十年間となりにいた女の子が実は婚約者ではなくただの繋ぎで、しかも国に帰ると言う。婚約破棄すると言ったのは確かに自分なんだけど!
いつも取り澄ました顔が、どのように歪むのか。それを知るのが楽しみだったのは確かだ。
冷たくこちらを見下げてばかりだった目が、俺のせいで傷付き、涙ぐむ様を見たいと思った。
それは自分に与えられた当然の権利であり、彼女が受けるべき報いだと、欠片も疑っていなかった。
でもまさか実際、こんな風になるなんて思ってもみないじゃないか!
「えっ、その方がデイヴィッド王子の本当の婚約者に決まったんですか!? じゃあ、私ようやく国に帰れるんですね! やったあー!」
実年齢から思えば幼く、見た目からすれば違和感のない、それでいて普段の彼女の態度からすれば目を見張るような仕草でぴょんと跳ねる。
そんな彼女の、嬉しくてたまらないと言わんばかりの輝かしい笑みだけが記憶に残り、果たして自分がどのように残りのパーティを過ごし、城に帰ってきたのかさっぱり覚えていなかった。
「いや、馬鹿ですね。前々からそうだとは思っておりましたが、デイヴィッド様がここまでお馬鹿さんだったとはこのエルマー、感服の極みです」
「は!? 馬鹿って言う方が馬鹿なんだぞ!」
「でも、自分でも思うでしょう?」
「……うん」
乳兄弟で従者で友人のエルマーの問い掛けに、俺は力無く項垂れる。
先日のパーティーであっさりと婚約破棄を受け入れた女マーサは、この国の第一王子である自分の隣にずっといた、幼い頃からの婚約者……だと思っていたけど本当はそうでなかった外国の姫君だ。
うちの国は東西に細長い形をしており、小さな国ともたくさん隣接しているから外交が重要になっている。
マーサの生まれは、そんな周辺の小国のひとつだった。この国とは文化も人種も大きく違っていて、異国情緒に溢れる国と聞く。とは言っても、勉強不足の自分は噂程度にしか知らない訳だが。
昨日は国が主催の、定期的にある社交会だった。毎度のように彼女をエスコートするように言いつけられていた俺は、わざと彼女ではなく遊び友達のエリザベスを着飾らせて同伴させた。そして、所在なく壁の花になっていた彼女に笑って言い放った。
『悪いな、マーサ。お前はもう、用済みだ』と。
もっとも、だ。
婚約破棄なんて俺の一存で決められる筈がない。その時はそう思っていた。
だからそれは単なる茶番であり、俺の憂さ晴らしであり、マーサに向けてのいつものイタズラのつもりだったのだ。
いや、勿論分かっている。実際はイタズラなんて可愛いものではなく、子供のように小柄で起伏に乏しい体型のマーサの隣に、グラマラスなエリザベスを置いて、見下し笑い物にすると言う、下衆で最低な遊びだった。
つまるところ、俺は短絡的に、義務的にしか俺を見ようとしないマーサの顔色が少しでも変わればと、そう望んだだけだった。
だって悲しむということは、少しでも俺に情があると言う事だろう? 無関心ではないということだろう?
なのに、まさかあんな喜色満面な笑みに様変わりするとは、どうして予想できたと言うのだ!
