一時の住処は、どこか心地いい
翌日の放課後。
昇降口に続く廊下は、下校する生徒たちのざわめきで溢れていた。
友達同士で笑いながら靴を履き替える声、部活動に向かう掛け声、駆け足で走り去る運動部員の足音。
そんな喧騒を背に、美鈴は一人きりで指定された場所―――校長室の前で立ち尽くしていた。
(……本当に来ちゃった)
校長に言われた通り、今朝からリュックを学校へ持ってきていた。
けれど大きくてかさばるそれは、教室に置くわけにもいかず、校舎裏の物置の影にそっと隠してある。
「荷物は持たずに来なさい」と言われた通りにしたのだが――それが何を意味するのか、やっぱりわからない。
窓の外では、夕陽が校庭を赤く染めている。
部活の声も少しずつ遠のき、校舎はゆっくりと静けさに包まれていく。
「糸川さん、こっちだ」
突如響いた、低く落ち着いた声。
驚きながらも顔を上げると、右手の廊下に校長・長瀬貞夫が手を挙げて立っていた。
昨日の公園での言葉が、その姿と重なる。
「放課後になったら、とりあえず荷物は持たずに私のところに来なさい」
そのときは意味がわからなかった。けれど、今ならほんの少しだけ理解できる。
――これはきっと「逃げ場」じゃなくて、「居場所」のことなんだ。
「……はい」
美鈴は小さく返事をして、彼の後に続いた。
*
案内されたのは、校舎の一番奥。
理科準備室や古びた資料室が並ぶ、普段ほとんど生徒が来ない一角だった。
人気のない廊下は夕陽に染まり、窓ガラス越しに伸びた木々の影が床を覆っている。
「ここだよ」
立ち止まった貞夫が、古びた木の扉に手をかける。
――ギィ、と軋む音と共に開いた教室の中。
埃をかぶった机や棚がいくつか並び、窓から差し込む夕陽に照らされていた。
静かなその空間はひんやりとして、しかしどこか落ち着ける空気を纏っている。
「君が持ってきた荷物は、ここに置くといい」
そう言ってから、貞夫は窓際に腰かけ、ひと呼吸置いて続けた。
美鈴はしばらく黙っていたが、やがて小さな声で問いをこぼした。
「……どうして校長は、こんなにしてくれるんですか」
その声は、自分でも驚くほど弱々しかった。
貞夫は腕を組み、窓の外に目を向けながら、穏やかに答える。
「実を言うとね、昨日の放課後、菅谷君が私のところに来ていたんだ」
「……爽くんが?」
美鈴のポニーテールがひとつ跳ねた。
同時に心臓の鼓動も早くなる。
校長が自分の“気になる名前”を知っているとは、まだ夢にも思っていない。
「“同好会”の件で呼んだのだが……その最中、彼の様子が少しおかしくなってね」
焚火を見つめるような穏やかな声で語られる。
だが美鈴の胸の奥では、見えない炎がざわざわと騒ぎ立っていた。
「放課後、ある女子から声をかけられたそうだ。そのとき、どこか言葉に詰まっていた。……気になって私は尋ねてみたんだ」
そして、ゆっくりと言葉を継いだ。
「ちなみに、その女子の名前を聞いてもいいかい? とね」
返ってきた答えを、貞夫はそのまま美鈴へ返す。
「糸川美鈴さん、という子でした――と」
――カチリ。
胸の奥で、何かが外れるような音がした。
美鈴の視界がぐらりと揺れ、夕陽に染まった壁が滲んで見える。
名前を呼ばれただけで、こんなにも心臓が痛いなんて。
彼女は喉を震わせたが、うまく言葉が出てこない。
「な……っ」
掠れた声が漏れる。
貞夫は眉一つ動かさず、その反応を正面から受け止めた。
「私はその名前が気になって、入学時の資料を確かめた。……そこには、君がかつて“家出をして学校に身を寄せていた”という記録が残っていたよ」
淡々とした口調。
まるで事務的に述べるだけなのに、不思議とその言葉には温度があった。
「そして昨夜。偶然にも公園で荷物を抱えている君を見かけた。……これは、“ただの偶然”として片付けるわけにはいかないと思ったんだ」
美鈴は俯き、握った拳が震えているのを止められなかった。
――爽くんの名前が、私をここまで連れてきた。
そして、この人は私を“ちゃんと見ている”。
そのことが、どうしようもなく苦しくて、同時に少しだけ安心でもあった。
「だからここをしばらく、君の居場所にと思ってね」
静かにそう言った貞夫の声は、なぜだか焚火の炎のように胸に沁みた。
だがふと、美鈴はある一つの疑問が頭によぎる。
思い立ったように顔を上げ、彼女は貞夫に尋ねた。
