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冷めたコーヒーは、美味しくない  作者: やわらぎメンマ
6/10

やがて火種は、炎になる

 ――ガチャリ。

 校長室の扉が閉まると同時に、廊下に三人分の靴音が遠ざかっていく。


 「……新年度早々に、こんな問題は参るな」

 それは、美鈴の担任のぼやきだった。

 横を歩く学年主任も「保護者対応、骨が折れる。はぁ……胃が痛い……」と低く応じる。


 たまたまその場を通りかかった由奈は、足を止めて耳を澄ませた。

 胸の奥がざわりと波立つ。

 (お父さん、今度は何を……)


 昼の一時過ぎ、糸川美鈴が家出した旨の保護者からの連絡が教務室に広まっていた。

 由奈は、校長室から出てきた顔ぶれを見て確信する。

 (やっぱり……糸川さんの件で動いてる)


 その直感を確かめるように、由奈はまっすぐと校長室へ駆け込んだ。


 ――コン、コン。

 返事はない。

 由奈が扉を押し開けると、窓際に背を向けて立つ長瀬貞夫の姿があった。


 「おや、珍しいお客様だ」

 振り返った父は、焚火のように穏やかな笑みを浮かべている。


 「お父さん。さっきの学年主任と、3組の加藤先生だよね?

 今度は何して困らせてたの? ……もしかして、糸川さんのこと?」

 由奈は一歩踏み出し、まっすぐ問いかけた。


 「おや、由奈も知ってたか」

 貞夫はわざとらしく目を丸くしてみせ、いつもと変わらない柔らかな笑みを浮かべる。

 「……なるほど、あの件はもう職員室にまで広まっているのか」

 軽く頷きながら、机の上のペンを指先で転がした。


 そして小さく息を吐き、肩をすくめて続ける。

 「だが由奈、君は一つ勘違いしている」

 「勘違い?」

 唐突な指摘に、由奈は反射的に言いながら眉をひそめる。

 

 「私は学年主任や加藤先生を困らせようなんて、微塵も思っていない。ただ私はね、生徒を守ろうとしているだけだよ」


 「守る?」

 由奈は声を強める。そして唇をかむと、胸の奥に湧いた苛立ちを押し殺しながら言う。

 「でも……それって、お父さんが何か糸川さんに吹きかけたんじゃないの?」



 「吹きかけたなんて、ひどい言われようだね」

 貞夫は小さく苦笑いを浮かべながら、言葉を続ける。

 「あくまで彼女が選んだことさ。私はただ――その選択肢を見えるようにしただけだ」


 しばしの沈黙。

 すると貞夫は指を組み、由奈にまっすぐと向き合った。

 そして彼は、理路整然と言葉を続ける。

 

 「糸川美鈴さんは家には帰っていない。だが、学校には顔を出している。――つまり彼女は、“居場所を選んでいる”んだ」


 「居場所……?」

 由奈は再び眉をひそめる。


 「そう。家庭という枠を離れたがっているが、不登校になるわけでもない。……ならば、学校が一時的に“居場所”を与えてやるのも教育の一つだろう。いずれ、君たちにも分かる時が来るさ」


 「……」

 由奈は唇を噛む。

 だが父の瞳から目を逸らさなかった。


 貞夫は焚火に薪をくべるように言葉を置いた。

 「由奈も、そして宏太君も……。いずれ“糸川さんの本心”に触れる時が来るだろう。教師として、同じ生徒を預かる者としてね」

 やけに断定的にいう貞夫の言葉に、由奈はなおも鋭く父を見据え続ける。

 

 そんな父に由奈は両手を後ろで組むと、

 「そっか。でも少なくても今の私は、何にも納得できてないからね」

 少し反抗の意志を込めた口調でそう吐き捨てながら、それきり顔を見せないまま冷たい扉の取っ手を握った。

 

 結局、由奈は校長に一番近い存在でありながら、何一つ核心に迫ることが出来ないまま、この日は校長室を後にするのだった。

 

 



 ―――翌朝、始業前の教室。

 爽は自分の席で教科書を閉じながら、この日一日感じていた漠然とした不安に苛まれていた。


 「なぁ、聞いたか? 糸川さんのこと」

 隣の席の男子が、ショートホームルーム前に小声で囁く。

 「家出してるらしいぞ」


 「え、マジ? あの可愛い女子?」

 別の生徒が声を潜めながら、会話を続けた。

 「でも今日も学校に来てたじゃん。普通に友達と話してたし」

 「だから余計にヤバいんだって。俺も昨日知ったんだけど、昨日の昼休みが終わった後、三組の担任がすげぇ焦ってたらしい」


 ひそひそ声が、爽の耳に嫌でも届く。

 胸の奥がざわめく。


 (……糸川、美鈴……)


