南星への出発
0
神が生まれしは世界の創生。
生きとし生けるものが生命の息吹を囁く時、神という概念もまた生まれたり。
南に羽ばたく風あれば、災厄を祓い、もたらす幸は永劫なり。
1
目を開いて見た景色は、赤黒くぼやけていた。
塵を燃やした火の粉が自分勝手に突き刺さり、蒸し焼きにされた空気が貼り付いてじっとりと不快な汗をもたらす。あたりはどこもかしこも赤く歪んでいて、絶えず吹き荒ぶ黒い風に誤魔化されてもはや輪郭がわからない。
はて、どうしてこんなところにいるのだろう。私はただ、静かで綺麗な景色を見たかっただけなのに。
眼下に広がる生き生きとした木々が放つ生命の緑や、彼方に広がる空を投影した雄大な海原の青を、ゆったりとした心のままに眺めていようと思っただけなのに。
どうしてこんな、焼け付くような真っ赤な喧騒に、私の胸はこんなにも早鐘を打っているのだろう。
頭を整理するために、あるいはあたりの知らない景色への理解から目を逸らすために、一度大きく息を吸い込んでみる。すぐに焦げた木材の匂いで嗅覚が満たされる。鼻から吸い込んだせいか、目が不快に沁みて頭がくらくらする。
ああ、そうか。この赤黒い靄は炎だ。木々を燃やして、どんどん大きく広がっていっているんだ。
こんなに秩序のない、燻んだ炎は初めて見たから、理解するのに時間がかかってしまった。
とはいえ、ひとつの理解が必ずしも他のあらゆる理解を呼んでくれるとは限らない。
何故、この炎は大きく喧しく煩いのだろう。どうして、この炎は乱暴に顔や腕に突き刺さってくるのだろう。なんで、この炎は奪うだけで、なにも生み出さないのだろう。
音が聞こえる。木々が爆ぜる炸裂音と熱風が吹き荒れる轟音に紛れて、喉が裂ける限界まで張り上げたような、獣とすら形容し難い叫び声が。
音の高低はさまざまだし、数は多かったり少なかったりする。かと思えば一瞬の爆音に阻まれて以後、すべての声が失くなったりするから、それがなんの意味を持つものなのかはわからない。ただ時折、声と一緒に走り去る人の姿を見かけるから、きっと彼らは必死に逃げ回っているのだろう。
一体、どこに逃げるのだろう。あてはあるのだろうか。そっちはもうすでに火の手が回っているのに。
ひとつ、鼓膜を覆うほどの爆発が鳴り響く。きっとなにかが破裂して、あたりのものを巻き込み炎上したのだろう。
どれだけ目の前でものが爆発しても、燃え上がっても、熱いと感じることはない。体が焼けつくこともない。なぜなら、火のあるところに私は在るからだ。
音のした方へ目を向けると、そこには二つ分の人影。ひとつはまだ若い長身の女性の影、もうひとつは厚手の布に包まれた、女性の半分もない丈の赤子。二人とも、熱された地面に横たわっており、女性の力なく伸びた腕の指の少し先に赤子は放られている。おそらく赤子は女性に抱えられていて、先ほどの爆発かなにかの衝撃で投げ出されてしまったのだろう。赤い靄と黒い風に阻まれて顔はよく見えないものの、両者はそれほど似ているとも言えない気がするけど……。
不意にまたひとつ、厚い突風が吹き抜ける。今日はやけに風の強い日だ。そんなことを考える呑気さすら許されぬまま、目の前の現実は動き出した。
風に煽られた一戸の家屋が、ミシミシと軋み音を立てながら、赤子の上へと傾きだしたのだ。
既に炎に晒され、幾度かの爆発に痛めつけられた建物だ。一度暴風に煽られればその後どうなってしまうか、想像できないものはなかなかいないだろう。
今まさにそれを被ろうとしている赤子が、次の瞬間にどうなってしまうのかも。
不吉に軋んでいた家屋の倒壊が、そのわずかな間に音を増す。ここから崩落まで、おそらく幾寸もかからない。自力で動く力に乏しい赤子に、そこから逃げる術はない。
この赤子はもう助からないだろう。そう思っていた。
「危ない!」
家屋が倒壊するけたたましい音に紛れて、そんな声が飛び込んできた気がした。
一体なにが起こったのか、それを理解するのに少しだけ時間がかかった。
目の前の状況を端的に説明すると、倒れてきた燃え盛る家屋に、赤子を庇うように覆い被さってきた女性が下敷きになった。説明するとその一言に尽きるのだが、そこに帰結した背景が、状況が、理由がわからなかった。
この女性と赤子に、血のつながりがあるようには思えない。赤子に手を伸ばせば逃げるのは間に合わず、巻き込まれることは誰であっても想像できたはずだ。
なのになぜ、無駄だとわかっているのに、助けるどころか自分が助からない選択を、この女性は咄嗟にとってしまったのか。
万に一つも、自分も赤子も助けられる勝算があったとでもいうのか。それとも、自分の命を天秤にかけられる意義があったとでもいうのか。
わからない。目の前にいた人間の意図が、ひとつも。
今確かだったのは、焼ける家屋の下敷きとなった女体の下で、今も絶えず赤子の泣き声が聞こえてくるということ。そして。
横たわるその体に歩み寄った自分の手が、ゆっくりと物言わぬ肢体へ差し伸べられていたということだった。
2
「…………」
「どこへ行くの?」
「どこか。屋根のある場所へ。あったかいごはんと寝床がある……ううん、どこだっていい。この子が安心できるなら、それで」
「あてはあるの?」
「なにも。このあたりは見ての通りの有り様だし、どこまで行けば人がいるのかすらわからない」
「あなたに身寄りはいないの?」
「さあ……一緒に逃げてたと思うけど、あの混乱じゃ身ひとつで逃げるのが精一杯で、どこに行ったのか。けど、きっともういないと思う」
「その子の身内は?」
「それこそ見当がつかない。私はこの子のことをなにも知らないんだから。ただひとつわかるのは、おくるみに縫いつけられた「和人」って名前だけ」
「たったそれだけの情報しかない、調べる手立てもない。そんな子を、あなたはあのとき必死になって助けようとしたんだ」
「あんなところに赤ん坊が一人でいたら、放っておけるわけがない。私じゃなくてもきっと同じことをしたでしょう」
「わからないよ。いざというとき最優先で自分を守るのが生き物だから」
