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冷めたコーヒーは、美味しくない  作者: やわらぎメンマ
8/10

いつかの風景は、あついまま

 ――真夏の昼下がり。

 白く焼けるような日差しが、校庭よりもずっと狭い町の公園を照りつけていた。蝉の鳴き声は耳に痛いほどで、空気さえ揺れているように見える。


 当時まだ幼かった美鈴は両親に連れられて、母方の親戚の家へ向かう途中だった。

 久しぶりの家族での外出――それだけで胸を弾ませていたのに。


 けれど、期待はすぐに裏切られる。

 母方の実家についてまもなくして、父と母が口論を始めたのだ。

 最初は些細な言葉のぶつかり合い。だがすぐに互いの声は荒れ、歩幅も乱れ、娘の存在など忘れたように言葉を投げつけていた。


「……まただ」

 小さな胸に広がったのは驚きよりも、もう慣れた諦め。


 せっかく今日は楽しい日になると思ったのに。

 どうして、こんな時まで――。


「……やだ」


 気づけば足は勝手に走り出していた。

 怒鳴り声から逃げるように駆け込んだのは、すぐそばにあった町内の公園。

 真ん中にある、十字に埋め込まれた土管の中へ。

 ひんやりとした空気に包まれたその場所で、声を殺して泣いた。


(どうして、わたしの家はいつもこうなんだろう……)


 小さな肩を震わせる嗚咽は、蝉時雨に紛れて消えていった。


 *


「あれ?」


 不意にかけられた声に、びくりと肩が跳ねた。

 土管の入口から顔をのぞかせたのは、同じくらいの年格好の男の子。額に汗を光らせ、片手には郵便局のスタンプが押された紙を持っている。


「こんにちは! ねえ、なんで君はこんなところで泣いているの?」


 あまりにまぶしい笑顔に、不意を突かれたように涙が止まった。

 美鈴は鼻をすすり、かすれた声で返す。


「ぐすっ……ふぇ……?」


「僕は、すがやそうっていうんだ!」

 男の子は気にすることなく名乗り、にかっと笑った。


(すがや……そう……?)

 聞き慣れない苗字に、幼い頭は少しだけ混乱する。


「君、ここの子じゃないよね? なまえ、なんていうの?」


 その問いに、美鈴は小さくつぶやいた。

「……みーちゃん」


「みーちゃんね!」

 屈託のない笑顔とともに即座に受け入れられる。


「みーちゃんはなんで泣いてるの?」


「ママとパパが……けんかしてて……。わたし、どうしたらいいか分からなくて……」

 泣きながら事情をこぼすと、男の子は一瞬だけ考え込み、そして胸を張って言った。


「そっかー。じゃあさ、みーちゃんのお父さんたちが仲良くなるまで、一緒に遊ぼうよ!」


 差し出された右手。

 一瞬だけ迷ったけれど、その笑顔に抗えなかった。

 気づけば、小さな手はその温もりをぎゅっと握り返していた。


 *


 二人は夢中で遊んだ。

 ブランコを漕ぎ、滑り台を駆け上がり、鬼ごっこをして、砂場で山を作って。

 ひとつ遊びを終えるごとに、美鈴の表情から不安の色は消えていく。

 最初は遠慮がちに笑っていたのが、次第に声をあげて笑えるようになっていた。


(……楽しい。こんなに笑ったの、いつぶりだろう)


