冷めた緑茶も、美味しくない
――ガチャリ。
校長室の扉が勢いよく開いた。
「はぁ……はぁ……っ!」
肩で息をする男子生徒に、長瀬貞夫は思わず目を丸くした。
「うわっ、驚いた……。菅谷君じゃないか」
眼鏡越しに視線を上げながら、手元の分厚いファイルを閉じる。ページをめくる手を止めたその仕草は、素直な驚きに満ちていた。
「来るのは構わないが、ノックくらいはしてほしいかな。それに……君、今は朝のホームルーム中のはずだろう? なぜここに?」
本当に予想外だったのだろう。声音には責めよりも、不思議そうな響きが強かった。
爽は額の汗を拭い、一歩前へ。
「それは……すみません。でも僕、校長にどうしても聞きたいことがあって……!」
「聞きたいこと?」
「はい……。糸川美鈴さんのことです。校長は……どこまで知っているんですか?」
その名を口にした瞬間、空気がわずかに張りつめる。息を切らせる爽に、貞夫は苦笑を浮かべた。
「とりあえず、そこに座りなさい。茶でも入れようじゃないか」
促されるまま、初めて黒革の椅子に腰を下ろす。柔らかな背もたれでも、胸のざわめきは収まらない。湯呑が差し出され、立ち上る湯気が鼻先をくすぐる。
「まあ、温かいうちに飲むといい。話は一息ついてからでも遅くはない」
言われるまま口に含む。――が、不思議と味が頭に入ってこない。焦燥に突き動かされ、爽はすぐ湯呑を茶たくに戻した。
「校長、さっきのことですけど――」
「糸川美鈴さんのことだろう?」
焚火のように静かな光を宿して、貞夫は言う。
「私もある程度は聞いているよ。……だが意外だね。君は確か、女子に苦手意識があったはずじゃなかったかい?」
「はい。僕は今も正直、女子が怖いです」
喉の奥が震える。それでも――
「でも……あの子だけは、放っておけない気がして」
「放っておけない、か」
「はい。理由は自分でも分かりません。でも……家出の噂を聞いて、しかも今朝、どこかへ走り去る姿を見て……居ても立ってもいられなくなったんです」
貞夫は小さく頷き、穏やかにまとめる。
「それで私の所へ来た、ということか」
「……はい。すみません」
「いいよいいよ。それだけ生徒のことを思って動けるのは素直に嬉しい」
茶をひとくち含み、肩を揺らして笑う。
「はぁ……青いなぁ」
「え?」
「青春真っただ中の男子って感じでね。大いに結構だ」
からかわれたようで、爽は思わず顔を赤らめる。
「校長、僕は真面目に……」
「分かっているよ。だからこそ教えよう。――私は、糸川さんの家出先に見当がついている」
「えっ……!」
胸が一気に高鳴る。
「それを一番聞きたかったんじゃないか?」
「……はい」
「ただ確証はない。ただね……糸川さんは中学の時にも一度、似たことをした記録がある。家庭に事情があるらしくてね。“極度な放任主義”と当時の書類にはあった」
「放任主義……」
「言い換えればネグレクトだね。両親は彼女が幼い頃に家庭の不和で離婚し、母親は遠方に暮らしている。父親は医師で多忙で、身近に頼れる親戚もいない」
爽は言葉を失い、拳を強く握った。
(……そんなの、あんまりだ)
「一度あることは二度ある。私は今回も、その延長だと見ている」
「……校長先生。僕、探してみます」
真っ直ぐな眼差しに、貞夫はふっと口元を緩めた。
「おいおい、入学したばかりでサボりとは感心しないな」
「僕……今は本気なんです」
言い切る声に、迷いはなかった。貞夫は小さく笑い、机上のペンを弄びながら言う。
「分かった。今回だけは目を瞑ろう。ただし一つ、君にお願いがある」
「お願い?」
「今日の昼過ぎに、糸川さんの父親が来校する。……それまでに彼女をこの場所へ連れてきてほしい」
「……!」
驚く爽へ、さらりと続ける。
「実は君が来る少し前に、三組の担任も泣きついてきてね。正直、私も頭を抱えていたところだ。どうやら彼女のお父さん、かなり厳しそうで……このまま放置しても、結局あの子自身が傷つくだろう」
爽は胸の奥に灯った炎を確かめるように、強く頷いた。
「分かりました。絶対、見つけ出します!」
その背に、貞夫は目を細める。
残された湯呑を手に取り、一口。――もう湯気は立っていない。
「ん……やっぱり、熱い方がいいな」
苦笑を浮かべ、冷めた緑茶を見つめて呟いた。
*
――一限目が始まり、校舎はしんと静まり返っていた。
教室の窓から差す朝の光が、無人の机を白く照らす。人の気配はない。
その中を、爽は息を切らしながら駆け回っていた。
普段は閉ざされた空き教室。
理科室、家庭科室、美術室、音楽室。
ひとつずつ扉を開けては中をのぞき、何度も首を振る。
(やっぱり……どこにもいない)
確かに校舎内にいると思っていた。だが三十分近く探しても、美鈴の影は見えない。
胸の奥に、ひやりとした疑念が広がる。
(……もしかして、もう学校にはいないのかな……?)