「それじゃ、あなたはどうなの。どうして私を助けたの」
「……なんのこと?」
「とぼけないで。私は燃える家の下敷きになったのよ。それなのに傷ひとつついてないなんておかしいじゃない」
「助からないって自覚はあったんだ」
「あのとき、視界が霞んでいく中で、あなたの姿が見えたの。私を助けてくれたのは、あなたなんでしょう?」
「助けた……って、どういう意味なのかな。命を救ったって意味なら、それは違うよ」
「どういうこと? だって私は生きているのに。生きてるってことは、助けてもらったってことでしょう?」
「生きてはいない。あなたはもう死んでいる」
「死んでいる? じゃあ、ここにいる私はなに?」
「あなた、疑問に思わないの? 見ず知らずの私が、ずっとついてきていることを」
「言われてみれば……でもそれって、助けてくれた義理とかそういうのじゃないの?」
「少し違う。あえていうなら責任……いや、宿命かな」
「宿命?」
「私は、あなたに命を分け与え、ひとつになった。今の私とあなたは一心同体。あなたの中に私はいて、私の意思はあなたの意思でもあり、離れることはできない。だから私はあなたとずっと一緒にいるの」
「命を分け与え、ひとつになった? そんなこと、できるわけないじゃない」
「普通なら信じられないでしょう。けど、死んだはずのあなたがここにいて、知らないはずの私と共にいる。その疑問に対する最も矛盾しない答えがそれなの」
「奇跡的に一命を取り留めたって言われたほうがまだ素直に受け入れられるんだけど」
「同じようなものだよ。私が人間に命を差し出すこと自体、奇跡なんだから」
「なによ、その言い方。まるで自分は人間じゃないみたいに」
「人間じゃないよ。他人に命をあげられる人間がいると思う?」
「確かに。でも、だとしたらあなたは何者なの?」
「私はスザク。「四神」の一人、南の方角を司る神」
「「四神」……スザク?」
「私は名乗ったよ。あなたの名前は?」
「私の名前?」
「初めて会った人同士は、まず自分の名前を言い合うものなのでしょう?」
「……赤坂明日香」
「赤坂飛鳥、飛鳥は確か鳥が飛ぶと書くんだよね。赤い鳥……うん、私にぴったりだな」
「私の明日香はその字じゃないんだけど」
「まあいいじゃない。響きさえ合っていれば。それで、さっきから整備されてない道をひたすら歩いてるけど、どこに行くつもり?」
「どこだっていい。この子を受け入れてくれる場所なら、この子が安心できる場所なら」
「そんなところ、本当にあると思う?」
「ないかもしれないし、あるかもしれない。どちらにせよ、立ち止まっていたらどっちかもわからないでしょう?」
「仮にそんなところがあったとして、闇雲に探してたら辿り着けないかもしれないよ」
「仕方ないじゃない。道がわからない以上、そうするしかないんだから」
「…………」
「どうしたの?」
「音……音が聞こえる」
「音? 風の音くらいしか聞こえないわよ」
「あなたの言う通りだね。立ち止まっていたら危険かも。急ごう」
「急ぐって、どこに」
「……南。ここからひたすら南に歩いて」
「南? 南になにがあるっていうの」
「なにかはわからない。けど、あなたが求めているものが、そこにあるはず」
「どうしてそんなことがわかるの? 神様だから、なんでも知ってるとでも言うつもり?」
「なんでもは知らない。けど、知ってることもたくさんある。例えば災いから逃れる方法とか、幸せになる方法とか」
「このまま南に進むことが、私の幸せになる方法ってこと?」
「少なくとも不幸にはならないと思う」
「ちなみに、私が嫌だって従わなかったらどうするの?」
「あなたは私でもあるから。私の意識が南に向いている限り、あなたはそれに抗うことはできないよ」
「あなたが私でもあるのに? やっぱり、人間じゃ神様には逆らえないってこと?」
「すべてがそうとはいえないけど、今回に関してはあなたに勝ち目はないよ」
「どうして」
「だって、さっき言ってたじゃない。立ち止まっていても仕方がないって」
「なにもかも筒抜けってことか。隠し事ができないってなんだか気味が悪いな」
「正直なのはいいことだよ。少なくとも、嘘しかつけなくなるよりはずっといい」
「……まあ、いいや。それで、南にどれくらい歩けばいいの?」
「さっきまでの速度で歩くなら、丸四日くらい」
「それって、休みながら歩いたら五日以上かかるってこと? 途中で行き倒れちゃわないかな」
「大丈夫だよ、生命力はあなたが思っているほど弱くないから」
「神様だからって、勝手なことばかり言っちゃって。わかった、歩いてやるわよ、丸四日」
「うん、それがいいと思う。きっとそこに、その子の幸せがあるはずだから」
3
かつて、この大地には「殺し合い」があった。
戦争と呼ぶには目的が不明確で、紛争と呼ぶには犠牲となるものが一方的すぎる。そもそも一方に争うという意思があったのかもわからない。けれど、死から逃れるために殺めることもあるだろうから、やはり「殺し合い」と呼んだほうが正しいのだろう。
人と人が、お互い顔も名前も知らない相手を敵と見なし、いがみ合い、物資を、領地を、命を奪い合った。
おそらく、その「殺し合い」で数千、数万という命が犠牲となったが、そのほとんどが自分の死の意味を知らない。
なぜ、自分達は殺されたのか、命を狙われたのか、そもそもそんなことをしでかす連中は何者なのか。
なにも聞かされぬまま、誰の気にも留められぬまま、多くのものが文句のつけようのない呪いを抱えたまま死んでいった。
ときにはあたりの土地すら、物言わぬ灰燼に帰しながら。
けれど、そこに生きる命すべてが燃え尽きてしまったわけではない。種が摘まれたわけでも、根が絶たれたわけでもない。
戦火を逃れ、喧騒を避け、幸運にも火の粉に煽られることなく生き延びた者達も、確かに存在していた。
そしてその者達は皆等しく、目の当たりにした戦禍を過去のものとするべく、一生懸命平穏に暮らそうとしていた。
元通りなど決してあり得ない。そのことをわかっていながらも。
