子を成さぬと追放された「不吉な女」ですが、捨てられた辺境で賢者の力を手に入れました
冷たい雨が降りしきる夜だった。
エリザベート・フォン・エルシュタインは、泥だらけになったドレスの裾を握りしめ、ただ立ち尽くしていた。数時間前まで、彼女は王都の社交界の中心にいたはずだった。だが、今は違う。馬車の扉が乱暴に開かれ、そのまま突き飛ばされた彼女は、土砂降りの雨と、見慣れない森の暗闇の中に放り出されたのだ。
脳裏に蘇るのは、華やかな舞踏会での光景だ。
シャンデリアの輝きが、眩しいほどに煌めく広間。
そこに、凛とした声が響き渡った。
「エリザベート・フォン・エルシュタイン。貴様との婚約を、本日をもって破棄する」
第一王子レオナードの声は、冷たく、感情が一切こもっていなかった。王族らしい威厳に満ちたその声は、広間のざわめきを一瞬で静寂に変えた。
視線が、一斉にエリザベートに注がれる。嘲笑と憐憫が入り混じった、冷たい眼差しだ。
「大司教いわく貴様は、子を成さぬ不吉な体質だそうだ。そのような瑕疵ある女が、我が国の王妃となるなど、あってはならぬ。……二度と、私の前に姿を見せるな」
彼は、エリザベートの存在を、まるで些細な埃のように振り払った。その横には、妹のマリアンヌが、勝利の笑みを浮かべて立っている。マリアンヌは、エリザベートを見つめ、満面の笑みを浮かべた。
「お姉様、残念でしたわ。王子様は、私のような健全な娘がお好みだったようですもの」
彼女の言葉は、エリザベートの心臓をナイフでえぐり取るようだった。
エリザベートの体質が発覚してから、家族の態度は一貫していた。彼女の存在は、まるで家にこびりついたシミのように扱われ縁を切られてしまった。
父は彼女を「エルシュタイン家の恥」と罵り、母は「どうしてこんな子を産んでしまったのか」と嘆いた。ほどなくしてエリザベートは、家を追い出される事になった。
「……わたしは、誰にも必要とされない……」
孤独と絶望が、彼女の心を深く蝕んでいく。
そんな時だった。
草むらがガサガサと音を立て、一匹の白い獣が現れた。まるで犬のように人懐こく、警戒する彼女の足元に、濡れた鼻を優しく押し付けてくる。その瞳は、不思議な光を宿していた。
「あなたも、一人なの?」
エリザベートがそう問いかけると、獣は「クゥン」と鳴いて、彼女の手に頭をこすりつけた。その温かさに、彼女の心に小さな光が灯る。彼女は迷うことなく、その獣を「シロ」と名付け、一緒に歩き始めた。シロは、彼女が疲れ果てて座り込めば、そっと寄り添い、道に迷いそうになれば、正しい道へと導いてくれた。
やがて、たどり着いた場所は、荒れ果てた廃墟だった。それでも、エリザベートは絶望しなかった。シロがいてくれる。それだけで、彼女は十分だった。
◆
数週間が経った。荒れ果てた土地を耕すエリザベートの手のひらは、すっかり硬くなっていた。それでも、彼女は満たされていた。シロがそばにいてくれるだけで、彼女は頑張ることができた。
「この種、ちゃんと芽が出るかな。シロ、見ててね」
彼女が小さな種を土に植えながら、隣に座り込むシロに話しかけた。シロは「クゥン」と鳴き、彼女の膝に頭を乗せてくる。その愛らしい仕草に、彼女はふっと笑みをこぼした。その笑みは、追放されて以来、初めて心からこぼれたものだった。
その時、一瞬、辺りの空気が変わった。草木のざわめきが止み、木漏れ日が差し込むはずの空間が、濃密な魔力によって満たされていく。息苦しささえ感じるほどのその圧力に、エリザベートは身構え、シロは彼女の背後に隠れるように身を寄せた。
そして、影が落ちた。
振り返ると、そこに立っていたのは、漆黒のローブを纏った青年だった。銀色の髪が風に揺れ、その瞳は、まるで星々を閉じ込めたかのように深い紫色に輝いている。彼は、まるで世界から切り離されたかのように静かに、そこに立っていた。
「……賢者の守護獣か。ようやく見つけた……」
彼が呟くと、シロは警戒するどころか、嬉しそうに駆け寄り、彼のローブの裾に顔をこすりつけた。彼の視線が、シロからエリザベートへと移る。その冷たく、それでいてすべてを見透かすような瞳に、彼女は息をのんだ。
「お前は、この獣に導かれて、この地に辿り着いたのか?」
