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冷めたコーヒーは、美味しくない  作者: やわらぎメンマ
4/10

一時の住処は、どこか心地いい

 翌日の放課後。

 昇降口に続く廊下は、下校する生徒たちのざわめきで溢れていた。

 友達同士で笑いながら靴を履き替える声、部活動に向かう掛け声、駆け足で走り去る運動部員の足音。

 そんな喧騒を背に、美鈴は一人きりで指定された場所―――校長室の前で立ち尽くしていた。


 (……本当に来ちゃった)


 校長に言われた通り、今朝からリュックを学校へ持ってきていた。

 けれど大きくてかさばるそれは、教室に置くわけにもいかず、校舎裏の物置の影にそっと隠してある。

 「荷物は持たずに来なさい」と言われた通りにしたのだが――それが何を意味するのか、やっぱりわからない。


 窓の外では、夕陽が校庭を赤く染めている。

 部活の声も少しずつ遠のき、校舎はゆっくりと静けさに包まれていく。


 「糸川さん、こっちだ」

 突如響いた、低く落ち着いた声。


 驚きながらも顔を上げると、右手の廊下に校長・長瀬貞夫が手を挙げて立っていた。

 昨日の公園での言葉が、その姿と重なる。

 「放課後になったら、とりあえず荷物は持たずに私のところに来なさい」


 そのときは意味がわからなかった。けれど、今ならほんの少しだけ理解できる。

 ――これはきっと「逃げ場」じゃなくて、「居場所」のことなんだ。


 「……はい」

 美鈴は小さく返事をして、彼の後に続いた。



 案内されたのは、校舎の一番奥。

 理科準備室や古びた資料室が並ぶ、普段ほとんど生徒が来ない一角だった。

 人気のない廊下は夕陽に染まり、窓ガラス越しに伸びた木々の影が床を覆っている。


 「ここだよ」

 立ち止まった貞夫が、古びた木の扉に手をかける。


 ――ギィ、と軋む音と共に開いた教室の中。

 埃をかぶった机や棚がいくつか並び、窓から差し込む夕陽に照らされていた。

 静かなその空間はひんやりとして、しかしどこか落ち着ける空気を纏っている。


 「君が持ってきた荷物は、ここに置くといい」

 そう言ってから、貞夫は窓際に腰かけ、ひと呼吸置いて続けた。


 美鈴はしばらく黙っていたが、やがて小さな声で問いをこぼした。

 「……どうして校長は、こんなにしてくれるんですか」

 その声は、自分でも驚くほど弱々しかった。


 貞夫は腕を組み、窓の外に目を向けながら、穏やかに答える。

 

 「実を言うとね、昨日の放課後、菅谷君が私のところに来ていたんだ」

 「……爽くんが?」


 美鈴のポニーテールがひとつ跳ねた。

 同時に心臓の鼓動も早くなる。

 校長が自分の“気になる名前”を知っているとは、まだ夢にも思っていない。


 「“同好会”の件で呼んだのだが……その最中、彼の様子が少しおかしくなってね」

 焚火を見つめるような穏やかな声で語られる。

 だが美鈴の胸の奥では、見えない炎がざわざわと騒ぎ立っていた。


 「放課後、ある女子から声をかけられたそうだ。そのとき、どこか言葉に詰まっていた。……気になって私は尋ねてみたんだ」

 そして、ゆっくりと言葉を継いだ。


 「ちなみに、その女子の名前を聞いてもいいかい? とね」


 返ってきた答えを、貞夫はそのまま美鈴へ返す。

 「糸川美鈴さん、という子でした――と」


 ――カチリ。

 胸の奥で、何かが外れるような音がした。


 美鈴の視界がぐらりと揺れ、夕陽に染まった壁が滲んで見える。

 名前を呼ばれただけで、こんなにも心臓が痛いなんて。

 彼女は喉を震わせたが、うまく言葉が出てこない。


 「な……っ」

 掠れた声が漏れる。


 貞夫は眉一つ動かさず、その反応を正面から受け止めた。

 「私はその名前が気になって、入学時の資料を確かめた。……そこには、君がかつて“家出をして学校に身を寄せていた”という記録が残っていたよ」


 淡々とした口調。

 まるで事務的に述べるだけなのに、不思議とその言葉には温度があった。


 「そして昨夜。偶然にも公園で荷物を抱えている君を見かけた。……これは、“ただの偶然”として片付けるわけにはいかないと思ったんだ」


 美鈴は俯き、握った拳が震えているのを止められなかった。

 ――爽くんの名前が、私をここまで連れてきた。

 そして、この人は私を“ちゃんと見ている”。


 そのことが、どうしようもなく苦しくて、同時に少しだけ安心でもあった。


 「だからここをしばらく、君の居場所にと思ってね」

 静かにそう言った貞夫の声は、なぜだか焚火の炎のように胸に沁みた。

 

