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第19話 相棒の精霊



研修官の視線が関野美桜の方に向いた。


「じゃあ、関野いこう」


「なんで私がこんな基礎をまたやんなきゃいけないの」


「いつも言っているだろう、基礎を怠るなと」


「はいはい」


美桜が二つ返事をして、一歩前に出る。

いつもの不機嫌そうな顔のまま、まっすぐ中央に立った。


「じゃあ、呼び出しと簡単なモーション。それから戻すところまで、通しで」


「了解」


美桜は、軽く肩を回してから、目を閉じた。

胸の前で両手を組み、そっとほどく。


その瞬間、彼女の背中から光の糸がふわっと広がった。

細身の少女のシルエット。

背中には、一本一本が細い光糸で編まれた翼。

左腕には、小型のハープとヴァイオリンの中間みたいな弦楽器。


──《ストリング・セラフィム》。


今度は、説明の時よりもはっきりと、その姿が見える。

羽ばたくたびに、糸がほつれたり結び直されたりして、淡い光の粒が宙に散った。


彼女が弦にそっと指を滑らせると、澄んだ音が道場に広がる。

それだけで、さっきまで張り詰めていた空気が、少しだけ柔らかくなった気がした。


「はい、そこまで。戻して」


研修官の声に、彼女は弦から指を離す。

光の糸がすっと縮んで、翼ごと彼女の背中の中に吸い込まれていった。


まるで、最初から何もなかったみたいに。


「……ふう」


彼女は小さく息を吐き、何事もなかった顔で列に戻る。

その横顔は、相変わらず冷たくて、近づきづらい。


「最後に、東郷くん」


自分の名前が呼ばれた瞬間、心臓が跳ねた。


「え、あ……はい」


声が裏返りそうになるのを、なんとか飲み込む。

足が勝手に前へ出る。

畳の感触が、さっきよりも遠く感じた。


畳の中央に立つと、四方からの視線が一気に集まってくる。

関野美桜の無表情、神崎さんの飄々とした笑顔、百合の無機質な瞳、研修官の落ち着いた目。


──僕なんかが、ここに立っていいのか。


そう問いかける。

でも、もう立ってしまっている。


「東郷くん」


研修官の声が、少しだけ柔らかくなった。


「最初から上手くやろうとしなくていい。 今日は、『呼ぶ』ところまでできれば十分だ」


「……はい」


喉が乾いている。

舌が上顎に貼りついて、うまく言葉が出ない。


「さっきも言ったが、精霊は相棒だ。 暴れ馬じゃない。呼ぶのも、戻すのも、持ち主の責任だ。無理に操ろうとしなくていい。リラックスだ」


相棒。

もう一度、その言葉が胸の中で浮かんでは沈む。


──あのとき、あいつは人を殴っていた。


ダークメンシェの外殻が剥がれたあと。

床に転がっていたのは、ぐちゃぐちゃになった「人間の身体」だった。

その上に跨って、拳を振り下ろしていたのは、確かに僕の精霊で―そして、僕自身でもあった。


「東郷くん?」


「……だ、大丈夫です」


大丈夫じゃないけど、「大丈夫」と言うしかない。

それ以外の選択肢が、今は見つからない。


「じゃあ、深呼吸」


研修官に言われるまま、息を吸う。

肺がきゅっと広がる感覚。

吐く。

胸の奥のざらざらしたものも、一緒に吐き出せたらいいのに。


──来い。


心の中で、そう言葉にする。

あまり大きな声にはしたくなかった。

でも、どこかでそれを言わないと、何も始まらない気がした。


胸の奥が、じわっと熱くなる。

さっきまで丸くうずくまっていた何かが、ゆっくりと伸びをするみたいに動いた。


足元の影が、わずかに揺れる。

後ろの空気が、重くなる。


──来る。


背中の方で、鎖がきしむ音がした気がした。

振り向かなくても分かる。

あの時と同じ、巨大な気配。


鎖に繋がれた巨人の影が、僕の背後に立ち上がる。

顔はフードと仮面に隠れていて、どこを見ているのか分からない。

でも、その存在そのものが、道場の空気を一段階重くした。


畳が、ほんの少しだけ沈んだような気がした。

錯覚かもしれない。でも、そう感じる。


「……」


喉の奥から、声が出ない。

代わりに、心臓の音だけがうるさく響いている。


「はい、東郷くん」


研修官の声が、少しだけ近くから聞こえた。


「一度、前に“空打ち”してみよう。 何もない空間でいい。ただ、腕を振るだけだ」


