初仕事は薬草採取
冒険者としての一歩を踏み出す佐藤。彼が選んだのは、戦闘を伴わない「薬草採取」の依頼。しかし、道中では様々な危険やトラブルが発生する。彼は【時間操作】を使い、崖からの滑落や毒草の誤採取といったミスを完璧に回避し、依頼を最高評価で達成する。
ギルドの「特別功労者」という、名誉なのか不名誉なのかよく分からない称号を得た翌日、佐藤は再び冒険者ギルドの依頼ボードの前に立っていた。戦闘能力皆無の彼にとって、ゴブリン討伐やオークの偵察といった依頼は論外だ。彼の目的は、あくまでこの世界でストレスなく、安定した生活基盤を築くこと。危険を冒して大金を稼ぐつもりは毛頭なかった。
ボードに貼られた無数の依頼書を吟味する彼の目に、一枚の地味な羊皮紙が留まった。
【依頼内容:薬草『月光草』の採取】
【場所:リンドール南の『静寂の森』】
【報酬:銀貨5枚】
【備考:崖地に自生。傷のない最良品を求む。品質により報酬上乗せあり】
報酬は他の討伐依頼に比べれば安い。しかし、「薬草採取」という言葉の平和な響きは、佐藤の求めるスローライフに完璧に合致していた。彼は迷わずその依頼書を剥がし、カウンターへ持って行った。
カウンターには、昨日と同じく不機嫌そうな顔をした受付嬢のエリーナがいた。彼女は佐藤が持ってきた依頼書を見ると、片方の眉をピクリと上げた。
「……薬草採取?あんた、正気か?昨日、王宮の学者でも投げ出した古文書を解読した男が、新米冒険者でも嫌がるような地味な依頼を選ぶのかい?」
彼女の言葉には、呆れと侮蔑が半分ずつ混じっていた。周囲で酒を飲んでいたベテラン冒険者たちも、くすくすと笑い声を漏らす。
「おいおい、特別功労者様がやる仕事じゃねえだろう」
「どうせすぐに音を上げて、泣きついてくるに決まってるさ」
そんな揶揄が聞こえてくるが、佐藤の心は穏やかだった。他人の評価に一喜一憂する人生は、前世でとっくに捨ててきたのだ。
「ええ。何事も、まずは基本からだと思いまして。それに、私は戦闘よりも、こういう地道な作業の方が性に合っているんですよ」
佐藤がにこやかに答えると、エリーナはふん、と鼻を鳴らした。
「まあ、好きにすればいいさ。だが、森をなめるなよ。薬草採取で命を落とす素人も珍しくないんだからね」
その言葉は忠告のようでいて、やはりどこか突き放した響きがあった。
佐藤はエリーナに礼を言うと、ギルドを後にして街の市場へ向かった。採取に必要な丈夫な手袋、植物を入れるための背負い籠、そして簡単な地図と保存食を購入する。ここでも彼のスキルは地味に役立った。商人との値段交渉で、相手が少しでも不満そうな顔をしたり、こちらに不利な条件を提示したりする素振りを見せるたびに、彼は10秒時間を戻して別の言葉を選ぶ。その結果、彼はすべての品物を、驚くほど安い値段で、しかも商人に気持ちよく売らせるという離れ業をやってのけた。
準備を万端に整え、佐藤は南門から街を出た。「静寂の森」は、その名の通り、人の気配がほとんどなく、木々のざわめきと鳥の声だけが響く場所だった。大雑把な地図を頼りに進むが、森の中は似たような景色が続き、すぐに方向感覚が怪しくなってくる。
「確か、この分かれ道を右に…いや、待てよ」
佐藤はある分かれ道で、直感に従って右に進んだ。しかし、10分ほど歩いても、地図にあるはずの小川が見当たらない。これは間違えたな、と気づいた瞬間、彼はためらわずに時間を戻した。
「(戻れ!)」
視界が巻き戻り、彼は再び分かれ道に立っていた。今度は迷わず左の道を選ぶ。すると、ほどなくしてせせらぎの音が聞こえ、地図通りの小川が現れた。この調子で、彼は幾度となく小さな道迷いを「なかったこと」にして、一度も無駄な時間を過ごすことなく、森の奥へと進んでいった。
道中、危険な生物との遭遇もあった。木の枝に擬態していた毒蛇が、彼のすぐ目の前を通り過ぎる瞬間に鎌首をもたげた。牙が彼の首筋を捉える寸前、彼は時間を戻し、今度は蛇がいることを知った上で、大きく迂回してやり過ごした。甘い香りに誘われて近づいた美しい花が、実は獲物を待ち構える食虫植物だと気づいたのも、花びらが彼の手を捕らえようとした瞬間を「やり直し」たからだった。彼にとって、森の危険はもはや脅威ではなく、対処すべきイベントリストのようなものだった。