  だがふと、美鈴はある一つの疑問が頭によぎる。

 思い立ったように顔を上げ、彼女は貞夫に尋ねた。

 「……でも、どうして荷物は“今”じゃだめだったんですか?」

 その方が明らかに、二度手間にならずに済んだはずだ。


 だが貞夫は窓の外に視線をやり、少し笑みを浮かべた。

 「君が自分で選んで来ることに意味があるからだよ。もし最初から荷物ごとここへ来ていたら、それは“逃げ込んだ”ことになってしまうだろう?」


 そこで言葉を切り、わずかに声を落とす。

 「……それにね、今は世間の目が厳しくてね。家出をした少女をそのまま匿ったとなれば、大人は――社会的に殺されてしまうんだ」


 深刻そうに言いながら、貞夫は肩をすくめて笑ってみせた。

 「まったく、怖い世の中だろう? 下手をすれば“人さらい校長”なんて新聞に書かれてしまう」


 美鈴は思わず「ぷっ」と息を漏らす。緊張で固まっていた胸の奥に、わずかな隙間ができた。


 「だからこそ、“君が選んで持ってくる”という形にする必要があったんだ。そうすれば誰も“匿った”とは言わない。これは君の居場所であって、逃げ場じゃない。――私はただ、そのきっかけを用意したに過ぎない」


 ユーモアの奥にある真剣さが、かえって美鈴の胸に深く沁みていった。

 貞夫の口調は軽いのに、その裏にある真剣さは隠しきれない。

 “逃げ場じゃなく、居場所”――その言葉が胸の奥にじんわりと染みていく。


 「……居場所……」

 小さく呟いた美鈴は、自分でも気づかないうちにリュックを抱きしめていた。

 重たかったはずのそれは、不思議とさっきよりも軽い。


 まだ不安は消えていない。

 爽に忘れられたままの過去も、家の冷たい空気も、そのまま残っている。

 でも、ここなら――ほんの少しだけ呼吸ができる気がした。


 貞夫はそんな彼女を見て、「そうだった」と何かを思い出したかのように口を開く。

 

 「此処を使うのであれば、3つだけ条件がある」

 「条件、ですか?」


 「一応この学校は、警備員が夜中巡回している。だから不用意に出歩かないようにするんだ」

 窓の外を見やりながら、まるで自分自身に言い聞かせるように言う貞夫。

 そこで一拍置き、声を少し落とす。


 「それと、ここからが一番大切な条件だ。……まずは親に、最低限の“安心させる言葉”を残しなさい。完全に姿を消すのは一番危ない。少なくとも、心配で眠れなくさせるような真似はしてはいけないよ」


 美鈴は小さく目を伏せ、頷いた。


 「それから、毎朝必ずクラスには顔を出すこと。どれだけ疲れていてもね。学校にいる限り、君は日常を保っていられる。居場所を守りたいなら、表の生活もきちんと維持するんだ」


 言葉の一つひとつが、静かに胸に刻まれていく。


 「この“家出”自体は、君自身が落としどころを作るんだ。それまでの間は、いくらでもこの場所を居場所にしていい。……あとは、君が選びなさい」


 そう言って貞夫は立ち上がり、ポケットから小さな鍵を取り出した。

 「私はそろそろ行くよ。この鍵は、君に預ける。後は君自身で、答えを出してみなさい」


 美鈴の手に冷たい金属が落ちる。それを彼女は両手で大事に受け止めた。

 その重みは決して軽くない。けれど――なぜか心の奥で、温かさが広がっていくのを感じた。

 

 そして校長は、廊下の外へと歩みを進める。

 そんな彼の背中に美鈴は、「校長先生!」と呼びかけた。

 「その……ありがとうございます」

 お礼と敬意を込めて、美鈴は深々とお辞儀をする。

 貞夫はそれにただ、軽く微笑みだけを返して、今度こそ扉の向こうへと姿を消した。


 残されたのは美鈴ただ一人。

 掌には、渡されたばかりの鍵の冷たさがまだ残っている。

 けれど不思議と、その冷たさの奥には小さな温もりが灯っている気がした。


 胸の奥にはまだ、不安や迷いが色濃く沈んでいる。

 けれど――その温もりは、冷たい夜風をほんの少しやわらげ、呼吸を楽にしてくれる。


 美鈴はそっと鍵を握りしめた。

 その重みを確かめながら、初めて「ここに置いてもいい自分の心」を見つけたような気がした。

思いのほか、執筆が快調に進みました。

ですが明日から仕事があるので、次の更新は1週間後になると思います。


本作は毎週日曜日の19時更新を目標にしますので、もし作品の雰囲気が気にって頂けましたら、ぜひブクマしていただけたら嬉しいです。

引き続きお付き合いいただけたら嬉しいです!


では、また次の更新で。


ーー

やわらぎ メンマ

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