「だいたい婚約者でないなら、色んなパーティや式典のたんびに、なんでマーサがずっと俺の隣に居たんだよ……」
「あなた、……今更そんな事聞きます? 一番最初の顔合わせの時に説明された筈ですが」
「覚えてねー」
俺は顔をしかめる。最初の顔合わせって、確か4歳か5歳くらいの話だぞ。いったい誰がそんなの律儀に覚え続けると言うんだ。
呆れを通り越し、いっそ哀れなものでも見るような目で俺を見るエルマーは、ため息まじりに口を開く。
「その後だって、あなたのマーサさんへの態度が目に余るからとしばしばお説教されてたじゃないですか。その度に、マーサさんの立場についても聞かされてた筈ですよ」
「俺の特技を教えてやろうか?」
「知ってますよ。言われた事を右から左に聞き流す事でしょう。でもその特技のせいで今、こんなことになっているのだという自覚を、そろそろお持ちになられると良いのでは?」
皮肉たっぷりのエルマーの言葉に、俺は返す言葉もなく唇を尖らせる。
確かに俺の甘さが現状を生み出したことは分かっている。だが、それを突きつけてくるのは、今は勘弁して欲しかった。
「マーサさんは、デイヴィッド様の仮の婚約者ですよ」
「仮って、何だよ」
俺はエルマーを睨み付ける。
「私を睨んだって仕方ないでしょう。ともかく、マーサさんにはそう言う約束で、この国に来て貰ったと言う事です」
歴代のうちの王家の人間には、ある特徴があるらしい。
それは、心から愛する人間が出来ると、それまではどれだけ不真面目でちゃらんぽらんの大うつけだとしても、途端に心を入れ替え真人間になるという。
「何だよそれ。そんな眉唾な話、いい歳した大人が揃って本気にしてんの?」
それが本当なら、国の首たる自分の父親も、昔はあっぱらぱーだったのだろうか。
「陛下は昔から幼馴染のお妃様一筋でしたから、幼少期から真面目でしたよ。まあ、験担ぎみたいな部分もあるんでしょうね」
恋をして真人間になるなら、どんどん恋をしてもらう。だけど立場上、決まった相手ができるまでエスコートする相手がいないのは問題だから、力関係的に断れない小国の姫君に繋ぎとして側にいてもらおう。
と、そう言う話だ。
「……えげつねぇ」
俺は思わずゲンナリと顔をしかめ、エルマーもこれには苦笑するに留める。
「気持ちは分かりますが、先方にも利がない話ではありませんから。名目上は行儀見習いと言う形で来てもらう訳ですが、過去はそのまま正式な婚約者になった例もあるようですし、その間は関税等でも優遇措置がありますし」
「でも結局は、自分とこの姫を人身御供よろしく差し出すんだろ?」
「ええ、だから再三デイヴィッド様には、マーサさんに優しくしてあげないといけませんよ、とお伝えしておりましたのに」
やれやれとため息を吐かれ、俺はグッと息を呑む。
それを知ってたら、俺だって多少は……いや、きちんと聞いてなかったのは自分なんだけどさ!
「マーサさんのこと、嫌いでしたか?」
エルマーは何だか憐れむような眼差しで、優しく俺に尋ねてくる。
「嫌いとか、そんなんじゃなくて……だってアイツ、いつも俺のこと冷めた目で見てくるし……」
「それは貴方がどうしようもないお馬鹿さんだからでしょう。多分その時、私もおんなじような顔してたと思いますよ?」
「それはそうかもしれないけどぉ!」
卓に突っ伏しながら脳裏に浮かぶのは、まるで子供のように幼い面立ちに、愛想のないすまし顔を浮かべている少女の姿。
思い出そうとすれば、自分の十七年の人生のあちらこちらの場面で、この顔が浮かぶ。
例えばあれは、そう。
半年前の建国記念式祭のパーティの後だ。
「殿下、なんで昨晩はお越しにならなかったんですか? 御不調でもあったんですか?」
「別に。そんな気にならなかっただけだし」
王族として参加を義務付けられていた式典からその後のパーティまで、まるっとすっぽかした俺をマーサは見上げる。
ため息をつく事すら諦めたのか、「そうですか」とだけ答えて彼女は視線を落とす。