そしてここにも、戻らない変化の中で穏やかに暮らす少女が一人……。
4
山嶺部に囲まれた高原地帯、時折吹きつける山風や日が暮れると起きだす虫の鳴き声以外は概ね静かでのどかな空間に、その村落はあった。
およそ平地からは天に向かって仰がなければ見えない高さにあり、見上げたとしても並々と連なる山脈が視界を邪魔してまともにその一角すら認めることができない。そこへ至るための道も傾斜が急で満足に整備もされておらず、人の手がほとんど加えられていない天然のものだったため、なにも知らない余所者であればたどり着くどころか、歩けそうな道を見つける時点で断念してしまいそうな僻地。自然が外部からの介入を拒んでいるのか、それとも交流を厭った者達が流れ着いたのか、とかくその村は他人よりも自然と共に密接していた。
「お姉ちゃん、はやくはやく」
「和人、ちゃんと前を見て歩かないと危ないわよ?」
そんな僻地の中でもとりわけて人の手が及んでいない山中を、皆城和人は元気よく駆け抜け、そのあとを赤坂明日香がゆったりとした足取りで、けれど置いていかれないようやや早歩きでついて行っていた。
空模様は快晴そのもので、木漏れ日が眩しく暑いくらいであったが、地面や草木はむしろ湿っており、忙しなく走り回る少年の足音も鈍く吸収し、あたりにあまり響かないまま消えていく。昨日まで数日ほど雨が降り続いており、今はようやく晴れ上がった朝方であったため、景色はまだ水分を吸収しきれていないのだろう。土もぬかるみ、場合によっては歩くだけで不快感を催すものだろうが、足が地面に沈む感覚すら気にしていない少年の走る速度はどこまでも腕白なようだった。
そうして奥へ奥へ、緩やかに傾斜が上に伸びている山道を二人の少年と少女がゆっくりと登っていく。大して景色が変わるわけでもない、ただ足元の悪いところを歩いているだけだというのに足取りが軽いのは、彼らにとってはそれすらも楽しめる娯楽だということなのか。屈託なく笑い合い、中身のない会話を交わしながら、二人の足先は苔や草木の絡まる石段へとたどり着いていた。
段数はおよそ六十、下から見上げて頂上が見える程度の高さのそれは傾斜もそれほど急ではなく、山中にあるといえども見た目ほど疲労感を催すものではない。昇りきった先になにがあるのかまではまだ伺い知ることはできなかったが、階段が途切れた先の地面がいくらか平坦になっていたところから鑑みるに、舗装されたなにかがそこにあることは間違いなさそうだった。
ひとりでに育った野生的空間に突如として現れた人工的な道を、疑うことも不審に思うこともなく、和人と明日香は昇り始める。自ら体を動かしたところにのみ娯楽があるような僻地で暮らす若者達からしてみれば慣れたものだったのか、一定のペースを保ったまま息すら切らさず足を上へ上へと運び、あっという間に石段を踏破してまた少し高い地へと足を踏み入れる。無作為に生い茂る草臥れた木々や、それらに容赦なく照りつく日の光の眩しさに阻まれ、下からは覗くことの叶わなかった石段の向こう側がそれで露わとなる。そこで少年達を待ち受けていたのは、立派とは言い難いものの確かにそこにある、周りの木々と同じ年を重ねたような神社だった。
「おはようございます、百合子さん」
自然と同化しているような燻んだ色を纏った神社の元へと近寄った明日香が、社の前で落ち葉を掃いている妙齢の女性を見つけて恭しくお辞儀をする。昨夜の雨風で散り落ちたのだろう足元の落ち葉を竹箒で軽く払ってから明日香の方を向く小野寺百合子の面持ちには、年不相応の疲労が隠しきれずに滲んでいた。
「おはよう、明日香ちゃん。ごめんね、手伝いに来させちゃって」
「謝らないでください。私から言い出したことですから、そんなこと言いっこなしです」
申し訳なさそうに眉尻を下げる百合子に、やんわりとした口調で、けれどきっぱりと言い放つ明日香。一緒にやってきた和人は年上の女性達のやる掃き仕事には興味がなかったのか、神社の前すらさっさと通り過ぎて近くの茂みに走り入っている。元気の良い若者達が来てくれた喜びや、竹箒を操る手を止める小休止もほどほどに、百合子は左手で古びた社を指差し、明日香に示した。
「それじゃ、明日香ちゃん。早速だけど社殿のお掃除を任せちゃっていいかしら。雑巾とバケツは入ってすぐのところに置いてあるから」
「わかりました」
促された明日香は、指差すや否やすぐに建物に背を向けて落ち葉を掃き始めた百合子の横を通り過ぎ、木造の社殿へと土足で踏み入っていく。村民手ずから建てられた木造の住居を除くと、おそらく集落近辺では唯一であろう人工建造物。いつごろ誰の手によって造られたのか、果たして本当に人の手で造られたのかさえ定かでない古い神社には、人との接触が完全に途絶されたとき、よからぬことが起こるという伝承がまことしやかに囁かれている。ゆえに、たとえ参拝者がいまいと、こうして定期的に簡単な掃除へ赴いているのである。それも最近は百合子ぐらいしかやっていなかったという話だが、今日はその手伝いに明日香も、和人を伴ってやってきたというわけなのである。
拝殿に入り、百合子に言われた通りの入り口付近に置かれていた雑巾を手に取る。バケツには既に水が汲まれていたようで、二、三度雑巾を浸けたあと、しっかりと絞って床の木目と対峙する明日香。さほど広くない拝殿の中、床一面を一通り雑巾がけするくらいならばそこまで時間はかかるまい。そう勇んだ明日香は濡れ雑巾を床の角へ落とし、腕を捲って屈み、両手を雑巾に添えて床拭きの体勢に取りかかるのだった。
5
拝殿の床掃除は、明日香本人も想定していた通りそれほど時間もかからず完了した。
元々、簡単な掃き掃除と拭き掃除程度とはいえ、定期的に清掃の手入れはされているので、そこまで手間と労力を費やさずとも現状維持には十分だったのだ。
「さてと、次は本殿かな」
