第1話 なぜ殴られた??
※更新:月〜金 20:30予定
※本作は「精霊契約×心象救済×終末バトル」です
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ぱん、と乾いた音がした。
左の頬に、誰かの手のひらの形そのままの衝撃が突き刺さる。
世界が一瞬だけ跳ね上がったみたいに、視界がぐらりと傾いた。
足がもつれて、一歩、後ろへ滑る。背中が扉に軽くぶつかって、金具のひやりとした感触がシャツ越しに伝わった。
右手からプリントが抜け落ちて、床の上をばさっと滑っていくのが、変にスローモーションに見える。
何が起きたのか、一瞬分からない。
遅れて、左の頬がじんじんと熱くなっていく。痛みに変わって、自分が殴られたのだとようやく気づく。耳の奥では、さっきの音が鈍く、いつまでも響いていた。
もし、誰かに向けた優しさが、かえってその人を傷つける世界だったとしたら。
そんなの、少し寂しいと思う。優しさは誰かを救うためのものであって、傷つけたり、怒らせるためのものじゃないはずだからだ。
──じゃあ、どうして僕は、いきなり殴られたんだろう。
***
あのときのことを思い出す。
少しだけ時間を巻き戻して、僕が音楽室にたどり着く前を思い出す。
放課後の学校は、昼間よりも静かだった。
窓ガラスの向こうに、オレンジ色の夕焼けが広がっている。廊下には誰もいなくて、自分の足音だけがやけに響いていた。
僕は、音楽室の前で立ち止まった。
ドアの向こうから、ピアノの音が漏れている。
強く叩きつけるみたいな和音と、すぐあとに続く、細くて長い音の流れ。曲名なんて分からないけれど、聞いたことのあるフレーズだった。多分、有名なクラシック。中途半端な教養で「これ、ショパンかな」とか思ってみるけど、答えは知らない。
掃除当番のことを伝えに来た。建前としては、それが目的だ。
今週の担当表。連絡されていない名前。職員室で先生に頼まれて、「じゃあ、持っていきます」と反射的に答えてしまった自分。
本当は「なんで僕なんですか」くらいは言えたはずだ。でも、そうやって小さく抵抗することさえ、正直めんどくさかった。どうせ誰かがやるだけの雑用で、僕じゃなくてもいいし、僕じゃなくても世界はちゃんと回る。
それに、もしここで「嫌です」と言ったところで、「そういうのは順番だから」とか「みんなやってる」とか、決まり文句みたいな言葉で押し返されるのがオチだ。世界はだいたい、そういうふうにできている。だから、言われた通り紙を持って歩いている。
無駄な抵抗はしない。
それが、僕なりの処世術だ。
本当はそれだけじゃない、と心の奥で冷静な自分が問いかけてくる。
関野美桜。
最近、僕のクラスに転校してきたばかりの女子だ。
初日の自己紹介のあと、クラスの中心グループの女子といきなり言い合いになって、そのまま教室の空気を一瞬で凍らせた。そのせいで、あっという間に「ちょっとやばい転校生」というラベルを貼られた。
……正直、関わりたくないタイプだ。面倒事に巻き込まれるのはごめんだ。僕は、できるだけ目立たず、波風を立てずに高校生活を終えたい。
誰かがクラスの真ん中で燃えていても、端っこで静かに座っていれば、火の粉はギリギリ飛んでこない。それくらいの距離感で生きていれば、余計な傷も負わずに済む。
でも、彼女の名前は、別の噂とセットで僕の耳に残っていた。
──祈戦士なんじゃないか。
「祈戦士」なんて言葉、普通に生きていたらまず聞かない。ニュースでそんな単語が出てきたことなんて一度もないし、公式な説明だって聞いたことがない。ただ、ネットの端っこや、まとめサイトのコメント欄のさらに奥でだけ囁かれている、よくある都市伝説の一つだ。
それが本当に「職業」なのかどうかすら曖昧だけれど、そういう存在がいる、という噂だけはある。
関野美桜が「やばい転校生」だとレッテルを貼られたのと同時に、彼女がよく早退や欠席を繰り返すことから「なんか仕事でもしてるんじゃね?」「あの噂の戦うやつ?」と、一部のクラスメイトのあいだでそんな話が出始めた。 いわゆるオカルト話。