「マーサが居たなら問題なかっただろう?」
「私が居たってなんの意味もないでしょう。私は貴方の添え物ですから」
「ははっ、添え物の方が立派な料理なんて聞いたことないね」
思わず吹き出す自分に、マーサはただただ冷めた眼差しを向けていた。
一刻も早く、この無駄な時間が過ぎるのを願うかのように。
いや、たぶん実際にそうだったのだろう。あの、十年来見たこともない喜びようを見た後であれば、どれだけマーサが自分から解放されるのを心待ちにしていたかは想像に難くない。
でも、そんなの当たり前だ。
だって俺はマーサにちっとも優しくなかった。
自分の将来の何もかもが、他人に決められている事が腹立たしく、隣にいるマーサを不自由の象徴に感じて煩わしいと思っていた。
優秀で、当たり前のように大人に褒められているマーサが隣にいることで、常に自分が比較されて馬鹿にされているように思えて、腹立たしくて仕方がなかった。
その癖、マーサが隣にいる事を何一つ疑っていなかった。自分が彼女に何をしようと、ずっと隣にいてくれるものだと思い込んでいた。彼女が俺に呆れていようが、馬鹿にしていようが、いつまでも俺の隣にいることは変わらないのだと信じ込んでいた。
ふいに頭に浮かんだのは、出会ったばかりの頃の、まだ幼い自分と彼女。
あの頃の彼女は、はにかみ屋で、おとなしくて、時折故郷を恋しがって目に涙を浮かべていた。自分はそんな彼女をなんとか笑わせたくて、馬鹿な真似ばかりしていた。
でも、結局そんな彼女から笑顔を奪ったのは、他でもない自分だったのだ。
いったい、何処で、なにを、間違えてしまったのか。
「いや、俺って本当に図々しい大馬鹿野郎じゃね……?」
「おやおや。ようやくそれに気付きましたか。長い道のりでした」
我が身を振り返り茫然とする俺に、エルマーはハンカチで涙を拭うフリをする。俺はエルマーを睨み付けるが、流石に返す言葉はなかった。
「それで、デイヴィッド様はこれからどうなさるおつもりで?」
エルマーの問い掛けに、俺は視線を下に落とす。
「……とりあえず、マーサにこれまでのことを謝ってみる」
「そうですね。手遅れ感半端ないですが、やらないよりはマシかもしれないですね」
俺は無責任なエルマーの賛同を励みに、善は急げとマーサの元へと向かう。
だが、何と言うことだ。
昨日の今日だと言うのに、マーサはすでに城を辞して故郷へ帰ってしまっていたのだ。
俺はそれを聞いて、ただ呆然とするしかなく……。やがて、ひとつの決意を固めた。
葦の穂の茂る池の畔でマーサーー、真麻はため息をついた。
17歳の真麻にとって、その人生の大半を過ごした大国から祖国に帰ってきて、半年以上経過している。
そして、その半年間を真麻は無為に過ごしていた。
これまで年に数回も会えれば良い方だった両親は、しばらくゆっくり休むといいと言ってくれている。その言葉に甘えている訳だが、いまだに真麻の気持ちは晴れないままだった。
美しく、華やかで……後悔ばかりの心苦しい大国での生活。
きらきらと陽光を反射する水面に写る雁の群れを見ながら、真麻はもう何度目かとも知れぬ反芻を繰り返していた。
ようやく物心ついたばかりの6歳の時分に、真麻は隣国へ赴くことが決まった。
文化においても教育においても、小国である自国とは比べ物にならない大国の招聘に、城下の者たちは喜んだ。
父や母、そして兄姉たちはちょっと寂しそうに笑った後、小声で、嫌になったら、いつでも帰って来い、と言ってくれた。
そうして幾らかの準備期間を挟み、7歳を迎えてすぐに訪れたかの大国は、まるで夢のような場所だった。
キラキラとした装飾に彩られた宮殿は迷うほどに広く、人々の纏う服はヒラヒラと天女の羽衣のように美しい。
自国の方が劣っているなんて、口が裂けても言いたくない真麻であったけれど、文化と流行の最先端である大国の華麗さに、幼い真麻は呆気にとられるしかなかった。
そんな大国での生活を始める真麻。
