表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
冷めたコーヒーは、美味しくない  作者: やわらぎメンマ
7/10

冷めた緑茶も、美味しくない

 ――ガチャリ。

 校長室の扉が勢いよく開いた。


 「はぁ……はぁ……っ!」

 肩で息をする男子生徒に、長瀬貞夫は思わず目を丸くした。


 「うわっ、驚いた……。菅谷君じゃないか」


 眼鏡越しに視線を上げながら、手元の分厚いファイルを閉じる。ページをめくる手を止めたその仕草は、素直な驚きに満ちていた。


 「来るのは構わないが、ノックくらいはしてほしいかな。それに……君、今は朝のホームルーム中のはずだろう? なぜここに?」


 本当に予想外だったのだろう。声音には責めよりも、不思議そうな響きが強かった。


 爽は額の汗を拭い、一歩前へ。

 「それは……すみません。でも僕、校長にどうしても聞きたいことがあって……!」


 「聞きたいこと?」


 「はい……。糸川美鈴さんのことです。校長は……どこまで知っているんですか?」


 その名を口にした瞬間、空気がわずかに張りつめる。息を切らせる爽に、貞夫は苦笑を浮かべた。


 「とりあえず、そこに座りなさい。茶でも入れようじゃないか」


 促されるまま、初めて黒革の椅子に腰を下ろす。柔らかな背もたれでも、胸のざわめきは収まらない。湯呑が差し出され、立ち上る湯気が鼻先をくすぐる。


 「まあ、温かいうちに飲むといい。話は一息ついてからでも遅くはない」


 言われるまま口に含む。――が、不思議と味が頭に入ってこない。焦燥に突き動かされ、爽はすぐ湯呑を茶たくに戻した。


 「校長、さっきのことですけど――」

 「糸川美鈴さんのことだろう?」


 焚火のように静かな光を宿して、貞夫は言う。

 「私もある程度は聞いているよ。……だが意外だね。君は確か、女子に苦手意識があったはずじゃなかったかい?」


 「はい。僕は今も正直、女子が怖いです」

 喉の奥が震える。それでも――

 「でも……あの子だけは、放っておけない気がして」


 「放っておけない、か」


 「はい。理由は自分でも分かりません。でも……家出の噂を聞いて、しかも今朝、どこかへ走り去る姿を見て……居ても立ってもいられなくなったんです」


 貞夫は小さく頷き、穏やかにまとめる。

 「それで私の所へ来た、ということか」

 「……はい。すみません」


 「いいよいいよ。それだけ生徒のことを思って動けるのは素直に嬉しい」

 茶をひとくち含み、肩を揺らして笑う。

 「はぁ……青いなぁ」


 「え?」


 「青春真っただ中の男子って感じでね。大いに結構だ」


 からかわれたようで、爽は思わず顔を赤らめる。

 「校長、僕は真面目に……」


 「分かっているよ。だからこそ教えよう。――私は、糸川さんの家出先に見当がついている」


 「えっ……!」


 胸が一気に高鳴る。

 「それを一番聞きたかったんじゃないか?」


 「……はい」


 「ただ確証はない。ただね……糸川さんは中学の時にも一度、似たことをした記録がある。家庭に事情があるらしくてね。“極度な放任主義”と当時の書類にはあった」


 「放任主義……」


 「言い換えればネグレクトだね。両親は彼女が幼い頃に家庭の不和で離婚し、母親は遠方に暮らしている。父親は医師で多忙で、身近に頼れる親戚もいない」


 爽は言葉を失い、拳を強く握った。

 (……そんなの、あんまりだ)


 「一度あることは二度ある。私は今回も、その延長だと見ている」


 「……校長先生。僕、探してみます」


 真っ直ぐな眼差しに、貞夫はふっと口元を緩めた。

 「おいおい、入学したばかりでサボりとは感心しないな」


 「僕……今は本気なんです」


 言い切る声に、迷いはなかった。貞夫は小さく笑い、机上のペンを弄びながら言う。


 「分かった。今回だけは目を瞑ろう。ただし一つ、君にお願いがある」


 「お願い?」


 「今日の昼過ぎに、糸川さんの父親が来校する。……それまでに彼女をこの場所へ連れてきてほしい」


 「……!」


 驚く爽へ、さらりと続ける。

 「実は君が来る少し前に、三組の担任も泣きついてきてね。正直、私も頭を抱えていたところだ。どうやら彼女のお父さん、かなり厳しそうで……このまま放置しても、結局あの子自身が傷つくだろう」


 爽は胸の奥に灯った炎を確かめるように、強く頷いた。

 「分かりました。絶対、見つけ出します!」


 その背に、貞夫は目を細める。

 残された湯呑を手に取り、一口。――もう湯気は立っていない。


 「ん……やっぱり、熱い方がいいな」


 苦笑を浮かべ、冷めた緑茶を見つめて呟いた。



 ――一限目が始まり、校舎はしんと静まり返っていた。

 教室の窓から差す朝の光が、無人の机を白く照らす。人の気配はない。


 その中を、爽は息を切らしながら駆け回っていた。

 普段は閉ざされた空き教室。

 理科室、家庭科室、美術室、音楽室。

 ひとつずつ扉を開けては中をのぞき、何度も首を振る。


 (やっぱり……どこにもいない)


 確かに校舎内にいると思っていた。だが三十分近く探しても、美鈴の影は見えない。

 胸の奥に、ひやりとした疑念が広がる。


 (……もしかして、もう学校にはいないのかな……?)


