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冷めたコーヒーは、美味しくない  作者: やわらぎメンマ
9/11

弱った電池は、充電すべし

――長い廊下に、二人分の足音が重たく響いていた。

窓から差し込む光は冷たく白く、床のワックスの匂いが微かに鼻を刺す。

昼休みが終わり、校舎全体は静まり返っている。時折、教室からチョークを走らせる音や教師の声が漏れ聞こえるが、ここだけは別世界のように静かだった。


美鈴は宏太の背中を追いながら歩く。

歩幅は自然と小さくなり、両手の指先は強く握られて汗ばむ。

一歩ごとに胸の鼓動が早まり、心臓を押さえつけられるような緊張が体を支配していく。

視線の先にあるのは校長室の扉。重厚な木製のその扉は、牢獄の入口にも、救いの門にも見えていた。

「……糸川さん、菅谷と知り合いだったんだな」


ふと、宏太は振り返ることもないまま美鈴に問いかけた。

その唐突な問いに、美鈴は目を瞬かせる。

だが一呼吸を置き、先ほどの出来事を反芻しながら口を開いた。


「はい。小さい時に一度会っただけですけど……。でも、私にとって彼との出会いは、大切なものなんです」


言葉を紡ぐうちに、冷え切っていた心に少しずつ温もりが戻るのを感じた。


しかし――


「……そうか。幸せなこったな」


返ってきた宏太の声は、どこか遠い。

呟きは溜息のようで、温度の差に美鈴は眉を寄せた。


「……先生?」


問いかけに、宏太は視線だけ斜め上を見つめる。扉はもう目の前だった。


「俺も親父に育てられたからな。ま、俺と違って、糸川さんは大人だ」

「えっ?」

「ヤンチャしてたガキが、恩師に奮起させられて教師になった。よくある話だよ。……けどまあ、俺は今もずっと逃げてばかりだ。だから糸川さんは俺なんかよりずっと強くて、大人だ」


独り言のように吐き出す声。

自嘲を含んだその背中は、どこか影を背負っているように見えた。


美鈴は言葉を探し、かけかけた。

「先生、その話――」


しかし、その続きを飲み込む間もなく。


――コン、コン。


宏太の拳が重く扉を叩いた。音は廊下全体に響き、息を潜めていた美鈴の胸を震わせる。


「失礼します」


乾いた声とともに扉が開かれる。


その瞬間、美鈴の胸にあった緊張は別の形へと変わっていた。

――恐れではなく、ただひとつの疑問。


(お父さんは、どうして……私を見てくれないんだろう?)