若い子向けの良くある大衆小説のように、小国の小娘を見下していじめるような真似は誰からもされずに、むしろ大変丁寧に遇してもらえたと思う。
まあ、消去法であろうと何だろうと、向こうから自分を指定してきたのだ。流石にそれで相応しくないなどと、しかも幼女相手に意地の悪い事を言う者はいないだろう。
自分の仮の婚約者となったデイヴィッド王子も、ちょっとお馬鹿でお調子者ではあるけれど、素直で明るく、可愛らしかった。
彼は周囲に大事に育てられていることの分かる快活さで、無邪気にこちらを慕ってくる。
しかし、そんな恵まれた環境であるにも関わらず、優しくしてもらえばもらうほど、真麻の望郷の念は強くなるばかりだった。
文化が大きく異なっていることも、よろしくなかったし、新しい環境をあっさり受け入れられるほど、真麻が素直な性格でないことも悪かった。
何より真麻は人一倍自分の国を愛し、誇りに思っていた。
与えられた美しいドレスを身に纏うたびに、ナイフとフォークで手の込んだ料理を味わうたびに、真麻は着実に精神的負荷を溜め込んでいったのだった。
そんな真麻の心境を知ってか知らずか、ことあるごとに隣国に足を運び、顔を見せてくれる家族らは、帰り際になると声を潜めて「嫌になったら、いつでも帰ってきて良いからね」と繰り返し言ってくれる。
しかし、その言葉に甘える事はできないと、幼い真麻はいつも思っていた。
巨大なこの国の周囲には、それこそいくつもの国があり、デイヴィッド王子と歳の近い姫なんていくらでもいる。
にも関わらず自分が選ばれ、両親がそれに応じたのは、他国との力関係など政治的な意図がある。
不幸なことに、幼くしてそれに思い至れるほど、真麻は優秀な子供でもあった。
自分の我儘で帰国することは出来ない。望まれた役割ははたさなくてはならない。
では、ーーどうすれば良いのか。
その問いに、真麻は完璧な答えを出してしまった。
(デイヴィッド王子の方から、真麻はもう要らないと言ってもらえばいいんだわ……)
自分の役目は飽くまで『仮の婚約者』。
自国の評価を貶めるような振る舞いは出来ないけれど、王子がこんな女はうんざりだど思うような存在になることは可能な筈だ。
それからと言うもの、可愛げのないつまらない女になるよう、真麻は努力した。
ツンとすまして、浮かべる笑みはお愛想笑い。王子に話しかけられれば当たり障りのない返事ばかりを返し、場を盛り上げようとふざける素振りには、退屈そうに溜息をつく。
わざとやっていると周りに気付かれないように、目立たぬように。真麻はこれまでと徐々に態度を変えていったが、握ろうと差し出された手を振り解いた日には、ついにデイヴィッド王子も泣きそうに顔をくしゃりと歪めた。
そんなデイヴィッド王子の傷付いた表情に、さすがの真麻の胸も痛んだが、それでもなんとか見て見ぬ振りをする。
気を付けなければ、せっかくの決意が鈍ることは分かりきっていた。
また真麻は意地になったように、勉学にも運動にも教養にも全力を費やした。
何の力もない小国の小娘が、自ら愛想という武器を捨てるのだ。何かひとつでもふたつでも、人より秀でたものを持つ必要がある。
一方で、幼少期における一歳という年齢差は、あらゆる分野で真麻を王子より秀でさせる助けにもなった。
集中力に欠け要領の悪い彼に、時折り呆れたような視線を向ける。それは真麻のデイヴィッドに対する態度に、理由と説得力を持たせた。
そんなことを二年三年と続けるうちに、明るく無邪気だった王子は、段々と世を拗ね、何事にも投げやりになっていった。
「そんなの知らない。やりたくない。全部マーサがやればいいだろ」
気付けば快活さを失い、自暴自棄で無気力な人間になっていたデイヴィッドの姿は、真麻にとって衝撃的だった。
姉のようにも感じていた身近な人間から、何年にも渡り素っ気なくされ落胆され続けたわけだ。どれだけ周囲から愛されていても、健全な成長が阻害されるのも仕方ないかも知れない。
(このやり方は駄目だ……っ)