 足が止まりそうになる。心臓がきゅっと縮む。ここまで必死に探しても、彼女はもう手の届かない場所へ――。


 (……いや、まだ。諦められない)


 唇を噛み、再び走る。ただ、放っておけない気持ちだけが胸の奥で燃えていた。


 昇降口で交わした短い会話。

 初対面のはずなのに、どこかよそよそしかった視線。

 忘れているはずなのに、胸をざわつかせる言葉の端々――。


 ――避けてきたはずの女子に、なぜ自分はこれほど揺さぶられているのか。

 答えのない問いが、背中を押す。


 ふと、第二体育館の前に差しかかった。無意識に扉を押し開ける。がらんどうのフロアに埃が舞う。

 床に、ひとつだけ転がっているものがあった。


 ――ピンポン玉。


 真っ白で、新品同然。爽は思わずしゃがみ、手のひらでその軽さを確かめる。


 次の瞬間。

 脳裏に、鮮やかな記憶が弾けた。


 ――幼い日の夏。

 川辺で笑っていた小さな女の子。

 ビー玉を手渡した時に咲いた、花のような笑顔。

 初めて会ったあの日、遠慮がちに交わした言葉。

 自分のことを“みーちゃん”と呼んだ、二つ結びの――。


 その面影が、いまの少女と重なる。


 (……あの子って……まさか、みーちゃん?)


 指先がびくりと震えた。錆びついていた記憶の錠前が、カチャ――と外れる感覚。

 息が詰まる衝撃とともに、爽は立ち上がる。胸の奥で、何かがはっきりと繋がった。


 迷いはなかった。

 足は自然と、とある方向へ向いていた。

 特別教室棟――その一番上の、一番奥。


 ただの直感。けれど、冷めていたものに火をあてて熱が戻るような、確かな感覚。

 袖口で汗を拭い、時計を見る。時刻はまだ午前十時前。まだ時間には余裕がある。

 (――話すのには、十分かな)

 確信にも似た予感に突き動かされ、爽はまっすぐその場所を目指して走り出した。



 ――しんと静まり返った特別教室棟の一番奥。

 普段は使われることのない、小さな部屋に、美鈴はひとり腰を下ろしていた。


 (もう、なんなの……)


 胸の内をかき乱す困惑と不安が、圧縮された空気のように体を押し潰す。背中を丸め、リュックを抱きしめる。そうしてやっと、自分を守れている気がした。


 きっかけは、今朝の担任からの連絡。

 『糸川さん、今日の昼に時間もらえないかい?』

 その声音だけで、だいたいの要件は察していた。


 『昨日の話なら、あれ以上話せることはありません。ご心配をおかけしてすみませんですけど、本当に大丈夫ですので』


 少し棘のある言い方だと分かっていた。けれど、それ以上掘り下げられたくなくて、言葉を早めた。


 ――しかし、担任は続けた。


 『いや、実は君のお父さんが、今日の昼に来校されるんだ』


 ドクン、と心臓が跳ねる。

 信じたくない言葉。あまりにも唐突で、あまりにも最悪な知らせ。


 『だから急だけど、三者面談を――って、糸川さん!』


 言い終わるより早く、体は走り出していた。

 廊下を、校舎を、息を切らせて駆け抜ける。

 ――そして辿り着いたのは、結局この場所。


 ここは、校長が「使いたければ使いなさい」とそっと差し出してくれた仮の居場所。

 ただし条件は一つ、「学校には顔を出すこと」。


 本当は分かっている。

 今日もちゃんと教室へ行くべきだった。

 約束を破って、ここに閉じこもっている。――それを一番よく知っているのは私自身だ。


 (……ごめんなさい、校長先生)


 小さな声は暗がりに吸い込まれていく。けれど、だからといって足は動かない。


 友達と笑っているはずなのに、心はどこか置いてけぼりになる。

 父とはまともに言葉を交わせず、家族の輪から外れた実の母は遠くにいる。

 会いたいと口に出せばいいのに、それさえ叶わない気がして――家に帰っても、空気だけが冷たい。

 思いが積もり重なって、どうしようもなく息苦しくなって――結局、ここへ逃げ込んでしまった。


 (……私、何をやってるんだろう)


 自嘲に似た問いが浮かぶ。視界がじわりと滲みかけた、そのとき――


 ガラガラッ!


 不意に扉が乱暴に開かれる。


 「……やっと、見つけた」


 耳に飛び込んだ声に、美鈴ははっと顔を上げた。

 肩で大きく息をする爽が、入口に立っている。


 驚きと戸惑いが、一気に胸を満たす。

 どうしてここが分かったの?

 どうして私なんかを探しに来たの?

 ――そして、どうしてその顔が、少しだけ安心しているように見えるの……?


 問いは次々と浮かぶのに、どれも声にならない。

 胸の奥がじんわり熱くなる。リュックを抱える両腕に、無意識で力が入る。


 不思議だ。久しぶりに再会したときとは、何かが決定的に違っていた。

 以前の爽はただの同級生。どこか他人行儀な男の子。

 けれど、いま目の前にいる彼は――自分を探し、見つけ出してくれた人。


 (……どうして。どうして私なんかのために……?)


 答えは分からない。

 ただ、まっすぐに向けられた爽の瞳に射抜かれるたび、心拍はいやでも速くなる。


 指先に伝わるリュックの布の温かさが、かすかに胸へ広がっていく。


 そして、その奥で、小さな声が囁いた気がした。

 ――「もう、逃げなくてもいいのかもしれない」と。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