埃と汚れがこびり付いた濡れ雑巾を見て、拭き掃除の手応えを得た明日香は、バケツに汚れた布切れを放り、代わりにハタキを手に取り拝殿のさらに奥の部屋へと踏み入る。今となっては興味本位で足を運んでくるものなどほとんどいない古びた神社であるが、それに輪をかけてこの本殿に入る人は全くといっていいほどいない。本殿とは本来神体、すなわち信仰の対象となる依代が保管されている場所。一介の礼拝者が立ち入る必要のない場所であるため拝殿よりさらに狭く造られているのだ。斯く言う明日香も中に入ったことは数えるほどしかなく、こうした掃除の手伝いにでも来なければ本殿の存在すら知らなかったことだろう。
明かりも満足にない本殿の中は昼なお暗く、外の日の光を頼りに全くなにも見えないというほどではないものの、見渡すほど広くない空間には奥にポツリと桐箪笥のような厨子宮が置かれているだけで他にはなにもない。おそらく御神体が祀られているのだろう厨子宮は固く閉ざされていて如何にして開けるのか見当もつかない。ただしひとつだけ、その正体もわからない神殿には特徴と呼べ得るものは存在していた。
「この御神体、なんで文字だけ書いてあるんだろう」
個性を奪われたように特徴のない御宮には、前面と背面、そして両側面にそれぞれミミズのようにちぢれた文字が記されていた。字体が今のものではないため初見で即座に読み解くのはなかなか難しいが、よく目を凝らして形の特徴を捉えれば見当をつけることは容易くもあるようだった。背面は「北乃玄武」、正面から見て左側面は「西乃白虎」、右側面は「東乃青龍」、そして正面。
「『南乃朱雀』、この字だけ掠れてる」
最初に目がいくはずの正面に記された文字を、何故だか明日香は一番最後に読み上げていた。掠れている文字を読み解くのを無意識に後回しにしたからなのか、それとも。ひとつの文字だけが持つ違和感を明日香が口にしたとき、さらに上書きするような違和感がにわかに忍び寄ってきた。
「よう、スザク。いや、今は赤坂明日香と呼んだほうがいいか?」
その声は本殿全体に響き渡っているようにも、明日香の耳にのみ直接届いているようにも聞こえたが、いずれにせよ目を逸らすことなどできないくらい、明日香にははっきりと聞こえていたらしい。御神体に向いていた体ごと後ろへ振り返ると、入口の前に一人の男性が佇んでいた。
「どちらでも構いませんよ。こちらこそコウリュウ様、と呼べばいいですか?」
音もなく背後に男が現れていたことに、スザクは驚きすらしていなかった。突如として姿を見せたコウリュウは、あえて言葉を返さず前に垂れた長めの金髪を軽くかき分ける。上は白、下は黄土色を基調とした配色に整えられており、裾の随所に金色があしらわれている漢服姿は、まるで天と地をその一式で標榜しているかのようだった。
「この地に辿り着けば、お前がここに来ることはわかっていた。ここは神代、私達が地上に降り立つためのいわば中継地点だからな」
「そうですね。あなたまでいるのは意外だったけど」
織り込み済みとばかりにしたり顔をするコウリュウを、淡々とした軽口であしらうスザク。二人の会話には独特の空気感と抑揚があり、まるで周りの何者も寄せつけまいとしているようにお互いだけを見据えていた。
「しかし驚いた。まさか神代に辿り着く前に現代を見つけるとはな。まあ無事にここまで来れたのだから、それも事故みたいなものか」
少しだけスザクの元に歩み寄ってきたコウリュウという男にはスザクという存在と、赤坂明日香という少女の存在がある程度切り離されて見えているようだった。
「四神」とは主に四方を司る神。概念こそ浸透しているものの、その存在は地上からは隔離されているもの。そのため、彼らが地上に降り立つためには自らの存在を定着させ、神体を収めるための器を得なければならない。その存在を定着させるための場所が神代、神体を収めるための器が現代である。神代は東西南北各所に散らばっているとされる神社などの神域を指すが、現代は地上に存在する「もの」であればこれといった決まりはない。ただある程度の意思表示ができ、なおかつ自由に動き回ることができるほうが都合がいいから、人間の体が器に選ばれることが多いというだけのことなのである。
「事故……ですか。そうなんでしょうか。私が明日香を助けたのは、事故だったのかな……?」
「なに……?」
やや皮肉に近い自分の言葉を正直に受け止め、なおかつあまりうまく飲み込めていない様子のスザクに違和感を覚えたコウリュウが、人間の体を得た南の神を改めて見つめる。見かけは特に、なんの変哲もない十代半ばの少女。白いブラウスに紺のデニムを履いた、清楚ともクールとも捉えられる印象の、年の割に長身の少女。しかしそこに目ざとく異状を見つけたコウリュウは、些か意表を突かれたとばかりに一瞬言葉を詰まらせた。
「……これは驚いた。まだその現代の自我は残っているように見える。お前、その少女が死んだから器にしたんじゃないのか?」
「私は明日香を現代にしたなんて一言も言ってませんよ。たまたま見かけた明日香と一体化した。その結果が、現代を選ぶ目的と重なっただけ」
「要するに、気まぐれでその少女の命に宿ったということか? それで今日までずっと地上に居続けたと? お前、それがどういうことかわかっているのか」
「多分、わかっていると思います。けど、コウリュウ様が思っているほど、深刻には考えていないかも」
「そうだろうな。だがスザク、いつかは決めなくてはならないぞ。現代が神体を凌駕することなんてできない。いずれ器のほうに限界がくるからな」
「なら、その時がくるまで猶予はあるってことですよね」
二人の会話は、まだそれほど傾斜の急ではない渓流のようだった。その中でさらに例えるならば、スザクは緩やかに流れる谷川で、コウリュウはそのなめらかな流れを遮ろうとする岩だろうか。ここまでの一通りの対話の温度感が、すべて一致していないことを悟ったコウリュウは、それ以上食い下がることを諦めたらしく、数拍ほどの沈黙ののち、観念したようにスザクへ寄っていた足を数歩後退させる。
「わかった。スザク、お前は物わかりのいいやつだ。きっとお前なりに納得した結果なんだろう。見れるものは見るがいいさ。お前の言う猶予までな」
