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第11話 誰かの心の世界



眩しい光が、視界を白く染めていく。


目を開けたとき、僕は空中に浮かんでいた。


足場の感覚がない。

ふわふわとした浮遊感。

下を見下ろすと、そこは満員ではないが、くたびれた通勤電車の車内だった。


座席には、スーツ姿の人々が俯いている。

スマホの光や、吊り広告だけが、やけに強調されて見える。

誰も、僕の方を向かない。誰も、僕が浮かんでいることに気づかない。


まるで人の空から見ているような不思議な感覚だった。


「……ここは」


「ここは、さっきの人の『中』よ」


隣には、奈津紀さんがいた。奈津紀さんも僕と同じように宙に浮いていた。

その目は、冷静だった。それ以上は、口を挟まない。


さっきの人。

あの、血に濡れた中年の男。

ここがその人の心の中なのか...??。


頭の中で、「心の中に入る」という言葉が、ぐるぐる回っている。

でも、今目の前にあるのは、明らかに電車の車内だった。

現実の、どこかで見たことのある風景。


車両の中央付近、窓際の席に、一人の中年男性が座っている。

三十代後半。細身。メガネ。くたびれたスーツ。

視線は、足元に落ちたまま動かない。


あの人だ。

さっき、僕が殴った人。


その人の少し離れた位置に、関野美桜が現れた。

普通に床に立っている。現実と同じ制服。

でも、その存在だけが、内世界の空気と少しズレて明るく見える。


彼女は、そっと男性の前にしゃがみ込み、目線の高さを合わせた。


「大丈夫、あなたは一人じゃないから。私に、苦しみを話してみて」


その声は、いつもよりも柔らかかった。

音楽室で僕を殴ったときの、あの冷たい声とは違う。


その瞬間、電車が動き出した。


窓の外の真っ暗な風景が、流れていく。

電車が、どこかへ向かっている。


窓の外を見ると、そこは学校の校舎だった。

電車の車内が、教室に変わっていく。


別の電車の場面が、流れ出していく。

学生時代の、あの人らしき少年が、同じような電車内でクラスメイトにからかわれている。


「おい、誠。また一人で帰るのかよ」


「地味だな、お前。本当に空気だな」


「真面目に勉強してるだけじゃ、何も変わらないぞ」


笑い声が、周りから響く。

少年は俯いたまま、何も言わない。

握りしめた手が、小さく震えている。


「なんで、俺だけ……」


その声が、かすかに聞こえる。

でも、誰も聞いていない。

誰も、気づいていない。


座席上の広告スペースには、「評価」「努力で未来を変えろ」といった標語が貼られている。


──これは、映画じゃない。

誰か一人の、人生だ。


頭の中で、そう思った。

でも、声には出せない。

ただ、見ていることしかできない。


「助けたい」と思うくせに、僕は何もできないで、ただ見ているだけだ。

そう、いつもと同じように。

頭のどこかで「自分も世の中なんて良いものじゃないと思っている」と思う。でも、ここまで追い詰められたことなんて、なかった。


電車が、また動き出した。

窓の外の風景が、流れていく。

学校の校舎が、消えていく。


電車が、ゆっくりと停車する。

窓の外を見ると、そこは学校の教室だった。

電車の車内が、教室に変わっていく。


教室の隅で、目立たない少年。

真面目にノートをとる。

でも、クラスメイトには「地味」「空気」と笑われる。


「誠って、本当に何もないよね」


「才能もないし、面白くもないし」


「真面目にしてるだけじゃ、何も変わらないよ」


笑い声が、教室に響く。

少年は俯いたまま、ノートを書き続ける。

でも、その手は震えている。


休み時間。

少年が、自分の机の前に戻ると、筆箱がなくなっていた。

探しても、見つからない。

隣の席の生徒が、クスクス笑っている。


「あれ、筆箱ないの? もしかして、なくした?」


「……さっき、ここにあったのに」


「へー、そう。でも、俺は知らないよ」


笑い声が、周りから聞こえてくる。

少年は、俯いたまま、何も言えない。


給食の時間。

少年の食器が、わざと落とされて割れる。

「あ、ごめん。手が滑っちゃった」


「……大丈夫です」


「でも、割れた食器、どうするの? 弁償してもらう?」


笑い声が、教室に響く。

少年は、俯いたまま、割れた食器を拾い集める。

その手は、震えている。


放課後。

ロッカーを開けると、中身が全部散らばっていた。

ノートは破られ、教科書は汚れている。


「……なんで、こんなこと……」


「あれ、どうしたの? もしかして、誰かがやったの?」


「……分かりません」


「へー、そう。でも、俺は知らないよ」


笑い声が、廊下に響く。

少年は、俯いたまま、散らばった物を拾い集める。

その手は、震えている。


──誰も、助けてくれない。

誰も、気づいてくれない。

誰も、止めてくれない。


「特に才能もなく、目立たない人間。真面目にしてるだけなのに」

その声が、車内アナウンスのように響く。

「なんで、俺だけ、こんなに……」


──なんで、俺だけ、こんな目に遭うんだ。

なんで、誰も助けてくれないんだ。


電車が、また動き出した。

窓の外の風景が、流れていく。

学校の教室が、消えていく。


電車が、ゆっくりと停車する。

窓の外を見ると、そこはオフィスビルだった。

電車の車内が、オフィスの風景に変わっていく。


あの人が、書類を運び、頭を下げ続ける姿。


「お前、これ、やり直し」


「なんで、こんなこともできないんだ」


「お前のせいで、部署の評価が下がった」


怒鳴られても、笑ってごまかしてきた。

「すみません」「申し訳ありません」

何度も、頭を下げてきた。


