第10話 ダークメンシェの正体って...
真っ白だった視界が、じわじわと色を取り戻していく。
最初に見えたのは、床に広がった暗い紅色だった。
血。
それが、自分の手の下でじわじわと広がっている。
「……っ」
声が出ない。
自分の手を見る。
拳が、血でべっとりと濡れている。指の関節が、殴りつけた衝撃で痛む。
その手の下に、何かがある。
誰かが、倒れている。
「……え?」
僕は、自分が誰かの胸のあたりに跨っていることに気づいた。
中年の男。
服は破れ、顔には殴られた痕と血がにじんでいる。
目は閉じていて、呼吸が浅い。
──怪物を、殴っていたはずだ。
体が勝手に暴走をし、巨人というべき何かを身に纏い、無意識のうちに。
そう。
黒いもやに包まれた、あの怪物を殴っていた。
でも、今目の前にあるのは、明らかに人間の身体だった。
人間の顔。人間の服。人間の血。
「……なんで、人が……」
言葉が、喉の奥で千切れる。
頭の中で、「僕は怪物を殴っていたはずだ」と繰り返す。
でも、視界にあるのは、血に濡れた人間の身体だけだった。
混乱と嫌悪が、胸の奥からこみ上げてくる。
吐き気が、喉の奥までせり上がってきた。
「勇気、離れて! もういい!」
誰かの声が、背後から聞こえた。
関野美桜の声だった。
体を動かそうとした瞬間、全身に激痛が走った。
腕。肩。背中。
殴りつけた反動か、それとも別の何かか。
初めてあんな巨人みたいな何かを身に纏った反動で、体中の筋肉が悲鳴を上げている。
「……っ、ああああ!」
痛みに、思わず声が出た。
その瞬間、背中から強い力で引き剥がされる感覚がした。
誰かの手が、僕の肩と腕を掴んで、後ろへ引っ張る。
美桜と奈津紀さんが、必死に僕をその人の上から引き離してくれている。
「離れなさい!」
別の声がした。
奈津紀さんの声だった。
複数の手が、僕の体を押さえ込んでいく。
肩。腕。背中。
必死に、僕をその人の上から引き離そうとしている。
「……っ、は……」
息が、うまく吸えない。
肺が、空気を拒むみたいに縮こまっている。
頭の中で、「僕の手が、誰かの血で濡れている」という言葉だけが、ぐるぐる回っている。
「勇気くん、落ち着いて。今は、深呼吸して」
奈津紀さんが、僕の顔を覗き込んできた。
その目は、冷静だった。でも、どこか疲れているようにも見えた。
「……僕、怪物を……殴ってた、はずで……」
頭の中で、さっきの記憶がよみがえる。
鎖の巨人。
僕の意思なんて関係なく、暴れ続けていたあの巨人。
あいつは何なんだ。
僕が、暴走させたのか。
「……なんで、僕が……あんなに、暴れていた……」
「分かってる。でも、今は落ち着くこと」
奈津紀さんは、僕の肩に手を置いた。
その手の温かさが、少しだけ現実に引き戻してくれる気がした。
「今度は、中でやるの」
「……中で?」
「この人の、心の中に入るのよ」
心の中に入る。
その言葉の意味が、すぐには理解できなかった。
「で、でも……心の中に、入るって……そもそも、何がどうなってるんですか」
声が、思ったより強くなっていた。
自分でも驚くくらい、食い気味に聞いていた。
頭のどこかで、「今さら聞いてどうするんだ」と冷めた自分が呟く。
でも、分からない。何もかも、分からない。
「僕は、ただ見学として見に来ただけなんです。なんで、こんなことに……」
「分かってる。でも、もう後戻りはできないのよ」
「祈戦士は、ダークメンシェの外殻を削って、内側のその人自身のもとへ入り込むの。痛みを少しだけ肩代わりする役目よ」
奈津紀さんの説明が、頭の中を素通りしていく。
そんなこと、できるのか。
そんなこと、していいのか。
頭の中で、「心の中に入る」という言葉だけが、ぐるぐる回っている。
そもそもダークメンシェってなんだ?
もしかして、人なのか。
だとしたら、僕はただ人を殴りつけていたのか...。
「行くよ、勇気」
彼女の声が、震えていた。
その目には、動揺の色が浮かんでいた。
「今度は、ちゃんと話を聞きに行く。この人の本当の声を、聞きに行く」
でも、どうやって。
心の中に、どうやって入るんだ。
「祈って」
美桜が、そう言った。
「……祈るって、何を?」
「この人のために、祈るの。その人の痛みを、少しだけ分けてほしいって」
祈る。
痛みを。
その言葉の意味も、よく分からなかった。
でも、美桜の目は真剣だった。
逃げられない、という確信に満ちていた。
「急がないと、せっかく壊した外殻が再生して、内側が閉じちゃうから」
奈津紀さんが、そう付け加えた。
訳もわからないまま、僕は目を閉じた。
この人のために、祈る。
痛みを、少しだけ分けてほしい。
誰かの手が、僕の額に触れた。
その瞬間、視界がぐにゃりと歪んだ。
頭のどこかで、「やだ、やだ、やだ」と小さく叫ぶ自分がいる。
でも、体は言うことを聞かない。
部屋の景色が、ぼやけていく。
床に広がった血の色が、遠くへ引き伸ばされていく。
倒れている人の姿が、見えなくなっていく。
「……っ」
声を出そうとしても、出ない。
体が、どこかへ引きずられていく感覚。
下へ。
深く。
暗い場所へ。
取り押さえられたまま、僕は、この人の「心の世界」へ落ちていった。