「そんなはずねぇだろ」と大多数は笑っていたし、全体の総論はそういうふうに落ち着いた。
そう、そんな存在、いるはずないんだ。
それでも僕には、その名前にだけ心当たりがあった。
母が昔、誰かと話しているときに、一度だけその言葉を口にしたことがある。
何かと戦って、人を救う仕事。
──そして、母がやっていた仕事。
クラスで誰かが「関野って、あの祈戦士ってやつなんじゃね?」とふざけ半分に言ったとき、胸の奥が妙にざわついた。
だから僕は、掃除当番の紙を口実に、その噂が本当なのかどうかを確かめに来た。
本当に興味本位だ。そんなことを確認する義理も義務もない。
母親のことなんて、もう覚えていない。顔も声も。
それでもなぜか僕はそれを確認したいと思ってしまっていた。
僕は、ドアのすりガラス越しに、中を覗いた。
グランドピアノの横に、椅子に座る細い関野美桜の背中が見える。
肩までの黒髪が、少しだけ揺れている。横から差し込む夕日のせいで、髪と肩がうっすら明るく見えた。
指先が鍵盤の上を滑っていく。
硬い和音が打ちつけられたかと思うと、そのあとに低く静かな音が続く。教室の中は、その音に支配されたみたいだった。
関野美桜は、無表情だ。
少なくとも、横顔からは何も読み取れない。楽しそうでも、悲しそうでもない。ただ、そこにある鍵盤を、決められた順番で叩いているだけ。
それでも、僕のどこかは、ざわついていた。
母と同じ仕事。
人を救う仕事。
優しい人しか、できない仕事。
「……すごい、よな」
小さく呟いて、すぐに黙る。
そもそも、なぜ僕はここに行かなければならないのか。
掃除当番の紙なんて、先生が直接渡せばいいのに。僕じゃなくてもいいのに。
頭のどこかで、「好奇心だけで来ただけだろ」と冷めた声が言う。
でも、別に彼女に迷惑をかけるつもりはない。ただ、祈戦士っていうものが本当に存在するのか?関野さんは本当に祈戦士なのか?もし、そうならどんなことをしているのか?
そんな概要だけが知りたいだけだ。
……それを「知りたいだけ」って言ってる時点で、やっぱり外側の人間だ。
曲が一区切りついた。
最後の和音が伸びて、空気の中に溶けていく。残響が消えるまでの数秒が、やけに長く感じられた。
今しかない。
僕は、ドアノブに手をかけた。
深呼吸を一つしてから、ゆっくりと扉を開けた。
「…………」
蝶番が小さくきしむ音だけがした。 ピアノの演奏が止まった。
ピアノの椅子に座ったままの彼女が、こちらを一度だけ見た。
黒目がちの瞳。
まつ毛が長くて、整った顔立ち。
クラスに来た初日、その顔を見ただけで教室が一瞬ざわついたくらいには、綺麗で、いわゆる「可愛い」側の人だ。最初はクラスメイトも期待していたようだが、その「可愛い」ってラベルより何倍も「やばい」ってラベルが強くなった。そして、いまはもう、誰もそれを口に出さないけれど。
光を反射しない、暗い色。すぐに視線が鍵盤に戻る。
まるで僕が見えていない存在かのように、無視して、演奏を再開する。
「あの、その……」
情けない声が、勝手に口から出た。止めようと思っても止められなかった。
頭のどこかで、「まただ」と冷めた自分が言う。こういう時に情けない声しか出せない自分。ちゃんと頭では話しかけているつもりでも、なぜか情けなく口ごもってしまう。
でも、口は勝手に動いている。
自分の嫌いな部分だ。
「こ、これ……今週の掃除当番の、プリントで……」
右手に握りしめていた紙を、前に差し出す。
印刷された表の、自分の指の跡で少しくしゃっとなっている角。手が、わずかに震えていた。震えているのが分かって、さらに指先に力を入れる。
彼女は、ピアノから手を離さないまま、こちらを見た。
表情は変わらない。むしろ、少しだけ眉が寄った気がした。
「……掃除当番?」
低い、冷めた声だった。
ピアノの音が止まったあとの音楽室には、その一言だけが浮いて聞こえる。
「はい。今週の……ここ、関野さんの名前があって。その、伝わってないって先生が……」
「あっそ」
素っ気ない返事だった。