真麻も途中で己の愚策に後悔したけれど、いまさらどの面を下げて態度を改めればいいのか分からなかった。何より、頑固な真麻の望郷の念は、月日の流れの中でも薄れゆくものではなかった。
王子が早く真麻のことに見切りをつけ、別の婚約者候補が欲しいと訴えればいい。
さもなくば、周りの大人たちが、王子に悪影響を及ぼす真麻を排除してくれればいい。
そう思うのに、何故か真麻は王子の仮の婚約者で居続けた。さすがの王子が真麻を疎み、避けるようになってすらも、真麻が己の役割から解放されることはなかったのだ。
だからこそ。
あの日、あの夜会において、デイヴィッド王子本人から「お前はもう用済みだ」と言われて、真麻は飛び上がるほどに嬉しかった。
いや、実際に飛び上がって喜んだ。後から思い返すと赤面の至りだが。
だけど、これで王子の仮の婚約者という立場から解放される。
ひりつくような望郷の想いからも、焼け付くような罪悪感からも逃れられる。
こんな愚かな女から、王子を自由にしてあげられる。
そんな思いにせき立てられ、真麻は逃げ帰るように城を後にしたのだった。
(だけど、不思議と引き止められはしなかったわね……)
今更のように思い出して、真麻は首を傾げる。
仮のものとは言え、王族の婚約者に近しい立場の女が城を辞すのだ。煩雑な手続きなどが多数あってもおかしくないし、即日城を出られると言うのも妙な話だ。
身の回りの世話をしてくれていた侍女や、何かにつけて面倒を見てくれていた女官長や侍従長には簡単にではあるが挨拶したので、無言で飛び出した訳でもない。
にも関わらず今に至るまで何も言われないのであれば、自分はデイヴィッド王子の仮の婚約者を辞めたのだと、正式に認められたということだろうか。
正直、選んで貰った分際で態度が悪過ぎると、王家のシンパからそのうち人知れず粛清されてもおかしくないと思っていたので、無事に帰れて良かったと言うべきか。
いまいち釈然としない部分はあるけれど、それでもいつかは何もかもが過去のこととして、記憶の片隅に追いやれるに違いない。
そんな確信を持って、真麻がぼんやりと池の僅かな揺蕩いに視線を向けたその時だ。
「マーサ……」
背後から投げかけられた耳馴染みのある声に、真麻はぎょっとして振り返った。
そこに居たのは、自分の想定通りの人物であり、そしてこの場にいるはずのない貴人の存在。
「デイヴィッド王子……」
真麻は呆然とその名を口にする。半年ぶりに見るその姿は、自分の記憶に残るまま、否。記憶よりもやややつれているせいか、顔立ちから幾分甘さが消え、精悍さが生じていた。
(……この王子、相変わらず顔だけは整っているわね)
自分が蒔いた種とは言え、デイヴィッド王子の幼稚で捨て鉢な言動にイラッとしつつも、自ら全てを放り出さなかったのは、ひとえに王子の顔が鑑賞に耐えうるものだったからと言うのもあるだろう。
我ながら、何とも最低だと真麻はこっそりと溜息をつく。
だが、それに何を勘違いしたのか、デイヴィッド王子は慌てたように首を振る。
「いや、違うっ。今日はお前を連れ戻しに来たわけではないんだっ」
何を言われようが今更隣国に戻る気などさらさらなかった真麻なので、むしろ彼の言動にキョトンと目を瞬かせる。
デイヴィッドは、いたたまれないと言う気持ちもあからさまに、そわそわと視線をさまよわせていたが、不意に碧い水を湛える葦穂の池に視線を向ける。
「……綺麗なところだな」
「ええ、そうですね」
真麻にとっては、愛する故郷の風景だ。貶されるよりも、褒められる方がよっぽどいい。
真麻の同意にどことはなしに安堵した様子を見せ、デイヴィッドは口を開く。
「今日は、お前に謝りに来たんだ。マーサ……いや、真麻」
王子が口にした自身の名前に、真麻は思わず目を瞬かせる。
彼は出会ってからこれまで、正しい発音で真麻の名前を呼べず、隣国風の愛称で真麻を呼んでいた。だが、今彼の口から出たのは正しく真麻の名前である。
(マーサァ……?)