「……でも、どうして荷物は“今”じゃだめだったんですか?」
その方が明らかに、二度手間にならずに済んだはずだ。
だが貞夫は窓の外に視線をやり、少し笑みを浮かべた。
「君が自分で選んで来ることに意味があるからだよ。もし最初から荷物ごとここへ来ていたら、それは“逃げ込んだ”ことになってしまうだろう?」
そこで言葉を切り、わずかに声を落とす。
「……それにね、今は世間の目が厳しくてね。家出をした少女をそのまま匿ったとなれば、大人は――社会的に殺されてしまうんだ」
深刻そうに言いながら、貞夫は肩をすくめて笑ってみせた。
「まったく、怖い世の中だろう? 下手をすれば“人さらい校長”なんて新聞に書かれてしまう」
美鈴は思わず「ぷっ」と息を漏らす。緊張で固まっていた胸の奥に、わずかな隙間ができた。
「だからこそ、“君が選んで持ってくる”という形にする必要があったんだ。そうすれば誰も“匿った”とは言わない。これは君の居場所であって、逃げ場じゃない。――私はただ、そのきっかけを用意したに過ぎない」
ユーモアの奥にある真剣さが、かえって美鈴の胸に深く沁みていった。
貞夫の口調は軽いのに、その裏にある真剣さは隠しきれない。
“逃げ場じゃなく、居場所”――その言葉が胸の奥にじんわりと染みていく。
「……居場所……」
小さく呟いた美鈴は、自分でも気づかないうちにリュックを抱きしめていた。
重たかったはずのそれは、不思議とさっきよりも軽い。
まだ不安は消えていない。
爽に忘れられたままの過去も、家の冷たい空気も、そのまま残っている。
でも、ここなら――ほんの少しだけ呼吸ができる気がした。
貞夫はそんな彼女を見て、「そうだった」と何かを思い出したかのように口を開く。
「此処を使うのであれば、3つだけ条件がある」
「条件、ですか?」
「一応この学校は、警備員が夜中巡回している。だから不用意に出歩かないようにするんだ」
窓の外を見やりながら、まるで自分自身に言い聞かせるように言う貞夫。
そこで一拍置き、声を少し落とす。
「それと、ここからが一番大切な条件だ。……まずは親に、最低限の“安心させる言葉”を残しなさい。完全に姿を消すのは一番危ない。少なくとも、心配で眠れなくさせるような真似はしてはいけないよ」
美鈴は小さく目を伏せ、頷いた。
「それから、毎朝必ずクラスには顔を出すこと。どれだけ疲れていてもね。学校にいる限り、君は日常を保っていられる。居場所を守りたいなら、表の生活もきちんと維持するんだ」
言葉の一つひとつが、静かに胸に刻まれていく。
「この“家出”自体は、君自身が落としどころを作るんだ。それまでの間は、いくらでもこの場所を居場所にしていい。……あとは、君が選びなさい」
そう言って貞夫は立ち上がり、ポケットから小さな鍵を取り出した。
「私はそろそろ行くよ。この鍵は、君に預ける。後は君自身で、答えを出してみなさい」
美鈴の手に冷たい金属が落ちる。それを彼女は両手で大事に受け止めた。
その重みは決して軽くない。けれど――なぜか心の奥で、温かさが広がっていくのを感じた。
そして校長は、廊下の外へと歩みを進める。
そんな彼の背中に美鈴は、「校長先生!」と呼びかけた。
「その……ありがとうございます」
お礼と敬意を込めて、美鈴は深々とお辞儀をする。
貞夫はそれにただ、軽く微笑みだけを返して、今度こそ扉の向こうへと姿を消した。
残されたのは美鈴ただ一人。
掌には、渡されたばかりの鍵の冷たさがまだ残っている。
けれど不思議と、その冷たさの奥には小さな温もりが灯っている気がした。
胸の奥にはまだ、不安や迷いが色濃く沈んでいる。
けれど――その温もりは、冷たい夜風をほんの少しやわらげ、呼吸を楽にしてくれる。
美鈴はそっと鍵を握りしめた。
その重みを確かめながら、初めて「ここに置いてもいい自分の心」を見つけたような気がした。
思いのほか、執筆が快調に進みました。
ですが明日から仕事があるので、次の更新は1週間後になると思います。
本作は毎週日曜日の19時更新を目標にしますので、もし作品の雰囲気が気にって頂けましたら、ぜひブクマしていただけたら嬉しいです。
引き続きお付き合いいただけたら嬉しいです!
では、また次の更新で。
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やわらぎ メンマ