それきり興味を失ったみたいに、彼女の視線がプリントから外れる。
「その……ちゃんと守ってくれないと、困るんだよ。って先生が……」
自分でも、誰の困り顔を言い訳にしているのか分からないまま、言葉だけが続く。
「そんな事を言いに、わざわざここに来たの?」
「いや、その……」
「あんたが困るの?先生が困るの? それとも、“ちゃんと伝えに来た自分”が偉いって言われたいだけ?」
胸の奥が、ひやっと冷たくなった。
「い、いや、別に、偉いとか、そういうつもりじゃ──」
「掃除当番なんて、ルールを守りたいヤツが勝手にすればいいのよ。それに今じゃ掃除ロボットなんてあるんだから、生徒が掃除するなんて意味ない」
吐き捨てるみたいな口調だった。
本当は、「祈戦士なんですよね」とか「噂で聞きました」とか、そういう言葉を用意していたはずなのに。全部、喉の奥で絡まって、出てこない。
彼女はゆっくりと立ち上がった。
椅子がわずかにきしむ。
そして、こちらに歩いてくる。
制服のスカートの裾が、かすかに揺れた。
近づくにつれて、彼女の顔の輪郭がはっきりしてくる。睫毛の長さとか、唇の薄さとか、そういうどうでもいい部分ばかりが目に入ってしまう。
「要件はもう終わり?なら帰って」
目の前まで来て、彼女は首を少しだけ傾けた。
「掃除当番の話は、もういいでしょ。私はやらない」
淡々とした口調だった。
紙に書かれた名前にも、先生の都合にも、これ以上興味はないと言っているみたいだった。
「で、本当は?それだけ言いに来たの?」
喉の奥で、さっき飲み込んだ言葉たちが、もう一度ざわつき始める。
本当の理由は、別にある。掃除当番の紙なんて、そのための口実に過ぎない。
沈黙が、数秒続いた。
音楽室の時計の針の音がやけに大きく聞こえる。
いっそのこと、このまま何も言わずに紙だけ置いて帰ればいい。
そうすれば、何も起きない。二度と話すこともない。ただのクラスメート同士に戻れる。
厄介ごとに巻き込まれずに。
……でも。
「その……」
舌が乾いている。
喉がひりひりする。
「君って、その……祈戦士、なんですか?」
声が少し上擦った。
彼女のまつ毛と目が、ほんの少しだけ見開かれる。
空気が、きゅっと固くなるのが分かった。
「ネットの隅の噂で、その……見たことがあって。もしそうなら、すごいなって。人を、救う仕事っていうか……」
言葉が勝手に転がり出ていく。
止められない。
止めるべきなのに。
「僕なんて、何もないから。だから、その……すごいなって思って……」
「……なんで、その名前、知ってるの」
短い問いかけだった。
でも、その中に含まれていたものは、さっきまでの冷たさとは違っていた。
苛立ち。
呆れ。
怒りみたいなもの。
彼女は、僕の目を真っ直ぐに見た。
さっきまで光を反射していなかった瞳の奥に、今ははっきりとした火が見えた気がした。
「祈戦士なんて、部外者のあんたが知ってていい名前じゃないのよ」
その言葉には、「本当に自分が祈戦士であること」という情報と「本当は知られたくなかった」という気持ちと、「もう隠しきれないところまで来ている」という諦めみたいなものが、ぐちゃぐちゃに混ざっているように聞こえた。
「なんで、あんたが知っているのか答えて」
「それにニュースでも教科書でも出てこない名前を、“ネットの隅で見たから知ってます”って顔で言われるのが、一番むかつくの」
立て続けに彼女が口を開く。
言葉の選び方を間違えれば、そのまま刃物になるんだと、今さらのように思う。
さっきまで自分が軽々しく口にしていた「すごい」という一語も、その刃の一つだ。
「それに、祈戦士って“すごいね”って。あんた、今そう言った?」
「あ、その、いや……」
「外から眺めて“すごいね”って言ってるだけのくせに」
声が少しだけ震えていた。
でも、それは僕みたいな弱さじゃなかった。ずっと溜めていた何かが、堰を切って溢れ出しそうになっている震えだった。
「”あんなの”の何が分かるって言うのよ」
あんなの。
その言い方が、耳に刺さる。