出会ったばかりの頃の、舌っ足らずな発音で自分を呼ぶ幼いデイヴィッドが脳裏のに浮かぶ。
あの頃と比べて、背丈も見た目も全然違うのに、何故か最後に会った時よりもずっと、当時の姿を思い起こさせる目をしていると、真麻は思った。
「今まで、真麻に酷いことばかりしていてごめん。俺はずっと真麻の立場とか境遇とか、何も考えずに真麻に甘えてばかりいた」
がばっとデイヴィッドは深々と頭を下げる。これが野外でなければ、真麻の国の伝統的な謝罪方法である土下座のひとつもして見せそうな勢いだ。
だがその一方で、デイヴィッドに酷い振る舞いをしていたのは真麻も同じである。
むしろその人格形成に多大な悪影響を与えた分、真麻の方が罪深いかも知れない。
罪悪感に息を詰めるしかない真麻だが、それを素直に言うわけにもいかない。
曖昧に頷きつつ話を逸らすために、ふと思いついたことを口にする。
「そう言えば、本当の婚約者の方は今日は……?」
すると次にぐっと言葉を飲んだのは、デイヴィッドの方であった。
「その……、振られてしまって……」
言いづらそうに答える王子に、真麻はあっさり納得をしたが、実際にはそれは正確ではない。
これは完全に蛇足の話だが、彼の遊び仲間であったところのエリザベスには、当然のことながら王子妃になる気などさらさらなかった。
それどころか他に意中の相手のいる彼女は社交会のあの騒ぎの後、「あーらら、やっちゃったわねぇ」とデイヴィッドに意地悪く笑い、あっさりと彼を見捨てたのだった。
もっともそれを正直に告げた場合、そも真麻をバカにする目的だったことも暴露せねばならない為、デイヴィッドはそれら一切に口をつぐむのだった。
(それなら……)
婚約者が一緒でないとしても、さすがに一人ではないだろうと真麻は周囲に視線を巡らせる。
だが、不用心なことにあたりには自分たち以外に誰もいない。池のほとりで鴨がのんきに水草を突っついているくらいだ。
いや。見えていないだけで、いくら何でも護衛はいるだろうが。
隣国の他の人たち、例えば彼の乳兄弟で従者でもあるエルマーは、今日は同行しているのだろうか。
そう考え、内心ちょっとだけ顔を渋くする。
真麻のデイヴィッドへ対する振る舞いについても、彼の真麻へ対する言動についても。
すべて一番近くで見ており、恐らく色々察してもいたであろうに、茶化すことはあっても、いつだって黙って後方保護者面をしていた。そんな年上の青年のことが、実のところ真麻は少し苦手だった。
(デイヴィッド王子ともども、早く帰ってくれないかな……)
謝罪をして貰う必要はないし、何より自分の長年のやらかしの結果を直視するのは辛いものがある。
そんな事を考える、どこまでも自分勝手なおのれに真麻はより一層げんなりする。
しかし、今回の彼の来訪は真麻の予想とはいささか趣きが違った。
「実は俺……あの後、色々と猛省して、外交についての知識を詰め込んでもらった。まだまだ付け焼き刃だけど、何とか合格点を貰えたから今回の外遊に同行させて貰えたんだ」
どこか気恥ずかしそうにここにいる理由を話すデイヴィッドの姿は、確かにやる気のなかったかつてとは違い、かろうじて表に出しても恥ずかしくない程度の振る舞いを備えている。周りの人間が随分頑張ったのだろう。
そうなると、脳裏に浮かぶのは真麻が隣国に訪れることになった原因である、王家の人間が持つという特徴。
恋をするとまともになるという、それだ。
(ただのカビの生えた風習かと思ってたけど、案外馬鹿にできないかも知れないわね……)
正直カケラも信じてはいなかったが、確かにデイヴィッドのこの半年間の成長には目を見張るものがあった。