最初にスザクへ声をかけた入口前まで退がると、それ以上のことはなにも言わずに踵を返す。大して複雑でもない内装を真っ直ぐ歩き、薄暗い影に紛れたのを最後に、スザクの立ち位置から四神の長の姿は一切見えなくなってしまう。そこでようやく時間がまた動き出したように、スザクとは別の人格が目を覚ました。
「……今の人は?」
「コウリュウ。四方の中心に位置する……うーん、私達の上司かな」
「あの人の話、なにもわからない。神代とか現代とか。ねえ、あなた達は一体なにしに来たの?」
「その辺の話なら、気にしなくていいよ。どうせ大したことじゃないから」
「それじゃ、ひとつだけ教えて。いずれ器に限界がくるってどういうこと? 器って私のことだよね? 私はこれからどうなるの?」
「今はまだ言えない。そう言ったら怒る?」
「怒るわよ。だって、あなたは答えを知ってるんでしょう?」
「じゃあ、今は言わない。代わりに考えてみて。どちらにせよ決めなくちゃいけないから」
それからはお互いなにも言わず社殿を出た明日香だったが、ろくに本殿の掃除をしていないことに気づいたのは、外で掃き掃除をしていた百合子の姿を見つけてすぐのことだった。
6
次に気がついたとき、明日香は見慣れた木造の建物の天井を仰向けになって見つめていた。
どうやら知らぬ間に眠っていたらしく、ここは他ならぬ明日香が居候している戸建て————小野寺百合子の自宅の居間で、明日香の体には麻製の薄い掛け布団がかけられている。居眠りどころか神社から下山し村に戻ってきた覚えすらないのか、徐に上体を起こしあたりを見回す明日香の眼差しは、寝起きを差し引いてあまりあるほどに朧げであった。
「明日香ちゃん、起きたのね」
「百合子さん。私どれくらい寝てたんですか?」
「そんなに長くはないわよ。外をごらんなさい。まだ日も暮れてないでしょう?」
前掛けと三角巾を着けて夕飯の支度をしている途中だったらしい百合子が、台所から顔を出して目を覚ました明日香の様子を伺う。百合子に促されるまま、開け放しにされていた窓越しに外へ目を向ける明日香の目に映ったのは、紅くもない白光に晒された明るい世界。どうやら神社の掃除からそれほど時間が経っていないという、百合子の言い分は方便ではなかったようだ。では一体いつから眠っていたのか、神社から村までは自分の足で下山したのだろうか、それほど疲れているつもりはなかったのに、なぜ記憶にないほど深く眠ってしまっていたのか。さまざまな疑問が連鎖して浮かばないでもなかったが、明日香の頭の中でそれらが隅に追いやられたのは、外に目をやった瞬間、真っ先に見えた人影を捉えたからであった。
「……和人はまだ?」
「ええ。まだまだ遊び足りないのでしょうけど、寝ている明日香ちゃんを起こしたら悪いって思ったんでしょうね」
明日香と百合子の視線の先には、家の前の地面に木の棒を使って絵を描いている和人の姿があった。それは、特段寂しそうと言うほどの背中ではなかったが、楽しんでいるようにも見えない後ろ姿。斯様な和人の小さな背中にえも言われぬ不安が掻き立てられたのか、次に紡がれた明日香の一言はあまりにも小さかった。
「……今日も一人なんですね、和人」
その独り言は、おそらく百合子にも聞こえていたのだろうが、彼女はすぐに返事をしようとしなかった。
山奥にひっそりと築かれているこの村の周りに、似たような集落が点在している話はなく、出入りすることすら容易ではないため住んでいる誰もが滅多に外へ出かけようなどとは思わない。当然、外から来るものなど全くといっていいほどいないどころか、外から見てこの辺鄙な村の存在が知られているかどうかすら怪しい。そんな事情もあり移り住んでくる人の足は皆無に等しく、村民の数も減少・老齢化の一途を辿っている。その現実に比例するように子供もごくわずかしかおらず、全員集めたところで視界に収まる程度の数にしかならない。そこまで大袈裟に人数が少ないと内側の結束はより強くなり、仲も深まりいつも一緒に遊んでいそうなものである。その少数の中には当然和人も含まれているはずなのだが、現実の彼はそんな理論に反して一人ポツリと地面に絵を描いている。それが思わしくないことだというのは百合子にとって、そして明日香にとっても共通であるようだった。
「あの子ももう七歳だし、そろそろ同じ年頃の友達と遊んでほしいんだけどねぇ」
そこまで深刻そうではないものの、百合子の伸びた語尾に混じる息は心なしか憂いを帯びていた。その一言に負い目を感じるところがあったのか、麻布で口を隠す明日香の眼差しに少しだけ影が落ちる。
「私があの子と一緒にいすぎるせいですよね? 申し訳ないです」
「そんなこと、あるわけないわよ。明日香ちゃんには感謝してるの。和人の遊び相手になってくれて……和人を連れてきてくれて」
ゆったりとした微笑みで明日香の自虐を否定する百合子の瞳は、ここではないどこかに思いを馳せているように儚げだった。おそらく彼女が瞳の裏で思い返しているのは、目の前の少女と初めて会った日のことなのだろう。七年前、死んだ姉の子を抱きながら自分の元を訪ねてきたあの日のことを。当時のことを鮮明に思い出せるのは、明日香も同様であるらしかった。
「私のほうこそ、百合子さんには感謝してもしきれません。あのとき行くあてのなかった見ず知らずの私を、こうして家に置いてくれたんですから」
「あなたは和人を連れてきてくれたのよ? あのときからあなたは他人なんかじゃなかったわ」
あの日交わしたはずの感謝をもう一度口にし合い、どちらからともなく笑みをこぼす二人の女性。その笑い声がただ穏やかに流れるだけならば幾分か平和だったのだろうが、そういうわけにもいかなかったのか、一頻り笑みを交わしたあとも二人の表情からほのかな寂しさや懸念が消え去ることはなかった。
そろそろ空の光が白から茜へと移りゆく。地面に和人が描いていた鳥の絵も、間もなく完成を見ようとしていた。
7
「ねぇ、どうしてもやらなくちゃダメなの?」
卓袱台に広げられた紙や冊子を両手の下敷きにしながら、不平をいっぱいに込めた声で和人が明日香に抗議する。既にその台詞は何度も聞いているのか、それに答える明日香の返事はやや形式じみていた。