足が止まりそうになる。心臓がきゅっと縮む。ここまで必死に探しても、彼女はもう手の届かない場所へ――。
(……いや、まだ。諦められない)
唇を噛み、再び走る。ただ、放っておけない気持ちだけが胸の奥で燃えていた。
昇降口で交わした短い会話。
初対面のはずなのに、どこかよそよそしかった視線。
忘れているはずなのに、胸をざわつかせる言葉の端々――。
――避けてきたはずの女子に、なぜ自分はこれほど揺さぶられているのか。
答えのない問いが、背中を押す。
ふと、第二体育館の前に差しかかった。無意識に扉を押し開ける。がらんどうのフロアに埃が舞う。
床に、ひとつだけ転がっているものがあった。
――ピンポン玉。
真っ白で、新品同然。爽は思わずしゃがみ、手のひらでその軽さを確かめる。
次の瞬間。
脳裏に、鮮やかな記憶が弾けた。
――幼い日の夏。
川辺で笑っていた小さな女の子。
ビー玉を手渡した時に咲いた、花のような笑顔。
初めて会ったあの日、遠慮がちに交わした言葉。
自分のことを“みーちゃん”と呼んだ、二つ結びの――。
その面影が、いまの少女と重なる。
(……あの子って……まさか、みーちゃん?)
指先がびくりと震えた。錆びついていた記憶の錠前が、カチャ――と外れる感覚。
息が詰まる衝撃とともに、爽は立ち上がる。胸の奥で、何かがはっきりと繋がった。
迷いはなかった。
足は自然と、とある方向へ向いていた。
特別教室棟――その一番上の、一番奥。
ただの直感。けれど、冷めていたものに火をあてて熱が戻るような、確かな感覚。
袖口で汗を拭い、時計を見る。時刻はまだ午前十時前。まだ時間には余裕がある。
(――話すのには、十分かな)
確信にも似た予感に突き動かされ、爽はまっすぐその場所を目指して走り出した。
*
――しんと静まり返った特別教室棟の一番奥。
普段は使われることのない、小さな部屋に、美鈴はひとり腰を下ろしていた。
(もう、なんなの……)
胸の内をかき乱す困惑と不安が、圧縮された空気のように体を押し潰す。背中を丸め、リュックを抱きしめる。そうしてやっと、自分を守れている気がした。
きっかけは、今朝の担任からの連絡。
『糸川さん、今日の昼に時間もらえないかい?』
その声音だけで、だいたいの要件は察していた。
『昨日の話なら、あれ以上話せることはありません。ご心配をおかけしてすみませんですけど、本当に大丈夫ですので』
少し棘のある言い方だと分かっていた。けれど、それ以上掘り下げられたくなくて、言葉を早めた。
――しかし、担任は続けた。
『いや、実は君のお父さんが、今日の昼に来校されるんだ』
ドクン、と心臓が跳ねる。
信じたくない言葉。あまりにも唐突で、あまりにも最悪な知らせ。
『だから急だけど、三者面談を――って、糸川さん!』
言い終わるより早く、体は走り出していた。
廊下を、校舎を、息を切らせて駆け抜ける。
――そして辿り着いたのは、結局この場所。
ここは、校長が「使いたければ使いなさい」とそっと差し出してくれた仮の居場所。
ただし条件は一つ、「学校には顔を出すこと」。
本当は分かっている。
今日もちゃんと教室へ行くべきだった。
約束を破って、ここに閉じこもっている。――それを一番よく知っているのは私自身だ。
(……ごめんなさい、校長先生)
小さな声は暗がりに吸い込まれていく。けれど、だからといって足は動かない。
友達と笑っているはずなのに、心はどこか置いてけぼりになる。
父とはまともに言葉を交わせず、家族の輪から外れた実の母は遠くにいる。
会いたいと口に出せばいいのに、それさえ叶わない気がして――家に帰っても、空気だけが冷たい。
思いが積もり重なって、どうしようもなく息苦しくなって――結局、ここへ逃げ込んでしまった。
(……私、何をやってるんだろう)
自嘲に似た問いが浮かぶ。視界がじわりと滲みかけた、そのとき――
ガラガラッ!
不意に扉が乱暴に開かれる。
「……やっと、見つけた」
耳に飛び込んだ声に、美鈴ははっと顔を上げた。
肩で大きく息をする爽が、入口に立っている。
驚きと戸惑いが、一気に胸を満たす。
どうしてここが分かったの?
どうして私なんかを探しに来たの?
――そして、どうしてその顔が、少しだけ安心しているように見えるの……?
問いは次々と浮かぶのに、どれも声にならない。
胸の奥がじんわり熱くなる。リュックを抱える両腕に、無意識で力が入る。
不思議だ。久しぶりに再会したときとは、何かが決定的に違っていた。
以前の爽はただの同級生。どこか他人行儀な男の子。
けれど、いま目の前にいる彼は――自分を探し、見つけ出してくれた人。
(……どうして。どうして私なんかのために……?)
答えは分からない。
ただ、まっすぐに向けられた爽の瞳に射抜かれるたび、心拍はいやでも速くなる。
指先に伝わるリュックの布の温かさが、かすかに胸へ広がっていく。
そして、その奥で、小さな声が囁いた気がした。
――「もう、逃げなくてもいいのかもしれない」と。