やがて、彼は目的地の崖にたどり着いた。高さは30メートルほどだろうか、ほぼ垂直に切り立った岩肌が目の前にそびえている。そして、その中腹あたりに、月の光を浴びて淡く白く光る、目的の「月光草」が群生しているのが見えた。
「なるほど、これは確かに厄介だ」
ロープも持たない佐藤にとって、この崖を登るのは無謀に思えた。普通の人間なら、ここで諦めて引き返すだろう。しかし、佐藤の口元には、挑戦的な笑みが浮かんでいた。彼にとって、この崖は絶壁ではなく、無数の「正解」が隠されたパズルのように見えたのだ。
彼は深呼吸すると、最初の一歩を岩肌にかけた。掴んだ岩が、もろくも崩れ落ちる。
「うわっ!」
体勢を崩し、滑り落ちそうになる。即座に時間を戻す。彼は崩れた岩の場所を記憶し、今度はその隣にある、より頑丈そうな岩に手をかけた。次は、足をかけた場所の苔で滑った。また時間を戻す。その苔を避ける。掴んだツタが根元から抜けた。時間を戻す。ツタは使わない。
彼の崖登りは、トライアンドエラーの連続だった。落下する、滑る、崩れる。その全ての失敗は、発生した瞬間に10秒前に巻き戻され、彼の経験として蓄積されていく。彼の動きは、傍から見れば奇妙だっただろう。何もない場所で突然動きを止め、別のルートを選択するかと思えば、まるで未来が見えているかのように、最も安全で確実な足場と手場だけを選んで、スルスルと崖を登っていく。それはもはや登山ではなく、最適解を導き出すためのデバッグ作業に近かった。
ついに月光草の群生地にたどり着いた彼は、採取作業に取り掛かった。依頼書には「傷のない最良品」とあった。彼は慎重に薬草を根元から引き抜こうとするが、少し力を入れすぎて、根の一部がちぎれてしまった。
「(戻れ!)」
彼は即座にやり直し、今度は完璧な力加減で引き抜いた。葉を籠に入れる際に、少し折ってしまった。
「(戻れ!)」
今度は葉が折れないように、細心の注意を払って籠に入れる。彼は、一本一本の薬草に対して、この完璧な作業を繰り返した。結果、彼の籠の中には、まるで芸術品のように、葉の一枚一枚が生き生きとし、根の一筋まで完璧な状態を保った月光草が、依頼量をはるかに超える数だけ集まっていた。
意気揚々とギルドに帰還した佐藤は、カウンターにいるエリーナに籠を差し出した。
「依頼の品です。ご確認ください」
「…ずいぶん早かったじゃないか。まあ、どうせ大した量は…」
エリーナはいつものように皮肉を言いながら籠の中を覗き込み、そして言葉を失った。籠の中には、月光草が信じられないほどの完璧な状態で、山のように積まれていたからだ。彼女は慌てて奥から薬草鑑定士の老人を呼んだ。
老鑑定士は、籠の中の月光草を一本手に取ると、ルーペでしげしげと眺め、その表情を驚愕に染めた。
「こ、これは…!なんと完璧な状態だ!まるで、たった今、魔法の庭から摘んできたかのようじゃ…!こんなに状態の良い月光草は、ワシの鑑定士人生50年で一度も見たことがない!」
老人の興奮した声がギルドに響き渡る。品質ボーナスは上限まで振り切れ、当初の報酬の5倍にあたる銀貨25枚が佐藤に支払われた。昨日まで彼を嘲笑していた冒見者たちは、信じられないものを見る目で彼を遠巻きに見つめている。
エリーナは、金貨(銀貨10枚分)2枚と銀貨5枚を佐藤に渡しながら、複雑な表情で彼を見つめた。
「…あんた、一体何者なんだい?古文書の次は、神業の薬草採取か。あんたがただの物知りじゃないことだけは、よく分かったよ」
彼女の声には、もう侮蔑の色はなかった。ただ、底知れない人間に対する、純粋な好奇心と、わずかな畏怖が混じっていた。
「言ったでしょう。地道な作業が性に合っているだけですよ」
佐藤は穏やかに微笑んで金貨を受け取ると、ギルドを後にした。彼は、この世界で生きていくための、確かな手応えを感じていた。戦闘能力などなくても、自分の力を使えば、どんなことでも完璧に成し遂げられる。彼のストレスフリーな成り上がり物語は、まだ始まったばかりだった。