 扉を開けた瞬間、美鈴の喉は自然と詰まった。


 そこは、静謐でありながらも異様な圧を放つ空間だった。

 磨き上げられた重厚な机を挟んで、三人の大人が向かい合っている。窓から差し込む光は鈍く反射し、観葉植物の影が床に落ちているのに、どこか冷たい。


 机の奥に座るのは、美鈴の父――糸川直哉。

 仕立てのいいスーツに身を包み、背筋を真っすぐに伸ばしている。鋭い眼差しと硬く結ばれた口元。その威圧感は、ただそこに座っているだけで場を支配していた。


 対する校長・長瀬貞夫は、いつもの穏やかな笑みを浮かべ、机上に軽く手を置いている。だがその笑みの奥には、何かを見透かしているような光が潜んでいた。

 傍らのソファーには、美鈴の担任が所在なさげに座り、目のやり場を失っている。


 三人の視線が、一斉に宏太と美鈴へ注がれた。

 「美鈴……」

 父の声は険しさを含みながらも、安心と呆れ、そして押し殺した怒りが混じっていた。


 「お父さん……」

 美鈴は震える声で応えた。胸の奥には、不安と疑問が渦を巻いていた。


 その空気をやわらげるように、校長が手を叩いた。

 「助かったよ、新田先生。さあ、二人とも座りなさい。今、お茶を用意しよう。……加藤先生、手伝ってもらえるかな?」


 「え、ええ……まあ……」

 困惑しながら立ち上がる担任。宏太は思わず声を上げた。

 「いや、俺が手伝いますよ」


 だが校長は微笑んで首を振った。

 「新田先生は、まずご挨拶を。こちらは茶の用意をしておくから」

 「えっ、ちょっと……!」


 そんな彼が小さく舌打ちしたのを、美鈴は聞き逃さなかった。


 仕方なく彼は姿勢を正し、父に向き直る。

 「失礼します。自分は1年5組の担任をしています、新田宏太です」

 「お忙しいところをありがとうございます。娘を探してくださっていたと伺いました」

 父は淡々と応じる。整った言葉遣いは、なおさら距離を感じさせた。


 「いえ……今日はたまたま時間が空いていたので。えっと……美鈴さんの保護者の方、と伺ってますが」

 「はい。私が父の糸川直哉です」


 握手もなく、名刺のやりとりもない。だがその名乗りだけで場はさらに緊張を増した。


 父はゆっくりと腰を下ろし直すと、口を開いた。

 「この度は娘がご迷惑をおかけしました」

 「いえ、私は……」宏太が言いかけると、父は重ねて言った。

 「周りの先生方にも心配をかけ……まったく、入学早々、校長室にお招きいただくことになるとは思いませんでしたよ」


 低く、皮肉を含んだ声音。

 空気がぴんと張り詰め、美鈴は思わず背筋をこわばらせた。


 他方で、彼が娘に向ける非難ともとれる言葉を聞いた宏太は、内心で弛んでいた糸が急に張られる感覚があった。

 「……それは、貴方の本音なんですか?」

 やがてその糸は何の予兆もなく、ぷつりと切れた。

 「あんたの娘が、どんな思いでここに来てるか分かってるんですか!」

 

 突然の宏太の激昂に、美鈴の心臓が跳ねた。思わず父を見ると、冷ややかな視線が宏太に投げ返される。

 「正直、理解できているとは言えませんね。ですが、それを他のクラスの担任教師が口を出すことではないでしょう」


 宏太は一歩踏み出し、声を張り上げた。

 「担任もクソもあるか! 生徒を育てる立場なら、自分のクラスだろうが関係ない! 教師は向き合うんだ、それが義務だろッ!」


 その言葉は雷鳴のように室内を震わせた。

 美鈴は呆然と立ち尽くし、父は顔色ひとつ変えぬまま、冷たく返す。

 「新田先生、でしたよね? 貴方には貴方の教育論があるのは結構なことです。ですが―――」

 美鈴の父は、冷たい口調のまま、冷淡に言い放つ。

 「――家庭と学校では、役割が違う。親は道を示し、教師は知識を与える。それだけです。教育の世界に身を置く貴方なら、よくご存じのことでしょう?」

 

 宏太は言葉を飲み込んだ。

 美鈴の父は、暗に宏太に対して”まだ親の気持ちも知らないお前に、余計な指図をされる筋合いはない”と言っているのだ。 

 社会人となった今、立場や状況が違えば、時に人は望まない選択を迫られることがある―――いや、その方が現実に多いことくらい、宏太も知っている。

 

 (クッ……)

 

 そういう出方をされると弱い。

 言葉を詰まらせ、悔しげに唇を噛む。

 

 しかし宏太は、すぐに息を吐き、声を落ち着かせる。

 そして彼は振り返り、美鈴をまっすぐ見据えた。

 

 「……糸川さん。お前は、それでいいのか?」


 短い問い。

 けれど、それは美鈴の胸に深く突き刺さった。


 はっとして、彼女は父を見つめ返す。


 「……お父さん」

 声は震えていたが、目は逸らさなかった。

 「まずは……心配かけちゃって、ごめんなさい」

 深く息を吸い込む。胸の奥で何度も繰り返した言葉を、美鈴は勇気をもって吐き出した。

 「でも、今回の家出は、私にとって絶対に必要なことだったの。逃げてばかりの自分に決別するためも、我慢ばかりの自分から抜け出すためにも、そして……お父さんに反抗するためにも」

  

 頬を涙が伝う。

「なんだって?」

 鋭いメスのような目を向けながら、美鈴の父は言葉を待つ。

 同時にその声は、低く何処か威嚇しているようにも聞こえる。

   

 だがそれでも、美鈴は言葉を止めなかった。

 「だって、お父さんは私をいつも見てくれなかったじゃん! 学校行事だってろくに参加してくれなかった。私が家にいるのを分かっているくせに、家に帰ってきても”ただいま”の一言もなければ、”いってきます”の声だってかけてくれない……。だから私は、逃げて、我慢して、苦しくなってたんだよ……! 私はお父さんにとって、ただの同居人だったんでしょ!?」

  

 掠れて震えていた。

 それでも、その響きは強かった。

 やがて長い沈黙が流れる。

 直哉の肩が小さく震えた。


 「……私が……」かすれた声が漏れる。

 それは次第に熱を帯び、爆発する。


 「私がいったいどれだけ……、大切な人から裏切られ続けながら……、どれだけのプレッシャーに耐えながらッ! どれだけ美鈴のことを大切に思ってきたと思っているんだッ!」

 言葉は怒号に近かった。けれどそこに込められていたのは、怒りではなく、押し殺してきた寂しさと、どうしようもないもどかしさだった。

 

 そんな実の父の姿を、美鈴は初めて目にしたのだろう。

 彼女の瞳は、完全に驚きと困惑の色に染まっていた。

 強くて完璧で、いつも冷静に生きる父が―――こんなにも弱さをさらす瞬間を。

 

 

 また校長室は、静寂に包みこまれる。

 部屋の端にある置時計の針の音が、やたらと主張し始めた。

 だがこの時、宏太はふと予感したことがあった。

 この親子が感情的になることで生まれた重い空気の中で、確かに何かが変わり始めることを―――。

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