんな項目の数値がグラフになって、きれいに並んでいた。
僕の腕時計の端末にも、今日のスコアは朝から何度か通知が来ていた。
見ても意味がないから、全部スルーしている。
どうせ僕は、どの項目でも「平均」か、それ以下だ。通知の数字が少し上がったところで、世界の何が変わるわけでもない。
「……そういうふうにできてるんだよな、だいたい」
優しさなんて評価されないし、スコアの数字が少し上下したところで、誰かを本気で気にかけてくれる人なんていない。
だから、無駄な抵抗はしない。それが、僕なりの処世術──のつもりだった。
信号が青に変わる。
歩行者用の電子音が鳴り始めて、人の流れが横断歩道に流れ込む。僕もその列の中に混ざって、何も考えないふりをしながら歩き出した。
──その時だった。
空気が、急に重くなった。
最初は、気のせいだと思った。
夕方だから、気温が下がってきただけかもしれない。
でも、一歩踏み出した瞬間、足首にまとわりついてきた空気の粘り気に、背筋がぞわりとした。
「……え?」
世界の色が、わずかにくすむ。
さっきまでオレンジ色だった夕焼けが、急に色が薄くなっていく。灰色がかって見える。
車のエンジン音や人の話し声が、小さく聞こえるようになった──代わりに、低い耳鳴りのような音が、頭の奥で鳴り始めた。
キーン、でも、ザーッ、でもない。
言葉にできない、嫌な音。
テレビの砂嵐を、そのまま耳の中に流し込まれているみたいな、ざらざらした感覚。
「なんだ、これ……」
思わず立ち止まる。
隣を歩いていたスーツ姿の男が、怪訝そうにこちらを一瞬だけ見て、そのまま足早に行き過ぎていく。男の周りの空気も、少し重くなっているはずなのに、本人は気づいていないみたいだった。
その瞬間。
道路脇に停まっていた一台の車が、音もなく浮き上がった。
「……は?」
言葉が、喉の途中で固まる。
車体が、ふわりと持ち上がる。
ありえない方向に、ボディがねじれる。
次の瞬間、見えない何かに殴り飛ばされたみたいに、車が空中を弧を描いてこちらに吹き飛んだ。
逃げろ、と思った。
でも、足が動かない。
遅れて、耳をつんざくような破裂音がやってくる。
ガラスが割れる音。金属がひしゃげる音。誰かの悲鳴。
同時に、衝撃波が正面からぶつかってきた。
胸のあたりを思いきり押し出されて、体が横に弾き飛ばされる。
視界がぐるりと回って、背中からアスファルトに叩きつけられた。
肺の中の空気が一瞬で押し出されて、「っ……」と変な音しか出ない。
「危ない、下がれ!」
誰かが叫ぶ声が聞こえた。
でも、体がうまく言うことを聞かない。
手と肘でなんとか上体を起こすので精一杯で、足はまだ地面に縫いつけられたみたいに重かった。
視界の端で、歩道橋の鉄骨がゆっくりと曲がっていく。
信号機のポールに、ひびが走る。
アスファルトの地面に、黒い染みのようなものがじわりと広がり始めた。
──ダメだ。
ここにいたら、巻き込まれる。
そう分かっているのに、目をそらせなかった。
世界が、ぐしゃぐしゃに潰されるみたいな光景から、視線を引きはがすことができなかった。
幹線道路の向こう側。
──そこには、巨大な怪物と呼ぶべき何かが立っていた。
黒いもやと、歪んだ人影が絡み合ったようなものが、ゆっくりと立ち上がっていく。
最初は、ビルの陰に見える影か何かだと思った。
でも、それはビルよりも高く、空に届くほど高く、そこに立っていた。
ねじれた腕。
顔らしき部分には、いくつもの口や目が、溶けてくっついたみたいに並んでいる。
その輪郭ははっきりしないで、見ているそばから黒い煙のように崩れては、また形を取り戻していた。
それは、巨大な怪物としか言いようがなかった。
ニュースで、似たようなものを見たことがある。
誰かが撮った、ピンぼけの映像。
「謎の怪奇現象」「怪物」だとか、いろんなテロップがついていた。
でも、画面越しに見ていたそれと、目の前で街を押しつぶしているこいつは、まるで別物だった。
大きさも、重さも、迫力も。
空気が歪むような圧力が、ここまで届いていた。
それが今、目の前で街を踏み潰している怪物なんだ、と遅れて理解した。
ニュースやネットの中だけの出来事だと思っていたものが、現実にせり出してきている。
