いつかの風景は、あついまま
――真夏の昼下がり。
白く焼けるような日差しが、校庭よりもずっと狭い町の公園を照りつけていた。蝉の鳴き声は耳に痛いほどで、空気さえ揺れているように見える。
当時まだ幼かった美鈴は両親に連れられて、母方の親戚の家へ向かう途中だった。
久しぶりの家族での外出――それだけで胸を弾ませていたのに。
けれど、期待はすぐに裏切られる。
母方の実家についてまもなくして、父と母が口論を始めたのだ。
最初は些細な言葉のぶつかり合い。だがすぐに互いの声は荒れ、歩幅も乱れ、娘の存在など忘れたように言葉を投げつけていた。
「……まただ」
小さな胸に広がったのは驚きよりも、もう慣れた諦め。
せっかく今日は楽しい日になると思ったのに。
どうして、こんな時まで――。
「……やだ」
気づけば足は勝手に走り出していた。
怒鳴り声から逃げるように駆け込んだのは、すぐそばにあった町内の公園。
真ん中にある、十字に埋め込まれた土管の中へ。
ひんやりとした空気に包まれたその場所で、声を殺して泣いた。
(どうして、わたしの家はいつもこうなんだろう……)
小さな肩を震わせる嗚咽は、蝉時雨に紛れて消えていった。
*
「あれ?」
不意にかけられた声に、びくりと肩が跳ねた。
土管の入口から顔をのぞかせたのは、同じくらいの年格好の男の子。額に汗を光らせ、片手には郵便局のスタンプが押された紙を持っている。
「こんにちは! ねえ、なんで君はこんなところで泣いているの?」
あまりにまぶしい笑顔に、不意を突かれたように涙が止まった。
美鈴は鼻をすすり、かすれた声で返す。
「ぐすっ……ふぇ……?」
「僕は、すがやそうっていうんだ!」
男の子は気にすることなく名乗り、にかっと笑った。
(すがや……そう……?)
聞き慣れない苗字に、幼い頭は少しだけ混乱する。
「君、ここの子じゃないよね? なまえ、なんていうの?」
その問いに、美鈴は小さくつぶやいた。
「……みーちゃん」
「みーちゃんね!」
屈託のない笑顔とともに即座に受け入れられる。
「みーちゃんはなんで泣いてるの?」
「ママとパパが……けんかしてて……。わたし、どうしたらいいか分からなくて……」
泣きながら事情をこぼすと、男の子は一瞬だけ考え込み、そして胸を張って言った。
「そっかー。じゃあさ、みーちゃんのお父さんたちが仲良くなるまで、一緒に遊ぼうよ!」
差し出された右手。
一瞬だけ迷ったけれど、その笑顔に抗えなかった。
気づけば、小さな手はその温もりをぎゅっと握り返していた。
*
二人は夢中で遊んだ。
ブランコを漕ぎ、滑り台を駆け上がり、鬼ごっこをして、砂場で山を作って。
ひとつ遊びを終えるごとに、美鈴の表情から不安の色は消えていく。
最初は遠慮がちに笑っていたのが、次第に声をあげて笑えるようになっていた。
(……楽しい。こんなに笑ったの、いつぶりだろう)
小さな胸の奥で芽生えた温かさは、蝉時雨よりも強く彼女を包んだ。
やがて遊び疲れた二人は、公園のすぐ近くにある小さな商店に立ち寄った。
「ラムネ、飲もうよ!」
爽は遠慮のない調子でポケットから硬貨を取り出し、瓶入りのラムネを二つ。
「はい、これ」
当然のように差し出され、美鈴は少し戸惑いながらも受け取った。
「これ……どうやって開けるの?」
ビー玉の浮かぶ独特な栓は、彼女にとって初めて見るものだった。
爽は「ふふん」と鼻を鳴らし、青いキャップを指で弾いた。
「こうやるんだよ! このキャップで上から押すんだ」
お手本を見せるように、瓶の口にキャップを当ててぐっと押し込む。
――ポンッ! ビー玉が落ちて、しゅわしゅわと泡が吹き出した。
「わっ……!」
思わず身を引いた美鈴の鼻先に、甘い炭酸の香りがふわりと広がる。
「ね、簡単でしょ? やってみなよ」
爽に促され、美鈴も恐る恐るキャップを押す。
けれど力加減が分からず、勢い余って中身があふれ出した。
「あ、ああぁ!」
慌てて両手で受け止める美鈴。炭酸で指先がひんやり冷たくなる。
爽は吹き出すように笑って、タオルでごしごしと拭ってやった。
「ははっ! すごいな、みーちゃん。初めてでここまで泡出す子、見たことない!」
「もう……笑わないでよ……」
唇を尖らせながらも、美鈴の目尻は自然にほころんでいた。
二人はごくごくと瓶を傾け、喉を潤す。
飲み終えた美鈴は、瓶の口に沈むビー玉をのぞき込んだ。
「このビー玉、とれないのかな?」
飲み終えた瓶を覗き込みながら、美鈴がぽつりとつぶやく。
爽はしばらく考えた後、きらきらと瞳を輝かせた。
「やってみよっか!」
棒で突っつき、逆さにして振り回し――。必死に挑む爽の横顔に、美鈴は胸の奥が妙に熱くなるのを感じていた。
結局、青色の蓋を逆に回すとあっさりビー玉は転がり落ちた。
「ほら! とれたよ!」
手のひらに載せられたガラス玉。