 あの日、昇降口で声をかけてきた少女の顔が脳裏に浮かぶ。

 大きな瞳と、少し跳ねた黒髪のポニーテール。

 「久しぶり」と言った時の、あのかすかな期待をにじませた笑み。


 (僕は……何も思い出せなかった)


 記憶の靄が晴れないまま、彼女の名だけが頭にこびりついている。

 だが今、彼女が“家に帰っていない”と知り、心の奥で何かが強くきしんだ。


 「……」

 気づけば、爽は視線を窓の外に向けていた。

 爽の教室前に伸びる廊下。

 そこにはまさに噂の的になっている糸川美鈴が、友達数人と普通に登校している様子が目に入った。その横顔はとても家出をする事情を抱えているようには見えない。

 だがそれが逆に、爽の心の中で妙な違和感が一層鼓動を強く打たせる。


 (本当に……大丈夫なのかな)


 胸の内で言葉が形を持つ。

 そうしてまもなく、糸川美鈴は一人のスーツ姿の男に呼び止められた。

 あれは確か、三組の担任教師だ。

 糸川美鈴と三組の担任教師は、何やら軽く言葉を交わす。

 

 するとしばらくして、明らかに美鈴の表情が少し険しいものになった。かと思えば糸川美鈴は急に廊下を駆け出す。

 予備止めようと三組の担任教師は腕を伸ばしていたが、そこには既に彼女の姿はなかった。

 

 廊下はちょっとした騒めきを見せる。

 それは自教室のすぐ目の前だったこともあり、爽のクラスである7組は元々広まりつつあった噂も相まって、ちょっとしたゴシップになりつつあった。


 そんな空気の中、爽の心中でさらに彼女の存在が強くねじ込まれていく。 

 「他人事じゃない」――そんな感覚が、自然と彼を突き動かしていた。

 まさにその瞬間―――


 「ほら、お前ら席に着け。さっさとホームルーム終わらせっぞ」

 

 担任の宏太が肩に出席簿を当てながら、気だるそうな様子で教室に入ってきた。

 それと同時に、大人しく担任の指示に従って自席に戻ろうとするクラスメイトたち。

 だが爽は、そんなクラスメイト達を横目に、意を決して鞄を肩にかけた。

 (……知りたい。糸川さんのことを)


 自分でも驚くほど迷いはなかった。

 爽はクラスメイトが全員着席する中、一番後ろの扉めがけて堂々と歩き進める。

 

 当然、教室の後ろに座るクラスメイトからは懐疑的な視線を浴び、宏太からも、

 「おい、菅谷。お前どこ行く気だ?」

 そんな驚き半分、気だるさ半分の声が響く。

 

 前に座るクラスメイトもこちらに視線を向けてきた。

 クラスメイトと担任の視線が、すべて爽に注がれる。

 

 ”僕に関係ないはずなのに――どうしても放っておけない”

 

 爽は内心で湧いて出た気持ちと共に、片方の肩に担いだカバンのひもを強く握ると、迷いない口調で、

 「僕、今日だけサボります!」

 堂々とらしくないことを宣言しながら、教室を駆け出した。

 爽の駆け出す背中には、彼自身もまだ気づかぬ“納得できない衝動”が確かに灯っていた。

 

 

 「おいっ!ちょっと!」

 呆気にとられつつも、宏太はそれ以上彼を追いかけようとはしない。

 

 クラス内は爽の突然の奇行に、

 「え、大丈夫かな?」「急にどうしたんだろ」

 という心配の声が上がる。

 

 「はぁ……」

 訳が分からないなりに、宏太は深々と溜息を吐く。

 そして仕切り直しと言わんばかりに、

 「お前ら、とりあえず静かにしろ。堂々とサボりかましたアイツは、後で俺がシバーーーじゃなくて、事情聴取する。とりあえず、連絡事項だけ伝えとくぞ―ーー」

 一瞬、”シバく”と言いかけた本音を、クラスの女子生徒から向けられた殺気じみた視線をヤバいと感じた宏太は、そう言い直しながら事務的な連絡事項をひとまず淡々と読み上げたのだった。

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