「ダメ。和人も遊ぶだけじゃなくて、勉強も頑張らなくちゃ」
言いながら和人の手を卓上からどけさせると、出てきたのは基本的な文字の読み書きや簡単な足し算・引き算の練習問題。いずれもこれから暮らしていく上で最低限身につけておかなければならない教養であったが、まだ勉強という行為に馴染みのない和人にとって、決して楽しくないそれは不満でしかないようだった。
「だってこんなのつまんないもん。どうして面白くないのにやらなくちゃいけないの?」
「なかなか難しい質問ね。そうねぇ……これからの毎日をつまらなくしないためかな?」
「……よくわかんない」
一言にまとめられた明日香の回答は、和人にとってお気に召すものではなかったらしい。早くも自身の言う、つまらない日々の一片を見ようとしている幼い不満に危機感を覚えつつ、気を取り直させようと明日香はもう一度筆記具を握らせる。
「ほら、もう少しだけ頑張ってみよう? 私も手伝うから」
「じゃあ、頑張ったらお姉ちゃん、一緒に遊んでくれる?」
年甲斐もなくそんな交換条件を提示してくる和人に、明日香はすぐに返事をしなかった。代わりに頭の一部にとどまり続けていた懸念を、深刻にならないようにあくまで気楽な口調で尋ね返す。
「遊んであげるのはいいけど、私とばかり遊んでていいの? たまには他の子と遊んでみたら?」
「いいよ、そんなの。僕はお姉ちゃんさえいればそれでいい。お姉ちゃんがいいの」
「わかった。じゃあこれを少しだけ頑張ったら、一緒に遊びましょう。和人のやりたいことを一緒にやるの」
きっと和人のその返事は、明日香にとって思わしくないものだったのだろうが、彼女はそのことを追及しようとはしなかった。
それからしばらくの間、和人は腐らず卓上の練習問題と向き合い、明日香もまたそんな和人になにも言わず付き添っていた。時間としてはそれほど長くない、朝から昼へ日が映るより早い頃合いに、両手を大きく広げる和人のやりきった声は広がっていった。
「終わったぁ」
「はい、お疲れ様。よく頑張ったね」
和人の達成感に満ちた草臥れた声に報いるため、徐に彼の頭に手を乗せてそっと撫でてやる明日香。とはいえわんぱく盛りの子供にとっては、慰労よりも褒美のほうが重要だったらしく、すでに興味を失くした紙の束を払いのけつつ輝いた目で明日香へ迫る。
「約束だよ、お姉ちゃん! 一緒に遊ぼう!」
「はいはい、なにをして遊ぶ?」
「えっとね、なわとび! 僕、縄を持ってくるから待ってて!」
先ほどまでの不貞腐れた態度はどこへやら、遊びに行けることを知るや否や飛ぶようにして立ち上がり、押し入れに向かっていそいそと走り出す和人。その後ろ姿を微笑ましそうに見送る明日香の面持ちからは、年不相応の慈しみが滲み出ていた。
「本当に、和人は遊びになると元気いっぱいなんだから……」
その一言の語尾の一文字は、はっきりと彼女の口から発音されることはなかった。不意に座っているはずの飛鳥の上体がふらつき始め、両瞼も重くなり途端に瞳を閉ざさんと降りてくる。右手を床に、左手を卓袱台にそれぞれ置いて体を支える明日香の居住まいは、客観的に見ると危うさを覚えるほどに弱々しかった。
「あれ……なんでだろう。なんだかとっても眠い……」
その声がはっきりと紡がれたものなのか、もはや明日香本人には確かに聞こえてすらいなかった。なんとかして体は起こしていようと両手で支えるものの、その力すら心許なくなっていく。なぜ、急に眠気が襲ってきたのか。いや、そんなことはどうでもいい。とにかく今は、まだ眠る訳にはいかない。もうすぐ和人が戻ってくるのだ。形のない交換条件に従って、やりたくないことを頑張った少年が、やりたいことを自分とやるために今、奥の部屋へ引っ込んでいる。その子の笑顔を見るまでは、睡魔などに負けている場合ではない。いなくなれ。どこからきたのかわからない睡魔よ、いなくなれ。
明日香のその願いがどこかへ届くより先に、彼女の左手は卓袱台から滑り落ち、支えを失った上体は乾いた音を立てて床の上に倒れ伏したのだった。
8
次に明日香が目を覚ました時、あたりは真っ暗だった。
場所はいつの間にか居間から自身の寝室へと移動しており、灯りは消されていて常夜灯すらついていない。いつから曇りだしたのか、月も雲に完全に隠れてしまっているため正真正銘の真っ暗闇である。普段、こんな時間に目を覚ますことも、起きていることもない明日香にとって、音も光もないこの瞬間は恐ろしいものだったのか、起き上がりもしないまま真っ黒な天井を震えた瞳で見つめていた。
「嘘……私、どれくらい眠っていたの……?」
「だいたい半日くらいかな」
不意に聞こえてきたその声に、明日香は大袈裟に驚いて首をあちこちに回す。存在を認知こそしているものの、どうやら姿もなく声をかけられることにはまだ慣れていないらしい。
「半日? 半日も眠っていたっていうの? もしかして、これもあなたのせい?」
「人聞きの悪いことを言うね。眠くなったら寝るのは、正常なことじゃないの?」
「急に眠くなったり、半日も眠り続けるところのどこが正常だっていうの? お願いだから教えてよ。私の体、どうなっちゃったの?」
すがるような明日香の問いかけを前に、スザクの声はしばしの間途絶えた。その空白で考える余地が生まれた明日香の頭に、ひとつの仮説が浮かび上がる。それを確かめるように、続けて短く尋ねる。
「……もしかして、前あなたが考えろって言ったのって、これのこと?」
「コウリュウ様も言ってたよね。いつか限界がくるって。その始まりっていえばわかりやすいかな」
そこからのスザクの説明は淡々としたものであった。曰く、「四神」の魂に取り込まれずに一体化したまま維持された人間の魂が、異物の介入を拒絶し始めているのだという。元々、人間としての意志を残した状態でなされた不完全な一体化である。融合を果たしたあの時から、魂の拮抗はすでに始まっていた。それが少しずつ人間側にとって劣勢となり、現在に至っているのである。