「どうせあれでしょ!ニュースで流れてる、救助隊の人が、救助している綺麗に編集された災害映像と『関係機関が対応しました』っていうよく分からないナレーションだけ見て、“人を救う仕事でしょ、すごいね”って。そういう感想ってことでしょ」
「現場に行くとき、どんな顔してるかも知らないくせに。戻ってきたとき、どんな顔になってるかも見たことないくせに」
言葉が刃物みたいに、ひとつずつ投げつけられる。
「それなのに、“すごいね”って。安全なところから見てるだけで、分かったような顔して」
彼女は一歩、僕に近づいた。
もう、逃げ場はない。
「殴られて、傷だらけになって、眠れなくなって、吐きそうになりながら、それでも行くしかない現場のことなんて、何も知らないくせに」
そんな具体的な言葉が、どうして高校生の口から当たり前みたいに出てくるのか、一瞬だけ理解が追いつかなかった。
「で、でも、僕は別に──」
「別に何?」
食い気味に、言葉を切られた。
喉の奥で何かが引っかかったみたいになって、次の言葉が出てこない。
「あんたに何が分かるって言うのよ」
彼女の声が、はっきりとした怒りを帯びる。
頭のどこかで、「その通りだな」と冷めた自分が呟いた。
反論なんて、何一つ持っていなかった。
母のことだって、ちゃんと見ていたわけじゃない。ただ、小さい頃のぼんやりした印象だけで、「優しい人だった」とか「すごい人だった」とか、勝手にラベルを貼っているだけだ。
「掃除当番だって同じ」
彼女は、僕の手の中のプリントを指で弾いた。
「ルールを守りたい人が勝手にやればいいだけ。わざわざ“偉いね”って言われたいわけじゃない。祈戦士も同じ。別に“すごいね”なんて言われたくてやってるわけじゃない」
言葉の一つ一つが、針に刺されるみたいに痛い。
「……あんたの“すごいね”なんか、いらない」
そう言った瞬間、彼女の表情が一瞬だけ歪んだ。
怒りだけじゃない、別の何か。
悔しさとか、哀しさとか、そういうものが混ざった顔。
次の瞬間だった。
「あんたに何が分かるって言うの!!」
ぱん、と乾いた音が、音楽室に響いた。
視界が大きく跳ねて、床と天井の境目が一瞬わからなくなる。
足が勝手に後ろへ逃げて、一歩ぶんよろめいたところで、背中が扉にぶつかった。
その衝撃で、握っていたプリントが指の間からこぼれ落ちる。ばさっと広がって、床の上を白い紙だけが滑っていった。
何が起きたのか、一瞬分からなかった。
左の頬に、強い痛みが走っている。
遅れて、耳の奥でじん、とした音が広がった。
叩かれた。
殴られたんだ、と認識するまでに、数秒かかった。
最初に浮かんだのは、「なんで」という疑問でも、「ひどい」という文句でもなかった。
ただ、胸のどこかが勝手に「ああ、そうか」と妙な諦めだけだった。
外側から「すごいね」なんて薄っぺらい言葉を投げておいて、何も背負わないままでいようとしたから、なのかもしれない。
一瞬だけ「そんなに怒らなくても」と思いかけて、すぐにその考えに自分で顔をしかめる。
それが本当に理由なのかどうか、自分でもよく分からない。ただ、そう考えた方がまだマシな気がした。
「出て行って!!」
彼女の声が、少し遠くから響いた。
足元がふらつく。
「二度と、ここに来ないで」
その言葉だけを残して、彼女は僕の横を通り過ぎていった。
ドアが乱暴に開けられて、廊下の光が差し込む。すぐに、閉まる音がした。
音楽室に、静けさが戻る。
床には、さっき弾かれたプリントが落ちていた。
自分の名前と、彼女の名前と、その他大勢のクラスメートの名前が整然と並んでいる。ほんのささいな紙切れ。
本当は、誰が持ってこようが同じ仕事だ。僕じゃなくてもいい。
なのに僕は、そこに自分だけの特別な意味をくっつけて、「母と同じ仕事の人に会いに行く物語」みたいに勝手に変えていた。
頭のどこかで、「やっぱり僕、馬鹿みたいだな」と冷めた声が言った。
本当の彼女のことは、結局ほとんど何も知らない。
今ここでどれだけ考えたところで、想像以上のところには届かないんだろうな、という気もする。
だったら、もうこれ以上考えない方がいい。
そう自分に言い聞かせて、僕は自分にケリをつける。