画面越しに眺めていた「怪物」の映像なんか、本物の重さを一ミリも伝えていなかったんだと、嫌でも思い知らされる。
風に乗って、何かが聞こえてきた。
歌。
子守歌みたいな、優しいメロディー。
こんな状況で、誰が歌なんて──と思った。
でも、その旋律は妙に懐かしくて、胸の奥がざわついた。落ち着かなかった。
どこかで、聞いたことがある。
いつだったか、思い出せない。
でも、確かに知っている音だった。
「やば……」
誰かの声が、すぐ近くで震えた。
振り返る余裕もない。
その瞬間、怪物の方向から黒い破片がこちらに向かって迫ってくるのが見えた。
空中に舞い上がった、黒い破片。
怪物の体から飛び散った黒い破片が、黒いもやに染まりながら砕け散っている。
それが、風に乗って、雨みたいに降ってきていた。
怪物から飛び散った黒い破片の雨が、僕の方向に降り注いでいる。
「……っ」
走らなきゃ、と思った。
で、でも、足が動かない。
頭のどこかで、「ここで動けないからって、誰が責めるんだよ」と冷めた自分が言う。
世界がこんなふうに壊れているのに、前に出られる人間の方がおかしい。
だから、ここで突っ立っている自分は普通だ。
そう言い訳しようとしている自分が、いちばん嫌だった。
そのとき、別の何かが視界の端を横切った。
光。
糸のような、細い光が、空中を走っていた。
さっき吹き飛んだ車の残骸が、その光に絡め取られて、進路をそらされる。
ビルの壁に激突するはずだった金属の塊が、ギリギリで別の方向へ押しやられていく。
「結界が間に合ってない、押し返す!」
遠くから、誰かの声がした。
祈りみたいな言葉と一緒に。
誰の声かは分からない。
その反対側から、巨大な影の腕が伸びてきた。
さっき見えた黒い怪物とは別の何か。
黒い巨人の腕のようなものが、その怪物の横腹を殴りつける。
衝突の瞬間、世界が白く弾けた。
怪物の体から、黒い破片が飛び散った。
音が全部消えて、次の瞬間に一度に戻ってくる。
空気そのものが揺さぶられたみたいに、胸の中まで振動が届いた。
「……っぐ」
膝が勝手に折れる。
地面に手をつこうとしたけれど、間に合わなかった。
アスファルトが、顔に近づいてくる。
その一瞬。
空中に散っていた怪物の破片の中で、ひときわ濃い一片が、まっすぐこっちに向かってくるのが見えた。
逃げられない。
分かっているのに、目を閉じることもできなかった。
怪物から飛び散った黒い破片が、胸に突き刺さった。
「……っ……!」
息が、うまく吸えない。
胸の真ん中あたりに、怪物から飛び散った黒い破片が刺さっている。
内側から焼かれているみたいに熱い。心臓を直接掴まれたみたいな痛みが、胸の奥から広がっていく。
声を出そうとしても、喉が動かない。
視界がぼやけていく。周りの音が遠く聞こえるようになった。
耳鳴りだけがどんどん大きくなって、他の音を全部食べていく。
視界の端で、何かが立ち上がるのが見えた。
自分の足元から。
地面の影が持ち上がって、形を取っていく。
鎖に繋がれた、影の巨人。
肩から腰にかけて、重そうな鎖が何重にも巻きついている。
顔はフードと仮面みたいなもので隠されていて、その奥で赤い光がちらりと瞬いた気がした。
それが、ゆっくりとさっきの怪物の方へ腕を伸ばそうとする。
でも、巻きついた鎖がきしんで、その動きを押しとどめた。
「な、んだよ……これ……」
自分の声かどうかも分からないほど小さな呟きが、口の中で崩れた。
目の前の光景が、本当にここで起きていることなのか、夢なのか、それともテレビの中の映像なのか。
何が現実で何が夢なのか、分からなくなっていく。
世界が、暗くなる。
景色から色が消えていく。視界が暗くなっていく。
最後に残ったのは、胸の奥で丸くうずくまっている何かの感覚だった。
黒い破片が入り込んだ場所に、小さな塊がぎゅっと縮こまっているみたいな、変な感触。
それが何なのかは分からない。
分からないまま、「痛い」と「怖い」と「どうでもいい」が、ぐちゃぐちゃに混ざった感情だけが、ぼんやりと残っていた。
──優しさなんて、持たなくていい。
そう言い聞かせてきたはずの心のどこかで、誰かの歌う子守歌の続きを、聞きたがっている自分がいることだけを、最後の最後に、かすかに自覚しながら。
僕の意識は、闇の中に落ちていった。