彼の声は、硬質で、感情を一切感じさせなかった。エリザベートは何も答えられずにいる。そんな彼女に構わず、彼はゆっくりと近づき、そして、彼女の前に跪いた。その動作は、まるで彼女が王族であるかのように、敬意に満ちていた。
「魔力回路が、異様なまでに複雑に絡み合っている。子を成す力を司る部分が、別の役割に上書きされているようだ」
彼の言葉に、エリザベートの心臓が凍り付く。これまで、多くの魔術師や神官が彼女の体質を調べ、忌まわしいものだと結論づけてきたのだ。
「どうせまた、『不吉な女』と罵るのでしょう?」
彼女は、身を守るように両腕で体を抱きしめた。その怯えに、彼の表情が少しだけ和らいだように見えた。
「馬鹿げたことを。これは、欠陥などではない。……まさか、子を成す力を代償に、賢者の魂を宿す器だったとは……。この世でただ一人の、唯一無二の存在だ」
彼の瞳が、深い感動に震えている。その言葉は、誰にも必要とされないと思っていたエリザベートの心を、深く深く揺さぶった。
「私の体質は……欠陥では、ないのですか?」
「欠陥?とんでもない。これは、神から与えられた奇跡だ」
カイゼルはそう言って、エリザベートに手を差し伸べた。その手は、冷たそうに見えたが、なぜかとても温かく感じられた。
「……さあ、恐れることはない。私が、あなたの内に眠る賢者の力を引き出してあげよう」
エリザベートは、震える手でその手を取った。彼の掌から伝わる温かさと、安心感のある魔力が、彼女の体を満たしていく。それは、追放されて以来、彼女がずっと求めていた温もりだった。彼女の人生は、この一瞬で、再び動き出したのだ。
エリザベートは、カイゼルから差し伸べられた温かい手を、震える指先でそっと掴んだ。それは、追放されて以来、初めて触れた他人の温もりだった。彼女の掌に伝わるカイゼルの魔力は、冷たい雨に濡れた体を、ゆっくりと温めていく。
「さあ、何も恐れることはない」
カイゼルはそう言って、エリザベートを抱きかかえ、古びた石造りの建物の中へと入っていった。そこは、かつて賢者が暮らしていた場所だという。埃と土にまみれた部屋の中央には、魔術陣が描かれていた。
「この魔術陣は、賢者の魂を器に定着させるためのものだ。君の体は、この日のためにあったのだ」
カイゼルは冷静に説明しながら、魔術陣の中心にエリザベートを立たせた。シロが、心配そうに彼女の足元に寄り添う。
カイゼルが詠唱を始めると、魔術陣の文様が淡い光を放ち始めた。その光は次第に強くなり、エリザベートの体を包み込んでいく。彼女の内に眠っていた魔力回路が、カイゼルの魔力に共鳴し、熱を帯びていくのを感じた。
その時、彼女の脳裏に、怒涛のように膨大な情報が流れ込んできた。それは、この世界の成り立ち、失われた魔法、そして賢者が残した数々の知識だった。
「ああ……これは……」
エリザベートは、あまりの情報量に意識が遠のきそうになる。その頭の中に、老人の穏やかな声が響いた。
『よくぞ来た、我が器よ。私は、この世界に知識を広めることを望んだが、力が足りなかった。私の魂は、お前の中に安らぎを見つけるだろう』
その声とともに、彼女の体質が、子を産むための力ではなく、魂を宿すための特別な器へと完全に上書きされていく。体中に、かつて感じたことのない力が満ちていくのを感じた。それは、まるで世界そのものを掌で操れるような、全能感だった。
光が消え、視界が戻る。そこには、心配そうに彼女を見つめるカイゼルと、満足そうに鼻を鳴らすシロの姿があった。
「……賢者の、力が、私の中に……」
エリザベートは、震える手で地面に触れた。すると、彼女の指先から、生命の力が大地へと流れ込み、枯れた土壌から一筋の緑の芽が顔を出す。
「成功だ。君は、もうただの貴族令嬢ではない。君は、この世界の希望となる」
カイゼルは、感動に顔を輝かせ、彼女の手を握った。
エリザベートは、自分の掌を見つめる。追放され、蔑まれてきた彼女の体は、今、この世界を救う力を手に入れたのだ。彼女の心に灯ったのは、絶望ではなく、確かな希望だった。
◆