「本来、ひとつの器に魂はひとつしか入らない。それが無理やりふたつ入っているのだから、あなたの魂が私を拒絶するのは当然なの。それで今、あなたの魂は私を必死になって追い出そうとしているってわけ」
「それって、私の魂に勝ち目はあるの? 人間と神様の対決でしょう?」
「ない。なにをやっても時間稼ぎにしかならないから、最後は私の魂に完全に取り込まれる。けど、それはあなたの存在がなくなることだから、そうならないように防衛本能が働くの。発狂したり、感情を閉ざしたりしてね。あなたの場合、それが眠りにつくということだったって話なの」
「じゃあ、神社から帰ってきたとき、そのまま眠ったのも?」
「そう。あのときは日が暮れる前くらいだったけれど、今回は半日。時間が長くなっているのは、あなたの魂の抵抗が弱くなっているからだと思う」
「それじゃこのままいくと、私は一生眠り続けることになるの?」
「そうなればまだいいけど、違う。その前にあなたの魂が私に完全に取り込まれて、あなたはいなくなる。赤坂明日香は、過去にも未来にも存在しなくなるの」
「そんな……」
暗闇の中にいる明日香の表情は、彼女の中にいるスザクには当然見ることができなかったが、ひどく落胆し、また絶望しているように、その声は聞こえていた。ほんの少し間を置き、彼女の絶望が一向に晴れないことを確かめてから、スザクは言葉を続ける。
「ひとつだけ、方法はあるよ」
「方法? 私が助かる方法?」
「あなたじゃなくて、あなたの存在が助かる方法。簡単なことだよ。あなたが私を受け入れて、委ねればいいの。身も心も、存在そのものも」
「そうすれば、私は生き延びることができるの?」
「残念だけど、赤坂明日香という存在を維持することはできない。私を受け入れたその瞬間から、あなたは赤坂明日香ではなく、「四神」のスザクになる。けど、少なくとも私の中に、あなたは残り続ける」
「神様になるから、もう人間界にはいられなくなるって、そういうこと? それじゃ、和人や百合子さんとは?」
「私達と人間とでは、存在する概念が違う。だから彼女達と接触することはできなくなる。少なくとも、今みたいに一緒に過ごすことは絶対にできない」
「そんなの嫌だ。私はまだ生きていたい。和人達と一緒にいたい」
「その願いは、どっちにしても叶わない。だって、あなたはもう死んでいるんだから」
「今更私に死ねっていうの? 私を助けたのはあなたのくせに」
「こんなことになるなら、助けてもらわないほうがよかった? 今死ぬより、あのとき死んだほうがマシだったって?」
「意地悪なこと言わないでよ、バカ!」
冷静な対話ができなくなるほど取り乱し、一方的に会話を断ち切った明日香が、スザクの声から顔を背けるように両耳を塞ぎ、やや乱暴に体を布団に倒す。半日も眠り通していたのだから、今更眠れるはずがない。そうわかっていてもなお、頑なに両目を瞑ったまま少しも動こうとしなかった。
「……ごめんなさい、かな」
ポツリと落ちたスザクのその一言は、耳を塞いでいる明日香の脳裏にもしっかりと響いていた。
9
次に明日香が目を覚まし、百合子達の前に起きた姿を見せたのは、さらにひとつ先の夜が過ぎた朝のことだった。
居間で突然睡魔に苛まれてから半日、スザクと口論を交わしたのち、無理やり寝床に就いてから丸一日。合わせて一日半もの時間を、ほとんど眠って過ごしたというのだ。
目覚めた明日香は、まず迷惑をかけた百合子と、約束を破ってしまった和人に謝った。百合子は笑って許すどころか、彼女の体調の心配までしてくれたが和人はそういかなかったようであり、その日は一日中、和人の遊びに付き合うことになった。もちろん、それは明日香自身も望んでいたことであり、先日の約束を反故にしてしまった罪滅ぼしも込めて、彼女は喜んで和人のわんぱくに連れ回されていた。
そうしてまたひとつ、何気ない一日を過ごし、三人で夕食を囲み、入浴も済ませた宵の時、明日香の意識はまたしても突然途切れた。そして次に明日香が目を覚ました時、時間は七つの夜を通り過ぎていた。
*
「ねえ、お母さん。どうしてお姉ちゃんは眠ったままなの?」
夕方どきの、水を流す音と包丁でまな板を叩く音ばかりが響く静かな台所に、和人のその声はいやに大きく広がっていた。
「そうねぇ。もしかしたら、明日香ちゃんもちょっと疲れちゃったのかもしれないわね」
まな板に横たえたネギを、包丁で端から刻みながら百合子が気のない返事をする。もちろん、それは和人を安心させるためにわざといつも通りに振る舞ったものなのだが、まだ理性より感情のほうが優勢な和人にそこまでは伝わらなかったようで、さらに質問を重ねてくる。
「だけど、もう七日だよ。七日もずっと寝てるなんて、いくらなんでもおかしいよ」
「それはそうだけど……」
「あの神社のお掃除に行ってから、なんだかお姉ちゃん変だよ。やっぱり、あの神社にはなにかがあるんだよ」
「そんなこと……」
次第に興奮混じりとなり、熱と速度が加わっていく和人の言葉の、若さ特有の鋭さと制御の利かない力加減に、百合子も次第に真っ当な切り返しができなくなってしまう。しかし、続けて放たれた和人の強い一言に対してだけは、それ以上に強い語調で応える。
「ねえ、お姉ちゃんどうなっちゃうの? このまま死んじゃうの? 嫌だよ。お姉ちゃんが死ぬなんて、絶対に嫌だ」
「バカなことを言わないで。死ぬなんて言葉、簡単に使っちゃいけないのよ」
いつになく強い口調で制されて、思わず和人もそれまでの口を止めてしまう。そのあとすぐ、穏やかな口調に戻った百合子に励まされ、頭を撫でられたものの、不安そうで、それでいて悲しそうな和人の表情は、母親の言うことに全く納得ができていないことを物語っていた。
「…………」
そんな親子の、何気なくも穏やかでない会話を、死角となる扉の脇で明日香は立ち聞きしていた。
目を覚ましたのはつい先刻だが、寝室から居間に向かう廊下を歩いている最中に二人の話し声は聞こえてきたため、話の一部始終を立ち聞きしたことになる。二人の憂慮ある会話で徐々に沈む声色を耳にしてもなお、明日香はその場から一歩踏み出そうとはせず、それどころか足を逆に向けて百合子達から遠ざかろうとしていた。