夕陽に透けるその光は、何よりも美しく見えた。
あのときの嬉しさと、彼のはしゃぐ姿は、美鈴の中で今も原風景となって残り続けていた。
*
夕方五時。
蝉の声が少しずつ弱まり、風が涼しさを帯び始めた頃。
「爽!」
慌ただしい声とともに、女性が駆け寄ってきた。爽の母だった。驚きと心配の入り混じった視線が、見知らぬ少女に注がれる。
するとその背後から、美鈴の両親も慌てて現れた。
強く抱きしめられ、涙ながらに名前を呼ばれる。
それでも、胸の奥の冷たさは消えなかった。
けれど――横で小さく手を振る爽の笑顔だけは、どうしても焼き付いて離れなかった。
これが彼との出会いで、最後の会話。
後になって振り返ってみれば、それは彼女にとっての初恋と呼べるものだったのかもしれない。
そんな過去の景色は、今も確かに熱を帯びたまま、十年の時を経ても美鈴の中に残り続けていた。
***
「……やっと、見つけた」
時がかなり進んだ今。
がらりと扉が開き、荒い息を整えながら爽が立っていた。
美鈴は思わず立ち上がり、驚きと困惑が入り混じった声を漏らす。
「なんで……菅谷くんがここに……?」
汗をぬぐいもせず、爽は真っ直ぐに言った。
「君を探してた」
「え……でも、私のことなんて……」
言いかけたその瞬間、爽は言葉を重ねる。
「間違いだったらごめんなんだけどさ。もしかして君って、“みーちゃん”? 昔、一緒に遊んだことあったよね?」
美鈴の瞳が大きく揺れる。
胸の奥が、ぎゅっと詰まったようだった。
忘れられないと思っていた記憶。なのに、なぜ今さら――。
爽はそっと続けた。
「さっき、第二体育館でピンポン玉を見つけたんだ。それを見た瞬間、昔のことを思い出した。真夏の公園で、ラムネ瓶からビー玉を出そうと必死になってた自分と……隣で笑ってた君のこと」
その言葉に、美鈴の頬を涙が伝った。
「……どうして今さら……」
「ごめん。僕にも色々あって……思い出せなかったんだ」
爽のまっすぐな眼差しに、美鈴はうつむき、唇を震わせる。
「……許さない……」
目尻に涙がにじむ。
その横顔を前に、爽はただ黙って彼女の傍に歩み寄る。
そしてためらうことなく、美鈴のすぐ隣に腰を下ろし、小さな手をそっと取った。
次の瞬間、堰を切ったように美鈴は泣き出した。
声を殺し、肩を震わせながら、ただ涙をあふれさせる。
爽は何も言わず、その横で静かに座り続けた。
――泣き止むまで、ずっと一緒に。
*
しばらくして、涙が落ち着くと、二人は自然と昔話を始めた。
公園の土管、蝉時雨。
遊具を駆け回ったこと。
そして、ラムネ瓶と、転がったビー玉。
「……ほんとうに、思い出してくれたんだね」
「うん……。ごめん、ずっと思い出せなくて」
そのやりとりだけで、美鈴の胸の奥に、さっきまでの冷たさが少しずつ和らいでいった。
やがて話題は、美鈴のこれまでに及んだ。
小学校のころ、両親の離婚。
医師である父に引き取られ、生活は足りていても、ずっと孤独だったこと。
言葉にするたび、重く沈んだ過去が零れ落ちる。
爽は一つも遮らず、ただ頷きながら聞き続けた。
気づけば、二人は二時間近く語り合っていた。
昼休みの開始を告げる予鈴が、校舎に鳴り響く。
「やっと見つけたぞ……」
不意にかけられた声に、二人は同時に顔を上げた。
教室の扉にもたれかかるように立っていたのは、爽の担任・宏太だった。
「……先生……」
爽はその姿を見た瞬間、校長から託された“任務”を思い出す。
美鈴を連れて行かなければならない。
その想いは、さっきまで聞いてきた彼女の言葉と重なり、より強く心に根を下ろしていた。
「糸川さん、一緒に行こう」
爽の差し出した手に、美鈴はわずかにためらう。
――現実に戻ることへの怖さ。
けれどその不安を、爽の声が包んでいく。
「大丈夫。僕も一緒だから」
胸に落ちたその言葉に、美鈴はようやく頷いた。
「……ありがとう。でも、もう大丈夫だよ」
そう、これは美鈴自身で解決しなければいけない問題だ。
この逃げ場としていた仮の居場所から、巣立つとき。
それは、美鈴自身が意志と覚悟をもって、立ち向かわなければならない。
そしてそのための力を、爽はもう既に十分すぎるくらいに与えてくれた。
これ以上、彼に甘えるわけにはいかない。だから―――、
「爽くん、話が終わったらまたラムネ、買いに行こうね!」
美鈴は自分の足で再び立つと、屈託のない笑顔で彼にそう投げかけた。
そのやり取りに宏太は肩をすくめる。
「何があったのかは知らねーけど、とりあえず糸川さん、校長が呼んでるから行くぞ。菅谷は後でサボりの件、説教なー」
気だるそうな声だけ残して先に歩き出す宏太。
けれどその背を見て、爽と美鈴は思わず小さく笑い合った。
そして、美鈴は歩き出す。
現実と向き合うために。
再び時計の針を進めるために。
父が待つ校長室へと――。