賢者の力を手に入れたエリザベートは、カイゼルの協力を得て、荒れ果てた領地をたった数週間で緑豊かな楽園へと変貌させた。ここは、かつて賢者が住み、そしてカイゼルの一族が代々管理してきた、特別な土地だった。枯れ果てた大地には、瑞々しい作物が実り、澄んだ水が流れ、人々は歓喜に沸いた。その奇跡は瞬く間に広まり、人々は彼女を「聖女」と呼び、敬うようになった。
一方、王都は混乱の渦中にあった。レオナード王子が手を組んでいた商人が、エリザベートの領地から供給されるはずだった食糧を独占しようと画策し、失敗したのだ。王都は深刻な食糧不足に陥り、国民の不満は頂点に達していた。
追い詰められたレオナードは、かつて自分が追放したエリザベートの居る場所へと、わずかな護衛を連れてやってきた。彼の顔には、かつての傲慢な面影はもうなかった。焦りと疲労が色濃く刻まれている。彼の隣には、青い顔をしたマリアンヌが立っていた。彼女の豪華なドレスは、王都の混乱を反映したかのように、くすんで見えた。
「エリザベート! 戻ってきてくれ! 頼む、お前の力を貸してくれ!」
レオナードは、土砂降りの雨の中で彼女に土下座した。その姿は哀れで、かつての威厳は微塵も感じられなかった。マリアンヌもまた、必死に懇願する。
「お姉様、お願いです! 私たちの家族のためにも、王子様を助けてあげて!」
エリザベートは、冷たい眼差しで彼らを見下ろした。彼女の心には、かつて彼らが投げつけた無数の罵声が、鮮明に蘇っていた。
「家族……? あなたたちは、私を家から追放したでしょう。その時、あなたがたの心に『家族』という言葉はありましたか?」
マリアンヌの顔から血の気が引いていく。
「それに、レオナード殿下。あなたが不要と切り捨てた力は、もうあなたたちのためのものではありません」
その言葉に、レオナードは絶望に顔を歪ませた。その時、静かにエリザベートの隣に立っていたカイゼルが、彼女の手を優しく握った。
「彼女は、もうあなたの所有物ではない。この土地も、そして彼女の力も、全て私から彼女に正式に譲渡されたものだ。あなたの王位も、あなたの家族の安寧も、彼女には関係のないことだ」
カイゼルの声は静かだが、その中には、レオナードの傲慢さを打ち砕く確固たる意志が宿っていた。レオナードは言葉を失い、ただ呆然と立ち尽くすしかなかった。彼が切り捨てた「不吉な女」は、今や彼が喉から手が出るほど欲しい「聖女」となり、別の男の腕の中にいる。
エリザベートは、冷たく彼らを突き放した。
「お帰りください、レオナード殿下。あなたがたが踏みつけた畑は、もう、あなたたちのための食糧は実らせません」
レオナードは、惨めな姿でその場を去っていった。彼らの没落は、彼ら自身が自ら招いた結果だった。
◆
レオナードは、惨めな姿でその場を去っていった。かつて彼女を追放した第一王子が、彼女に頭を下げ、そして絶望して去っていく。その光景は、エリザベートにとって、一つの区切りだった。彼らの没落は、他でもない、彼ら自身が自ら招いた結果だった。
「これで……もう、おしまいですわ」
エリザベートは、冷たい風に吹かれながら、ぽつりと呟いた。その声には、復讐の達成感よりも、深い疲労が滲んでいた。
その時、カイゼルが静かに彼女の隣に歩み寄り、優しくその体を抱きしめた。
「怖かったか?」
「少しだけ……でも、それよりも、嬉しかったのです。もう、誰も私を、不吉な女とは呼ばないのだと」
エリザベートは、彼の胸に顔を埋めた。カイゼルの心臓の鼓動が、静かに、そして力強く伝わってくる。
「あなたは、ただそこにいるだけで奇跡なのだから。欠陥などでは決してない」
カイゼルはそう言って、彼女の髪にキスを落とした。子供を産めないという、かつてのコンプレックスは、今では彼女とカイゼルを結びつける、特別な絆となっていた。彼らは、賢者の力を使い、世界をより良い方向へと導きながら、愛を育んでいく。
その足元では、シロが楽しそうに、二人の間を行ったり来たりしている。まるで、この二人が結ばれることを、最初から知っていたかのように。
もう、彼らは決して孤独ではなかった。
エリザベートは、初めて心からそう思えた。この先、どんな困難が待ち受けていようとも、この温かい腕の中と、愛する人がいる限り、彼女はもう何も恐れなかった。