 小さな胸の奥で芽生えた温かさは、蝉時雨よりも強く彼女を包んだ。


 やがて遊び疲れた二人は、公園のすぐ近くにある小さな商店に立ち寄った。


「ラムネ、飲もうよ!」

 爽は遠慮のない調子でポケットから硬貨を取り出し、瓶入りのラムネを二つ。

「はい、これ」

 当然のように差し出され、美鈴は少し戸惑いながらも受け取った。



「これ……どうやって開けるの?」


 ビー玉の浮かぶ独特な栓は、彼女にとって初めて見るものだった。

 爽は「ふふん」と鼻を鳴らし、青いキャップを指で弾いた。

「こうやるんだよ! このキャップで上から押すんだ」


 お手本を見せるように、瓶の口にキャップを当ててぐっと押し込む。

 ――ポンッ! ビー玉が落ちて、しゅわしゅわと泡が吹き出した。


「わっ……!」

 思わず身を引いた美鈴の鼻先に、甘い炭酸の香りがふわりと広がる。


「ね、簡単でしょ? やってみなよ」

 爽に促され、美鈴も恐る恐るキャップを押す。

 けれど力加減が分からず、勢い余って中身があふれ出した。


「あ、ああぁ!」

 慌てて両手で受け止める美鈴。炭酸で指先がひんやり冷たくなる。


 爽は吹き出すように笑って、タオルでごしごしと拭ってやった。

「ははっ! すごいな、みーちゃん。初めてでここまで泡出す子、見たことない!」


「もう……笑わないでよ……」

 唇を尖らせながらも、美鈴の目尻は自然にほころんでいた。


 二人はごくごくと瓶を傾け、喉を潤す。

 飲み終えた美鈴は、瓶の口に沈むビー玉をのぞき込んだ。

「このビー玉、とれないのかな?」

 飲み終えた瓶を覗き込みながら、美鈴がぽつりとつぶやく。


 爽はしばらく考えた後、きらきらと瞳を輝かせた。

「やってみよっか!」



 棒で突っつき、逆さにして振り回し――。必死に挑む爽の横顔に、美鈴は胸の奥が妙に熱くなるのを感じていた。

 結局、青色の蓋を逆に回すとあっさりビー玉は転がり落ちた。


「ほら! とれたよ!」

 手のひらに載せられたガラス玉。

 夕陽に透けるその光は、何よりも美しく見えた。


 あのときの嬉しさと、彼のはしゃぐ姿は、美鈴の中で今も原風景となって残り続けていた。


 *


 夕方五時。

 蝉の声が少しずつ弱まり、風が涼しさを帯び始めた頃。


「爽!」

 慌ただしい声とともに、女性が駆け寄ってきた。爽の母だった。驚きと心配の入り混じった視線が、見知らぬ少女に注がれる。


 するとその背後から、美鈴の両親も慌てて現れた。

 強く抱きしめられ、涙ながらに名前を呼ばれる。


 それでも、胸の奥の冷たさは消えなかった。

 けれど――横で小さく手を振る爽の笑顔だけは、どうしても焼き付いて離れなかった。

 これが彼との出会いで、最後の会話。

 後になって振り返ってみれば、それは彼女にとっての初恋と呼べるものだったのかもしれない。

 

 そんな過去の景色は、今も確かに熱を帯びたまま、十年の時を経ても美鈴の中に残り続けていた。 


***


 「……やっと、見つけた」


 時がかなり進んだ今。

 がらりと扉が開き、荒い息を整えながら爽が立っていた。

 美鈴は思わず立ち上がり、驚きと困惑が入り混じった声を漏らす。


「なんで……菅谷くんがここに……?」


 汗をぬぐいもせず、爽は真っ直ぐに言った。

「君を探してた」


「え……でも、私のことなんて……」


 言いかけたその瞬間、爽は言葉を重ねる。

「間違いだったらごめんなんだけどさ。もしかして君って、“みーちゃん”? 昔、一緒に遊んだことあったよね?」


 美鈴の瞳が大きく揺れる。

 胸の奥が、ぎゅっと詰まったようだった。

 忘れられないと思っていた記憶。なのに、なぜ今さら――。


 爽はそっと続けた。

 「さっき、第二体育館でピンポン玉を見つけたんだ。それを見た瞬間、昔のことを思い出した。真夏の公園で、ラムネ瓶からビー玉を出そうと必死になってた自分と……隣で笑ってた君のこと」


その言葉に、美鈴の頬を涙が伝った。

「……どうして今さら……」


「ごめん。僕にも色々あって……思い出せなかったんだ」


 爽のまっすぐな眼差しに、美鈴はうつむき、唇を震わせる。

「……許さない……」


 目尻に涙がにじむ。

 その横顔を前に、爽はただ黙って彼女の傍に歩み寄る。

 そしてためらうことなく、美鈴のすぐ隣に腰を下ろし、小さな手をそっと取った。


 次の瞬間、堰を切ったように美鈴は泣き出した。

 声を殺し、肩を震わせながら、ただ涙をあふれさせる。

 爽は何も言わず、その横で静かに座り続けた。

 ――泣き止むまで、ずっと一緒に。


 *


 しばらくして、涙が落ち着くと、二人は自然と昔話を始めた。

 公園の土管、蝉時雨。

 遊具を駆け回ったこと。

 そして、ラムネ瓶と、転がったビー玉。


「……ほんとうに、思い出してくれたんだね」

「うん……。ごめん、ずっと思い出せなくて」


 そのやりとりだけで、美鈴の胸の奥に、さっきまでの冷たさが少しずつ和らいでいった。


 やがて話題は、美鈴のこれまでに及んだ。

 小学校のころ、両親の離婚。

 医師である父に引き取られ、生活は足りていても、ずっと孤独だったこと。

 言葉にするたび、重く沈んだ過去が零れ落ちる。

 爽は一つも遮らず、ただ頷きながら聞き続けた。


 気づけば、二人は二時間近く語り合っていた。

 昼休みの開始を告げる予鈴が、校舎に鳴り響く。


「やっと見つけたぞ……」


 不意にかけられた声に、二人は同時に顔を上げた。

 教室の扉にもたれかかるように立っていたのは、爽の担任・宏太だった。


「……先生……」


 爽はその姿を見た瞬間、校長から託された“任務”を思い出す。

 美鈴を連れて行かなければならない。

 その想いは、さっきまで聞いてきた彼女の言葉と重なり、より強く心に根を下ろしていた。


「糸川さん、一緒に行こう」


 爽の差し出した手に、美鈴はわずかにためらう。

 ――現実に戻ることへの怖さ。

 けれどその不安を、爽の声が包んでいく。


「大丈夫。僕も一緒だから」


 胸に落ちたその言葉に、美鈴はようやく頷いた。

「……ありがとう。でも、もう大丈夫だよ」

 

 そう、これは美鈴自身で解決しなければいけない問題だ。

 この逃げ場としていた仮の居場所から、巣立つとき。

 それは、美鈴自身が意志と覚悟をもって、立ち向かわなければならない。


 そしてそのための力を、爽はもう既に十分すぎるくらいに与えてくれた。

 これ以上、彼に甘えるわけにはいかない。だから―――、

 「爽くん、話が終わったらまたラムネ、買いに行こうね!」

 

 美鈴は自分の足で再び立つと、屈託のない笑顔で彼にそう投げかけた。


 そのやり取りに宏太は肩をすくめる。

「何があったのかは知らねーけど、とりあえず糸川さん、校長が呼んでるから行くぞ。菅谷は後でサボりの件、説教なー」


 気だるそうな声だけ残して先に歩き出す宏太。

 けれどその背を見て、爽と美鈴は思わず小さく笑い合った。


 そして、美鈴は歩き出す。

 現実と向き合うために。

 再び時計の針を進めるために。

 父が待つ校長室へと――。

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