「く、空打ち……」


自分の右腕を見る。

震えてはいない。

でも、力の入れ方が分からない。


「大丈夫。 精霊は、君が『そこまで』と思っている範囲までしか動かない」


本当にそうなのか、分からない。

あのときは、止まらなかった。


──また、あのときみたいに暴れたらどうしよう。


頭の中で、最悪の光景ばかりが浮かぶ。

でも、ここで何もしなかったら、それはそれで「何もしない自分」のままだ。


「……分かりました」


小さく呟いて、右足を半歩前に出す。

重心を少し落として、右腕を引く。


ゆっくりでいい、と自分に言い聞かせる。

早くやろうとすると、きっと何かがこぼれる。


息を吸って、吐きながら、腕を前に出した。


その動きに合わせて、背後の巨人の腕も動く。

鎖がぎしりと鳴り、分厚い拳が空気を押し出した。


風が、頬をかすめる。

ただの空打ちなのに、目をつぶりたくなるような圧。


その瞬間、巨人の足が、ほんの少しだけ前に出ようとした。

鎖が、きつく引っ張られる音がした。


「――っ」


胸の奥が、ザラッと逆立つ。

さっきまで眠っていた何かが、前へ飛び出そうとしている感覚。


「....止まっれ!」


思わず、声に出していた。

自分でも驚くくらい、はっきりした声だった。


巨人の足が、そこでぴたりと止まる。

鎖のきしむ音も、それ以上は大きくならなかった。


拳だけが、僕の少し前の空間で止まっている。

何も殴っていない。

何も壊していない。


それだけのことなのに、少しだけ安堵する。


「はい、そこで深呼吸」


研修官の声が聞こえる。

言われるままに、大きく息を吸って、吐く。


「今、リンクはどんな感じだ?」


「……うるさい、です。 でも、さっきよりは……少し、静かになりました」


胸の奥で、何かがまだ暴れたがっている。

でも、少し遠いところで暴れている感じがする。


「いい。じゃあ、そのまま少しずつ薄くしていこう。 目を閉じて、自分と精霊を繋いでいる線をイメージしてみてくれ」


線。

見えないはずのものを、無理やり頭の中に描く。


胸の奥から背中へ伸びていく、太い鎖。

それを、手で少しずつ緩めていくイメージ。


「……」


息を吐くたびに、その鎖が一本ずつ細くなっていく。

巨人の気配も、少しずつ薄れていく。


──戻ってくれ。


心の中で、そう願う。

命令というより、お願いに近い。


最後の一本の糸みたいなものが、ふっとほどけた気がした。

背後の重さが消える。背中にいた気配が、もうない。


もう、あいつはここにはいない。


「……はぁ」


大きく息を吐いた瞬間、足の力が抜けそうになった。

なんとか踏ん張って、膝に手をつく。


「今日は、ここまででいい。よく頑張った」


研修官の声が、少しだけ優しくなった。


「東郷くんは、前回いきなり実戦で暴走しかけている。 無理に引っ張るのは一番危ない。 まずは今みたいに、『出して』『戻せた』ことを、ちゃんと覚えておいてくれればいい」


「……はい」


自分の声が、自分のものじゃないみたいにかすれていた。


列に戻ると、神崎さんが小声で話しかけてきた。


「最初はみんな、そんなもんだって。 俺なんか1ヶ月もまともに呼び出せなかったんだからいい方さ」


「……そう、なんですか」


「うん。でも、ちゃんと戻ってくれるって分かると、少しだけ気が楽になるよ」


そう言って、神崎さんは爽やかに笑う。

その笑顔も、どこか作り物じみているのに、さっきよりは少しだけマシに見えた。


斜め前では、美桜が何も言わずに腕を組んでいる。

僕の方を見ているのかどうかも分からない。

でも、「へたくそ」とか「むりでしょ」とか、いつもの刺さる言葉が飛んでこないだけ、まだましだった。


──出して、戻せた。


そう繰り返す。

たったそれだけのこと。

何も殴っていないし、誰も救っていない。


でも、あの巨人が、僕の「戻ってくれ」という言葉に従った。

その事実だけが、少し嬉しい。


けれど、

──こいつは、本当に“僕の味方”なんだろうか。


そんな疑問はずっと残ったままだ。


その矛盾した二つの感情が、胸の中でぐしゃぐしゃに絡まりながら、

次の「基礎訓練」の説明だけが、続いていく。


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