真麻の国には、『男子三日会わずんば、刮目して見よ』と言う言葉がある。
よっぽど元が酷かったというのもあるが、それでも自分が歪め、貶めてしまった彼の急激な成長に、真麻はどこかほっと胸を撫で下ろす気持ちだった。
よくあるおとぎ話とは違って、彼を変えてくれた女性とは、結ばれる縁はなかったというのが勿体無い話ではあるが。
(でも、確か振られても死別しても問題ないという話だったしね……)
彼にはそのうち、その身分に相応しい出会いがあるだろう。
そもそも隣国から逃げ帰ってしまった自分には、もう関わりのないことだ。
「ーーそんな訳で、この国には長居できない訳なんだけれど……」
物思いに耽っていた真麻は、いかんいかんと内心かぶりを振る。
彼の話をやくたいもないものとして、右から左に聞き流す癖がついていたけれど、これからはそういうわけにもいかない。
何より自国に帰ってきた真麻には、もうデイヴィッドを粗略に扱っていい理由などひとつもない。
大体この先、デイヴィッド王子が隣国の使者として我が国を訪れることもあるかも知れないじゃないか。
そう思えることに、真麻はデイヴィッド王子の成長を再度実感する。
「えーと、それで……」
デイヴィッドは何やら言い籠るようにチラチラとあたりに視線をさまよわせていたが、ふいにまっすぐな眼差しが真麻を射る。
「……綺麗だ」
思わず、真麻は目を見開く。
「えっと、その、本当に美しいな、この国は……!」
取り繕うかのように、国の景観を褒め称えていたデイヴィッドだったが、何やら観念したように真麻に告げる。
「また、来ても良いだろうか。勿論、真麻が嫌でなければだが……」
彼の鮮やかな色彩の目が、自分に向けられている。
そう言えば、彼の目はこんな色だったと思い出す。
彼とまともに視線が合うことすら、実は数年振りだったかも知れない。
それほどまで己のことしか考えられず、長年に渡って彼を蔑ろにし続けてしまった自分ではあるけれど、許されるのであれば、改めて彼と友人関係を築いても良いだろうか。
「……デイヴィッド王子が望むなら」
ふふっと真麻ははにかむように笑う。
先ほど、驚かされたことへの気恥ずかしさもあるし、ずっと頑なだった自分への呆れもある。
何やら拳を握りしめて「よっしゃ……っ」などとと呟いているデイヴィッドの姿をなんとはなしに見ながら、真麻は半生を過ごした隣国のことを思う。
あれほど逃げ出したかった場所なのに、今更になって嫌なことがあったのと同じように、良いこともあったと思い出す。
どんな思いで過ごして居たのであれ、長い日々の末にあの国もまた、この国と同じように真麻の故郷となっていたのだ。
(だったら、私も変わらないと……)
デイヴィッドがここまで成長して目の前に現れたのなら、自分もまた変わらなくてはいけない。
隣国で、常に前を歩いていた者として、これ以上彼に不甲斐ない姿は見せられない。
それは、これまでのように彼を貶める為ではなく、彼の良き好敵手となる為に。
もはや意味のない彼への謝罪の代わりに、これからはその更なる成長の一助となれるように。
池のほとりにいた鴨がいっせいに舞い上がり、空に連れ立っていく羽音がした。
水の揺らぎが、波紋となって足元に届く。
真麻は、今度は力強くデイヴィッドに微笑みかける。
それは宣戦布告であり、そして顔を赤くして固まっている彼と不甲斐なかった自分への、激励でもあった。
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