第18話 トリックスターとリブラリウム
研修室を出て、前を歩く研修官の背中だけを、なんとなく追いかける。
その横を、関野美桜や神崎さん、百合が当たり前みたいな顔で歩いていく。
「こっちだ」
研修官が一枚の引き戸の前で立ち止まり、横に引いた。
ふわっと、畳の匂いがした。
中は、学校の武道場みたいな部屋だった。
全面が畳敷きで、壁際には木刀や竹刀みたいなものと、スポンジでできた人型の標的が並んでいる。
天井は少し高くて、白い蛍光灯がまっすぐに並んでいた。
──道場。
頭の中で、そう認識する。
でも、僕にとってはテレビの中の世界でしかなかった場所だ。
「靴はここで脱いで」
研修官が入り口横の棚を指さす。
みんなは慣れた動作で靴を脱いで揃え、畳の上に上がっていく。
僕もそれにならって靴を脱ぐ。
畳の感触が、じわっと足の裏に広がる。
柔らかいのに、どこか冷たい。
──本当に、ここまで来てしまった。
そう思う。
でも、もう戻れないところまで来てしまっている気がする。
道場の中央に、白いラインが四角く引かれていた。
その少し手前で、研修官がくるりと振り向く。
「ここからが、基礎訓練だ」
落ち着いた声が、畳の上にまっすぐ落ちる。
「さっき説明した通り、祈戦士の研修は大きく二段階だ。
ひとつは、自分の精霊を扱えるようになるための基礎訓練。
もうひとつは、実戦訓練。今日はまず、基礎の中でも一番大事なところをやる」
──一番大事なところ。
そう繰り返す。
でも、その言葉が、今の僕にはまだ遠い。
「今日の目的は二つだけだ」
研修官は、指を二本立てて見せる。
「ひとつ。精霊を安全に呼び出す”こと。
もうひとつ。精霊とのリンクを切る感覚を覚えること。つまりコントロールする術を身につける」
リンク。
あのとき、精霊を呼び出した感覚を思い出す。
──また、あれをやらなきゃいけないのか。
喉の奥が、きゅっと詰まる。
「精霊は相棒であって、暴れ馬ではない」
研修官は畳の中央に一歩出て、ゆっくりと周りを見回した。
「呼ぶのも、引っ込めるのも、持ち主の責任だ。
呼びっぱなしにしておくのは、精霊にも自分にも良くない。
今日は、『出す』『戻す』の両方を、体で覚えてもらう」
──相棒。
頭のどこかで、その言葉にひっかかりを覚える。
あの暴走をする鎖の巨人が、本当にそんなきれいな言葉で呼んでいい存在なのか、よく分からない。
「まずは、既存メンバーに見本を見せてもらおう」
研修官がそう言って、視線を神崎さんに向ける。
「よし、まずは神崎」
「はーい」
神崎さんは、気の抜けた返事をしながら前に出た。
畳の中央でくるりと振り返り、軽く肩を回す。
「じゃ、さらっといきますか」
彼が何も持っていない右手を、ふっと上に上げた瞬間。
道場の空気が、わずかに変わった気がした。
床の上に、薄い五線譜みたいな光の線が伸びる。
神崎さんの足元には、小さなスポットライトがぽつぽつと灯り、頭上にはミニチュアの舞台セットがくるくる回り始めた。
その中央に、背の高い人影が立つ。
長いコートの裾をひらめかせて、顔には白い仮面。
片手にタクトを持って、もう片方の手からは光の線が糸みたいに伸びている。
──《マエストロ・トリックスター》。
さっき研修室で説明だけ聞いた名前が、ようやく目の前の姿と結びつく。
でも、現物は説明よりもずっと、落ち着かない雰囲気をまとっていた。
「はい、深呼吸」
研修官の声に合わせて、神崎さんが大きく息を吸って、吐く。
それだけで、足元のライトが少し明るくなり、頭上の舞台セットの回転がゆっくりになる。
「今、どうなってるか説明してみろ」
「んー……リンク、七割ってとこですかね。
これ以上上げると、ここで演出やりたくなっちゃうんで」
飄々とした声。
でも、その軽さの裏で、タクトを持つ指先はちゃんと力が入っているのが分かる。
「じゃ、戻すところも」
「了解」
神崎さんは、タクトを軽く振った。
すると、頭上の舞台セットがぱちん、と音を立てたみたいに弾けて、光の破片に変わる。
足元のライトもすっと消え、仮面の指揮者の姿が薄くなっていく。
最後には、さっきまで何もなかった畳だけが残った。
「リンクを薄くして……はい、今のでゼロ。
こうして“ちゃんと戻ってくれる”感覚を覚えるのが、最初の一歩だ」
研修官の言葉に、神崎さんが肩をすくめる。
「最初はみんなビビるさ。俺なんか、出した精霊に殴られかけたし」
「………」
笑い話みたいに言っているけれど、その「殴られかけた」という言葉だけが、やけにリアルに胸に残る。
「次に小池百合」
名前を呼ばれた百合が、無言で一歩前に出た。
小さな身体が、畳の上でまっすぐに立つ。
「……来て」
百合が静かに呟くと、その足元の影がじわっと広がった。
影の中から、フードを被った小さな影の少女が立ち上がる。
胸から下は空洞で、その内側や周囲を、開いた本やページの束、しおりがふわふわと回っている。
ページには、吹き出し付きの漫画みたいなコマが一瞬だけ浮かんでは、すぐに黒く滲んで消えていった。
──《リブラリウム》。
説明で聞いた通りの姿なのに、実物はもっと息苦しく、迫力を感じる。
「百合、リンクの強さは?」
「半分くらい。……これ以上近づくと、うるさいから」
百合の声は淡々としている。
でも、その指先はほんの少しだけ震えていた。
「はい、じゃあ戻して」
百合が小さく息を吐くと、本やページの束が一斉にぱらぱらとめくれ、影の少女の身体の中に吸い込まれていく。
フードの縁も、縫い目からほどけるみたいにほどけて、やがて畳の上には百合の影だけが残った。
「……以上」
短くそう言って、百合は列に戻る。
神崎さんと百合の精霊が、何事もなかったみたいに現れては消えていった。
夢みたいな光景が、目の前の畳の上で当たり前みたいに繰り返されている。
──ここは、もう「普通」の世界じゃない。
ようやく、その事実だけははっきりする。
足の裏から、じわっと汗がにじんだ。
同じ畳の匂いなのに、さっきよりも重く感じる。