「行かないの?」
そんな明日香のあとずさる足を引き止めたのは、脳裏に響くスザクの声。あるいは引き止めたわけではなく、単純に疑問に思ったからただ尋ねたに過ぎないのかもしれない。
「…………」
脳に響くスザクの声に、明日香はすぐに返事をしなかった。居間へと続く引き戸からは完全に背を向けつつ、二、三度足を進めては徐に壁へもたれかかる。
「ねぇ、もしまた眠ったとして、次に私が起きるのはいつごろなのかな?」
「たぶん、何月か、何年か先。けれど、その前にあなたが消滅する可能性のほうがずっと高いよ」
「……そっか」
一握の望みを込めてかけたのだろう明日香の問いに対し、さらに残酷な事実をもってスザクが答える。その宣告に対する、明日香の反応はひどく気のないものだった。表情の変化も乏しく、狼狽えた様子すらほとんどない。少しずつ、自分の寝室へと戻っていく足取りの中で、明日香は呆然と自分の左手のひらを見つめていた。
「じゃあ、もう私は会えないんだ。今の和人と百合子さんに。……これから成長していく和人にも」
「…………」
「残念だなぁ。もう少し……もっと、和人と一緒にいたかったなぁ……」
弱々しく呟く明日香の口角は上がっていたが、両目からは音もなく涙が流れていた。彼女が涙を流している意味を、彼女の中に在る神は知らない。目から出ている液体を涙と呼ぶことすら、おそらく知らない。次に少女へ投げかけた一言さえも、もしかしたら単なる気まぐれなのかもしれなかった。
「……ねえ、明日香。あなたの願いはなに? なにがあなたの幸せ?」
「どうしたの、急に」
「いいから、教えて」
「そんなもの、ないよ。今の私に願いなんて……」
「いや、あるはずだよ。だって願いは人の生きる思いで、それを求めることを幸せと呼ぶのでしょう?」
「…………」
「あなたはこれまで、何を思って生きてきた? 何を願って、幸せを求めたの?」
「……私の願い……私の幸せは……」
10
その少年は、自分の家の前で木の棒を振り回し、地面を引っかいて絵を描いていた。
丸や四角や三角、はたまたただの棒線など、簡単な形を組み合わせては、連想できるなにかを生み出していき、ある程度満足したら完成させることもせず足で踏み消してしまう。
そんなことを何度も何度も、一言も喋らずひたすら繰り返している。
楽しむべくして楽しんでいるのだろうか。それとも無為な時間を紛らわすために最も易い手段に甘んじているのだろうか。
それほど回数を繰り返さない間に、少年の手は止まり、持っていた木の棒は無造作に投げ捨てられる。残念ながら、行動の真理は後者であったようだ。臀部が砂で汚れることにも構わずその場に座り込む少年の表情はひどくつまらなそうで、それでいて孤独だった。
「…………」
なぜ、こんなにも退屈で、かつ寂しさを感じるのか、少年本人にもよくわかっていなかった。自分に友達などいない。少なくとも、同じ目線で物事を見て、同じ敷居の遊びに付き合ってくれる友達は。自分はずっと、こうして一人で暇を潰すために遊んでいたはずなのだ。だというのになぜ、急に一人であることを寂しいと思ってしまうようになったのだろう。否、一人になることが寂しいということを知ってしまったのだろう。
「……おなかすいた」
考えても答えが出ないことは、得てして不快なもの。釈然としない苛立ちを空腹のせいということにして、立ち上がった少年はトボトボと家の玄関へと足を向ける。彼の足が止まったのは、そのまま歩き出そうとする背中に近づいてくる声があったからだった。
「ねえ、そこでなにをしているの?」
最初、それが自分に向けられた一言であるという確証が、少年にはなかった。しかし、周りに自分以外の人がいないことを見回して、ようやく自覚を得たのかゆっくりと後ろへ振り返る。そこに立っていたのは、自分と同じくらいの年齢と背丈をした少女。やや長めの髪を、左右両側で結んでおさげ形にしている少女だった。
「え……」
「一人でいるなら、こっちに来ない? 今、みんなで鬼ごっこしてるの。一緒に遊ぼう?」
いきなり声をかけられて、どう応えたら良いのかもわからずただ吃るばかりとなってしまう少年だったが、そんな様子を気にかけることもなく、少女の方はグイグイと歩み寄ってくる。少年は目の前の少女の顔も名前も知らない。もしかしたらどこかですれ違ったり、顔を合わせたことくらいならあるかもしれないが、少なくとも記憶に残らない程度の薄い関係だったはずなのだ。そんな子がどうして、いきなり自分の前に現れ、あまつさえ声をかけてきたのだろう。況してや遊び相手という、子供にとって重要な集団に誘おうなどと。
「で、でも……」
「一人でいるより、みんなでいたほうが楽しいよ。ほら、行こう?」
「え、えっと……う、うん……」
断ることができず、かといって身を乗り出すほど図々しくもなれず、結局掴まれた手に促されるまま引っ張られ、村の広場のほうへと連れ出されていく少年。その表情はどこまでも戸惑いに満ちているものだったが、対する少女のほうはやり遂げたように晴れやかに笑っていた。
11
「願いと幸せは必ずしも一致しない、か」
「違いますよ、コウリュウ様。これは私の願いであり、『私』の幸せなんです」
「……そうか。それで、神代は?」
「ご心配なく。きちんと記名しておきましたから」
「そいつはよかった。ならじきに次のやつも来るだろ。お前はどうする? いったん戻るか?」
「どうせ全員集まるまで待たなくちゃいけないのでしょう? なら残ってますよ。せっかくだし、地上を見てまわります」
「そうかい。けど気をつけろよ? 地上の生き物との接触は————」
「わかってますよ。本当にただ見物するだけですから。もし破ったら、消すなり縛るなり好きにしてくれて構いません」
「わかった。そこまで言うならなにも言わん。それじゃ、またあとでな。スザク」
「……そっか。忘れられるって、こういう気持ちなんだ」
そのとき、南の空にひとつの星が瞬いた。