「真面目に、言われたことをこなしてきた。怒鳴られても、笑ってごまかしてきた」

その声が、重く響く。


吊り広告の一枚が、会議室に変わる。

上司が、淡々と説明する。


「君の部署は、数字が低いんだ」

「君のポジションは、不要になった」


あの人は、俯いたまま、「はい」としか答えられない。

その手は、膝の上で震えている。


「真面目なだけで君は使えない。でも、それだけじゃ、ダメなんだよ」


──なんで、真面目にやってきただけなのに。

なんで、俺だけ、こんなに……


その声が、心の中で繰り返される。

でも、誰も聞いていない。


電車が、また動き出した。

窓の外の風景が、流れていく。

オフィスビルが、消えていく。


電車が、ゆっくりと停車する。

窓の外を見ると、そこは葬儀場だった。

電車の車内が、葬式の場面に変わっていく。


車内の蛍光灯が、ゆっくり暗転する。

代わりに、線香の匂いと、僧侶の読経が満ちる。


棺の中には、一人の若い男性。

あの人が、スーツ姿で立ち尽くしている。


「……なんで、お前だけ……」


その声が、かすかに聞こえる。

親友は、ただの「お金持ちの息子」に車ではねられて死んだ。

信号無視。

でも、相手は「過失」だけで済んだ。

お金で、解決した。


「なんで、お前がこんな目に。俺がどんなに苦しくても一緒に笑い合える唯一の友達だった。俺はこの先どうすればいい?全てを無くした。なんで俺の人生だけこんなに上手くいかないんだ。」


あの人は、棺の前で、拳を握りしめている。

でも、何も言えない。

何も、できない。


──理不尽だ。

理不尽すぎる。

なんで、真面目に生きてきた人間だけが、こんな目に遭うんだ。


──なんで、俺だけうまくいかないんだ。


あの人の内心の声が、断片的に流れ続ける。

悲しみ。理不尽。焦燥。不運。嫉妬。羨望。

うまくいかないことへの、フラストレーション。


「俺は、こんなに真面目に働いてきた」

「なのに、リストラされた」

「親友は、理不尽な事故で死んだ」

「なんで、俺だけ、こんなに……」


「世の中には、ただ運が良かっただけで遊んで暮らしている奴もいる」

「なんで、俺だけうまくいかないんだ」

「くそみたいな奴が幸せな世の中は、クソだ」


その声が、どんどん大きくなっていく。

怒り。

悲しみ。

絶望。


──もう、いい。

もう、何もかも、どうでもいい。


その瞬間、あの人の体から、黒いもやが溢れ出していく。

怪物に、変わっていく。


電車が、また動き出した。

窓の外の風景が、流れていく。

葬儀場が、消えていく。


電車が、ゆっくりと停車する。

再び、電車の車内に戻る。

中年のあの人は、うなだれたまま拳を握りしめ、震えている。


関野美桜は、彼の真正面に座り直し、そっと問いかけた。


「大丈夫、あなたは一人じゃないから」


あの人は、顔を上げない。

「……もう、いいんだ」


「いいわけないでしょう。あなたは、こんなに苦しんでいたんでしょう?」


「……苦しんでたって、何も変わらない。誰も、助けてくれなかった」


その声は、かすれていた。

でも、怒りが、にじみ出ている。


「真面目にやってきた。なのに、リストラされた。親友は、理不尽な事故で死んだ。なんで、俺だけ、こんなに……」


「世の中は、クソだ。真面目に生きてきた人間だけが、こんな目に遭う。くそみたいな奴が、幸せに生きてる。そんな世の中、もう疲れたんだ」


美桜は、その言葉を、否定も肯定もせず、ただ聞いている。


「……でも、それで全部壊していいわけじゃないでしょう?」


「いいんだよ。もう、どうでもいい。全部、どうでもいい」


「あなたは、本当にそう思っているの?」


あの人は、顔を上げた。

その目には、涙が浮かんでいた。


「……分かってほしかった。誰かに、分かってほしかったんだ」


その声が、震えていた。


「分かってる。だから、私に話て」


美桜は、そっと手を差し出した。


「あなたは、本当に苦しんでいたのね。学校でも、会社でも、ずっと。誰も助けてくれなくて、誰も気づいてくれなくて」


あの人は、俯いたまま、何も言わない。


「でも、あなたは一人じゃない。今、ここに、私がいる。あなたの苦しみを、全部聞くから」


「……聞いてくれたって、何も変わらない」


「変わるかもしれない。少なくとも、あなたの苦しみを、誰かが分かってくれた。それだけでも、少しは楽になるかもしれない」


「……楽になんて、ならないよ」


「そうかもしれない。でも、試してみませんか?」


美桜は、微笑んだ。

その笑顔は、優しかった。


「あなたは、真面目に生きてきた。それだけで、十分すごいことだと思う。誰も認めてくれなかったかもしれないけど、私は認める。あなたの頑張りを、全部認める」


あの人は、顔を上げた。

その目には、涙が浮かんでいた。


「……本当に、そう思ってるのか?」


「思ってる。だから、もう一度だけ、生きてみませんか?今度は、一人じゃない。私が、あなたの味方になる」


美桜は、そっと手を差し出した。


「生きていれば、きっと辛いこともあるけど、楽しいことも、幸せなことも、これから待っている。……ほら、私の手を握って」


あの人は、ためらった。

でも、美桜は微笑んで、手を差し出し続ける。


「……大丈夫。もう、一人じゃないから」


その言葉に、あの人は、ゆっくりと手を伸ばした。

恐る恐る、その手を握った。


その瞬間、車内に眩しい光が溢れた。


窓の外の真っ暗な景色が、少しだけ色を取り戻す。

僕はその光に目を細め、「戻される」感覚とともに、現実のマンションの部屋へと引き戻された。



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